2012年5月
ここに戻ればいい…『志賀山三番叟』(5/26 平成中村座)はっきりとした筋を持った芝居が成立する以前は、このような踊りが演目の中心を占めたのだろう。 筋を演じる演技力以前の、踊れる身体の能力というものを、見せたのだろう。俺は踊りが得手だから、俺が踊る。皆で見て、楽しんでくれ。まだ、歌舞伎の興行は、そんな段階のことであろう。 凝った振りが付いているではなく、技巧を見せるではなく、素直な振りが積み重ねられていく。『志賀山三番叟』は、そんな踊りの原点を、また歌舞伎興行の原点を、感じさせる。現代の照明ではなく、蝋燭の灯りをイメージした薄暗い中で踊られたから、夜の江戸の芝居小屋が再現され、いっそう、踊りの原点が香ったのだと思う。 素朴な踊りでありながら、この勘九郎の踊りが面白い。素朴な振りであればこそ、これは踊り手だけのものとはならない。皆が共通して持っている、踊ることの喜びが、そこから立ち上がってくるようなのだ。特別な人が踊る特別な踊りではない。全ての人の、踊ることの喜びに忠実な踊りなのだ。そして、踊られる振りの純粋な面白さだけでなく、衣装を翻し、視線の動きを効かせ、舌を出しておどけてみせると、踊りの面白さはいや増していく。素朴なものでありながら、この踊りは、いかようにも観客を喜ばせるものなのだ。 いつでもここに、戻ってくればいい。そして、またここから、出発していけばいい。そんな心の拠り所となる踊りである。勘九郎は、そんなことを思いながら、踊ったのではあるまいか。役者・勘九郎の戻っていく場所が、出来たのではあるまいか。 踊り手も、観客も、ホッとして身を委ねることができる踊り。芝居小屋という場が、自然に生み出していった踊り。最初から、そこにあった踊り。 踊られる『志賀山三番叟』を見ているうちに、現代の役者・勘九郎が踊っているのではなく、芝居小屋に長年住み着いた芝居小屋の精が、踊っているのではと、私には思えてきた。平成中村座ロングランの最後を飾るに相応しい、踊りではなかったろうか。 追記:鶴松の千歳に切れがあり、とても凛々しい。道化の三番叟と好対を成していた。 |


