こんにちは!
今日の水戸は昨日までのぐずついた天気がうそのように、
まるで台風一過のようなさわやかな天気で、とても気持ち良いです。
さて、久しぶりに臨書をアップしてみます。
タイトルどおり、橘逸勢の『伊都内親王願文』の臨書です。
『伊都内親王願文』の魅力はたくさんあると思いますが、
ひとつには独特ともいえる渇筆を伴った味わい深い美しい線が挙げられると思います。
この線は独特の筆遣いや特に紙質に影響しているところが大きいと思いますが、
この線の魅力を自分の表現に取り入れられたら最高だと思います。
臨書のための臨書、コピペのためのコピペにならないようにするために、
目的を持って取り組めば、いろいろな発見をし、楽しく有意義な臨書ができ、
飽きることなどないと思います。
もし飽きるということがあるとしたら、それは惰性で枚数を重ねているだけか、
臨書のための臨書、コピペのためのコピペをしていると疑ったほうがよいかもしれません。
私自身もそういう気持ちになったときは、臨書の目的を再確認するようにしています。
前置きが長くなりましたが、まずは臨書した箇所の原帖です。
この独特の書きぶりは、ややもすると癖ともいえそうないきおいですが、
この癖ともいえそうな個性的な書きぶりになんとも惹きつけられます。
抜群の書美のセンスと正統を踏まえているから品格が保たれている、いや品格が増しているんだと思います。
そして渇筆を伴った独特の線・・・思わず川平慈英さんよろしく「ク〜〜ッ!」って言いたくなります!
この味わい深い美しい線をなんとかして自分の表現に取り入れてみたいものです。
ということで、今回は形はもちろんですが、それにも増して線に気を配って臨書してみました。
またこの美しい線は、墨量や運筆の速度が大いに関係しているのではないかという点にも注目してみました。
1枚目、例えば2文字目の「聞」を見てみると、運筆の速度の変化に気付きます。
緑の箇所の縦画は渇筆になっていますが、赤の箇所のハネでは渇筆にはなっていません。
これは緑の縦画ではやや運筆の速度が速く、
そして赤の箇所のハネでは筆の弾力をつけてからゆっくりとした速度で撥ねていると私には感じられます。
それを臨書で再現しようと試みました。
また4文字目の「父」の最終画。
例えば最終画の起筆から画の途中まで、つまり水色の箇所ではゆっくりと運筆し、
ピンクの箇所になると渇筆になっていて運筆の速度が速くなっていることを私は感じました。
その再現を試みました。
交差しているその前の左ハライも渇筆になっていて、この左ハライも運筆は速めなのかと感じました。
2枚目、例えば1文字目の「惟」。
緑色の箇所はやや渇筆になっていて、運筆の速度が速め、赤の箇所もまた同じ、
ところが、渇筆になるであろうと思える青の箇所では渇筆になっていません。
この青の箇所の運筆の速度はゆっくりなのだと私には感じられます。書者の運筆のリズム感を感じます。
3枚目、例えば1文字目の「悲」。
みずいろの箇所は比較的に速度をゆっくりと、緑の箇所では運筆が速くなったために渇筆になり、
赤の箇所では全くといっていいほどに渇筆はありません。
ということは、「心」の3画目の部分で十分に筆を立て直してから、穂に含まれている墨を下ろして、
穂先を利かせてゆったりとした速度で赤の箇所を書いていると私には感じられます。
また3文字目の「者」は全体に渇筆が多くなっています。
ところが最後の「日」の部分つまり赤の箇所では、
それまでよりも線が濃くなっていて、渇筆が抑えられていると私には感じられます。
まるで穂に残っている墨を絞り出すかのように、ゆっくりとじっくりと速度を落として書かれてあると感じました。
それにしても美しい渇筆です!
こうして臨書していくうちに、
書者の美的センス、運筆のリズム、その時の書者の心情や、環境、歴史的背景などを、
自分なりにイメージを膨らませて、たとえ小さいことだとしても発見し、気づき、
それらを自分の表現に生かせるとしたら、
書・書道をやるものとしてこれほど楽しく、うれしいことはないんじゃないかと思います。
それほど臨書には飽くなき魅力があると私は考えています。
わからないわからないではわからないままだと思います。それはネガティブ思考だと思います。
わからないならわからないなりに、教わっている先生に聞くとか、教則本で確かめるとか、
少しでもわかろう、理解しようという気持ちで臨書することが、
ポジティブ思考だと思いつつ私は臨書に取り組んでいます。
今回の『伊都内親王願文』の臨書をして、私自身また新たな発見があったのでワクワクしているところです。
何を発見できたかは・・・
ひみつ〜〜

今回は写実的臨書という段階になると思いますが、臨書では特に大切にしたい段階だと私は考えています。
昨今はこの段階を疎かにして、逃げ口上かのように意臨だとかいって、
表現ばかりを優先しているようなケースが多いような気がしてなりません。