『空白の五マイル』の本を読む
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この本はノンフィクション賞を与えられたということで紹介されていた。
作者はチベット奥地に存在する[ツアンポー峡谷]の未踏、いわゆる空白といわれる五マイル(約8キロ)に興味を持ち、3度にわたりチャレンジされている。
単独になったり死ぬような目に遭ったり幾多の困難を乗り越えながら、滝の発見など大峡谷の大自然に挑まれる様子がわかった。
そこは18世紀から探検家や登山家の挑戦の対象になっていて、その人達の軌跡も書かれていた。
私自身は山が好きだから山の本などはよく読むのだが、このピークハンターではない探検という分野に、今の時代にこのようなすごい人がいたことに驚くような嬉しいような気持になった。
そして、自分には小さな冒険もできないので、こういう本を読むと刺激になるものだった。
先日はテレビの[情熱○○]でカヌーの八幡氏を紹介されていたが、これも興味深く見たものだ。
印象的だった二つの部分を抜粋して紹介したい。(興味があられたら読むことをお勧め)
人跡未踏の空白の五マイルに下り立ったといっても、私がやっていることといえば、延々と続く急斜面で苦行のようなヤブこぎをしているだけだった。なぜ過去に多くの探検家がこの場所を目指して挫折したのか私にはよく分かった。わざわざ苦労して地の果てのような場所に来ても、楽しいことなど何ひとつないのだ。シャクナゲやマツの発するさわやかなはずの緑の香りが、これ以上ないほど不愉快だった。自然が人間にやさしいのは、遠くから離れて見た時にだけ限られる。長期間その中に入り込んでみると、自然は情け容赦のない本質をさらけ出し、癒しやなごみ、一体感や快楽といった、多幸感とはほど遠いところにいることが分かる。
それでも多くの人はこう問うだろう。なぜ命をかけて、そこまでする必要があるのか、と。極論をいえば、死ぬような思いをしなかった冒険は面白くないし、死ぬかもしれないと思わない冒険に意味はない。過剰なリスクを抱え込んだ瞬間を忘れられず、冒険者はたびたび厳しい自然に向かう。そのようなある種の業が、冒険者を支配していることを否定することはできない。論理をつきつめれば、命の危険があるからこそ冒険には意味があるし、すべてをむき出しにしたら、冒険には危険との対峙という要素しか残らないだろう。冒険者は成功がなかば約束されたような行為には食指を動かされない。不確定要素の強い舞台を自ら選び、そこに飛び込み、その最終的な責任を受け入れ、その代償は命をもって償わなければならないことに納得しているが、それをやりきれないことだとは考えない。リスクがあるからこそ、冒険という行為の中には、生きている意味を感じさせてくれる瞬間が存在している。あらゆる人間にとっての最大の関心事は、自分は何のために生きているのか、いい人生とは何かという点に収斂される。いい人生とは何だろう・・・・。 |
