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映画監督

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北野武 その1

ビートたけし(本名:北野武(きたの たけし)、1947年1月18日 - )は、東京都足立区梅島出身のテレビ司会者、お笑いタレント、映画監督、俳優、東京芸術大学大学院映像研究科教授(監督領域)、元漫才師(ビートきよしとともに、ツービートとして活動)。

オフィス北野に所属し、この事務所の中心人物でもある。タモリ・明石家さんまとともに、「日本のお笑いタレントビッグスリーBIG3」の一人にあげられ、また、映画監督としては世界的にも評価が高い。

愛称は「たけちゃん」「殿」「たけし」(所ジョージなどからは「オジさん」と呼ばれている)。映画監督関係では「北野武」、それ以外では「ビートたけし」を名乗ることが多い。

『学生時代』
塗装業の父・北野菊次郎(1897年-1977年)と母・北野さき(1904年-1999年)の四男(次男が夭折し、実質は三男として育つ)として生まれる。

東京都立足立高等学校を卒業し、明治大学工学部(現在の理工学部)機械工学科に入学するも中退。
その後、2004年に、特別卒業認定者に選ばれる。その為、学歴は、明治大学工学部卒である。学生時代はジャズに傾倒し、新宿の“LeftyCandy”を初めとしたジャズ喫茶や新宿アシベ、当時の文化人の交流の場所、風月堂にも入り浸っており、時たま乞われてジャズ喫茶のボーイもしていたがジャズの見識は一部で有名であった。

この頃は青春の葛藤期でもあり、プロボクサーを目指しジムに通い、また2種免許を取得してタクシーの運転手をしたりアルバイト三昧の漂う青春時代だった。

『前座時代』
その後、映画を観る為に浅草へ頻繁に通ううちに東京都台東区浅草にあったストリップ劇場・浅草フランス座のエレベーターボーイのアルバイトしていたが、同劇場を取り仕切る「浅草の首領」こと深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太(北野姓と師匠の名前から。尚名前は頻繁に変わった)としてコント(軽演劇)を学ぶ。

幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。前座仲間とのコントコンビでのデビューを目指すが、仲間の病気により頓挫。尚当時の同僚として作家の井上雅義がいる。

『ツービート結成』
舞台中心の昔の浅草と違いTVが台頭して来た浅草は隆盛時代と比べ物にならぬ程さびれて、観光地として以外の存在もなくなり実質ショウビジネスのメッカとしての終焉を迎えようとしていた。

当時浅草ロック座に在籍していた兼子二郎(ビートきよし。現・ビートキヨシ)に誘われて漫才を組むも全く芽が出ない為、兼子の発案で『有名な師匠の弟子になった方がいい』と戦略的に松鶴家千代若千代菊門下に入る。“わっかるかなあ わかんねえだろうなあ”のギャグで一世を風靡した松鶴家千とせは兄弟子にあたる。

元々はエノケンや古川緑波のように、ボードビリアンから銀幕デビュー迄を視野に入れて志も高く軽演劇を教えていた師匠の深見千三郎|深見は『色物をやる為に芸事を教えたんじゃねえ』とたけしを破門同然に突き放す。

一方。たけしはコンビ・松鶴家二郎次郎の二代目松鶴家次郎となり漫才師。後にコンビ名を空たかしきよし(たかしが北野。きよしが兼子。)にするが、この頃は兼子主導で漫才を進行させていた。さらにツービートと改名してからは、旧来のツッコミとボケのスタイルから脱却して、たけしがネタを一人で喋り続け、きよしが時折たしなめるというスタイルにチェンジするも売れる所までは行かず行き詰まる。

そんな折に大阪で新進漫才師として頭角を現して来たB&B (漫才)|B&Bのスタイルに触発され、スピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌した。この頃から漫画家の高信太郎や業界人から注目される中、太田プロ所属へ。

時はマンザイブーム(旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記)のムーブメントが起こり、「赤信号みんなで渡れば恐くない」などの毒舌漫才と毒舌ネタを売り物とした芸風に完全にシフトした。

しかし当時はアイドル性と女性ファンが取り囲むブームにより、B&B、ザ ぼんち、紳助竜助、のりおよしお等の後塵を浴びる3,4番目の人気順位であった。

しかしファンは圧倒的に男性が多かった特異のコンビであった。あくまで漫才でトップを狙うたけしを裏切るようにきよしから『漫才はきついからもうやめよう』とフジテレビTHE MANZAI-5 を最後にツービートは解散。

漫才時代は「ツービートの わっ毒ガスだ」等の著作も手がける。望まずしてピン芸人になったたけしはオールナイトニッポンやTHE MANZAIからの発展番組俺たちひょうきん族出演で“ピン芸人のビートたけし”として世間に知られるようになる。

『オールナイトニッポン』
ニッポン放送系の深夜放送ラジオ番組ビートたけしのオールナイトニッポンでビートたけしの評価は一気に高まる。

本人が当時を述懐するに『とにかく一人で喋ると間が空く事がものすごく恐かった』と言う通り、トークの速度はものすごく密度が濃い。

当時のファンの中心層であった大学生は必ずテープに録音してから何度も聞き直さないと全内容が捕捉出来なかった程であった。

ただ横で笑っているだけのように見られていた放送作家の高田文夫は、実はたけしのハイテンションを絶妙な間合いの合いの手で支えていた。

また当時は同じ事務所の(たけしが紹介した)片岡鶴太郎も供に参加していた。この番組から出た本は今で言う“語り起こし”で構成は主に高田によるものであった。

また、ハガキ職人と呼ばれた熱心な投稿者の存在も大きく、このスタイルは後のオールナイトニッポンのとんねるず等、お笑い系パーソナリティの放送構成モデルとなった。次第にそのまんま東をはじめとした弟子志願者が現れはじめ、日本一周をラジオで中継させたりする『弟子やめさせコーナー』もあり、鶴太郎と交代するようにたけし軍団も放送に加わる様になった。

放送の構成は週の出来事をおもしろおかしく話す事が大半だが、時に三島由紀夫に傾倒するや、2時間三島を語る等の“講義モード”もあった。また、中国で日本人修学旅行生が鉄道の大事故で亡くなる等、社会的な問題が起こった場合には放送をボイコットする事もり、風邪で体調不良で休む事もあった。このときは急遽軍団が番組を引き受けていた。

『オレたちひょうきん族』
明石家さんま、島田紳助、片岡鶴太郎たちと出演した『オレたちひょうきん族』(フジテレビジョンフジテレビ、メインはたけし)は、当時のお化け番組『8時だョ!全員集合』 (東京放送TBS) を放送終了に追い込み、80年代のバラエティ番組の金字塔となった。『オレたちひょうきん族』の人気コーナーで、たけしが主役のヒーローコント『THE タケちゃんMAN』は当時一世を風靡し、これにあやかって学校給食に「タケちゃんマンライス」なる料理が登場するようになった。

『バラエティの黄金期』
1982-1984あたりからTX気分はパラダイス等に出演している最中たけし軍団という弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為“ボーヤ”と呼ばれる)の人数が集まって来た事から、集団で行うバラエティの展開を模索しNTV系スーパージョッキー、TBS系笑ってポン、お笑いサドンデス等と相まって各種のスペシャル番組にも取り組むも、まだファン層は新しいものを求める男性の大学生や若年層社会人に限られたコアな認知度だった。また博識が評価されTBS世界まるごとHOWマッチ等で文化人的な出演要請も増えて来た。
1985年から過去の経験や蓄積したアイディアからバラエティの黄金期を迎える。

NTV=スーパーJOCKEY
NTV=天才!たけしの元気が出るテレビ
ANB=ビートたけしのスポーツ大将
TBS=風雲!たけし城
TBS=OH!たけし
TBS=世界まるごとHOWマッチ
CX=おれたちひょうきん族
LF=オールナイトニッポン
当時のレギュラー番組全てであるが、このうちNTV ANB TBS CX全ての20時台を最高視聴率をマークした。尚、たけし城、元気、スポーツ大将は企画構成は全て実質ビートたけし本人である。

その他放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、“たけしの挑戦状”等のゲーム制作も行っており、フライデー事件が起こる迄の期間はバラエティ時代の黄金期と言える。

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