書いとかないと忘れちゃうから「読書記録」

一言メッセージ :ウジャウジャ書いてる読書記録など。私は「日本チャチャチャ」の応援団長。 バレーじゃなくって、 日本と日本文化。

  • お気に入りブログに登録

読書記録(人物・伝記)

[ リスト ]

『保科正之』 中村彰彦  中央公論社 

イメージ 1
オリジナルのサイズの画像を見る場合はクリックしてください。

 徳川2代将軍・秀忠の子供でありながら、保科を名乗り続けた会津藩主・保科正之(1611〜1673)。社会に多大な功績を残した人物であるにもかかわらず、明治維新を境にこの人物のことは語られなくなった。故に今日では知らない人々が殆どである。

【江戸城本丸・天守閣・再建せず】
 江戸城本丸・天守閣は、五層五階地下一階の大建築であった。この天守閣が消失したのは1657年「明暦の大火」の際のこと。天守閣再建が検討されたとき、会津藩主・保科正之は主張した。
 「ただ世間を観望いたすのに便利だというだけの代物なれば、さようなものの再建に財力と人力を費やすよりも、むしろますます町屋の復旧に力を入れるべきでござろう」  (まえがき)
 保科正之の言にしたがって、今日の天守閣なき江戸城となっている。保科正之は、お上より民衆のことに心を向けていたのである。

【福祉制度の父】
 日本に初めて社会保障の一つの柱である「国民年金」を制定された坂田(道太)厚相が最近、会津を訪れ、三百年以前、既に会津という自然環境の中で為政者の人格と精神によって立派な老人福祉、社会福祉事業の実践が見られた事実を驚嘆されたのも尤もなことであった。
 アンリ・デュナンは、「国際赤十字の父」 といわれる。ならば保科正之こそは、殉死や子殺しを禁じ、社倉制度のみならず救急医療制度や国民年金制度まで日本で始めて制定した 「福祉制度の父」 というべき人物なのである。「名君」 とは、まさしく正之のためにあるような言葉と感じられてならない。 (p.127-128)
 今日の日本の 「国民年金」 はどうなっているのか。今日の日本社会の歪みは、近年の為政者達の極まりない愚劣な人格と精神によってもたらされている。
 
【知足の人】
 信州高遠三万石以上の藩主へのし上がろうとは思わず、従三位の官位も辞退し、松平の姓も、葵の紋も用いることを潔しとしなかった保科正之は、まさしく足るを知る人だった。 (p.129)

【保科正之は超能力者?】
 保科正之と同時代の藩儒・横田俊益の著した『土津(はにつ)神霊言行録』(「土津神霊」とは保科正之が生前に吉川惟足から与えられた諡号)によると、保科正之には、名探偵も顔負けの能力が備わっていたようだ。 (p.88・p.178)
 保科正之は、儒学や神道に深い見識を持つ優れた人格者であった。それが福祉実践に顕れている。このような知行合一の人物を歴史の中から探してみると、往々にして凡人を超えた超能力者であることが多い。

【会津藩主・保科正之 と 米沢藩主・上杉鷹山】
 鷹山が米沢15万石の藩政建て直し成功した人物であると評価されているのに対し、本来断絶となるところであった米沢藩・上杉家を15万石格で存続させてやった者こそ正之なのである。
 加えて正之は家綱の輔弼役として老中達の上に立ち、武断政治を文治政治へと切り替えた立役者であったのだから、鷹山とはスケールが違う。たとえて言えば鷹山が県知事クラスの名君だったのに対し、正之は県知事と総理大臣を兼ねたような巨大な存在だったのである。 (p.187)
 にもかかわらず、正之が今日知られていないのは、直截には、明治維新にかかわって、会津藩が幕府擁護の佐幕派だったことによるのであろう。
 しかし、保科正之は、徳川幕府260年・長期安定時代の規範を作るのが、仕組み人としての役割だったのである。「会津藩家訓」十五か条の第一条にそれが現れている。
 その後、世界情勢の変化に応じて、佐幕派から討幕派に役割が移行し、明治天皇が仕組み人として登場し、日本を変革し守ってきたのである。

【保科正之を巡る人々】
 徳川2代将軍・秀忠とお静の間に生まれた正之であったが、お静が正室ではなかったため、嫉妬深い正室の崇源院から逃れるため、江戸城以外で育てられることとなった。そんな正之(幼名は幸松)を守ったのが、武田信玄の第二女・見性院と第六女・信松院であった。
 見性院は幸松に、亡き父信玄の形見の品「紫銅鮒形の水入」や黄金をも与えている。 (p.162)
 幸松は7歳まで、見性院と信松院によって育てられた。その後、幸松は、信玄に仕えたことのある信州・高遠藩主・保科正光の元にあずけられ、以後、長ずるに及んで、山形、会津の各藩で藩政を行うこととなった。会津藩での活躍は上述したとおりである。
 家庭はというと、正室のお菊の方のあまりに早い死と、継室のおまんの方の無謀な行為が、正之の家庭生活の不幸を決定付けたことは確かである。 (p.176)
 人生の最後の20数年間は、江戸幕府で、異母兄である将軍・家光との信頼関係揺らぐことなく江戸幕府の執政に関与し、家光の後を次いだ家綱の輔弼役としても活躍した。
 保科正之の晩年は、白内障を病み、目が不自由だったようである。家庭生活のことも考え合わせると、社会に対して善事・善行・善政を行った学徳高い名君であっても、その人生に限っていうならば、吉凶相半ばするもののようだ。何を持って幸せとするかは、その人次第である。     <了>

閉じる コメント(1)

顔アイコン

転載を、お願いいたします。傑作、ポチッです。

2009/11/17(火) 午後 9:36 夢うさぎ塾本館

コメント投稿
名前パスワードブログ
投稿

閉じる トラックバック(0)

トラックバックされた記事

トラックバックされている記事がありません。

トラックバック先の記事

  • トラックバック先の記事がありません。

.

チャンちゃん
人気度

ヘルプ

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
  • My Yahoo!に追加
  • RSS
  • RSSとは?

ケータイで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

URLをケータイに送信
(Yahoo! JAPAN IDでのログインが必要です)

ブログバナー

開設日: 2006/7/31(月)


プライバシーの考え方 -  利用規約 -  ガイドライン -  順守事項 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2009 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.