古書蒐集日記

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陰鬱な映画18 『死の王(der Todes King)』(ドイツ 1989)

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「ネクロマンティック」のユルグ・ブットゲライトが、
ある一週間を時間軸に、月曜から日曜の一日つづ、
オムニバス形式で登場人物達の死(自殺)について綴った作品。
ドイツの裁判において例のごとく“国内上映禁止”、“ネガ、
その他撮影にかかわった物の廃棄処分”を受けた問題作。
月曜の男が死ぬ間際に書いていた手紙を導き役に、
それを受け取った人達がさながら
死の伝言ゲームの様に自殺していく。
映像的には「ネクロマンティック」よりも大人しめだが、
表現力は本作品の方が上。描写を押さえた分、
ある種、詩的な雰囲気すら感じられる。
エピソードの間に挿入されている死体の腐乱していく模様や、
古めかしい音楽も一層その異常な雰囲気を表現している。
8ミリで撮られた土曜日の女のライヴホールでの
シーンは本物を思わせるような迫力が有る。
(映画紹介文より抜粋)

この映画は陰鬱で気が滅入ったものだ。
また音楽もノイジーで、気が滅入る様な音楽である。
楽しい気分になれるような映画でも無いし、
また清清しい気分になる映画でも無い。

TV等のマスメディアでは死は隠されている。
死を隠蔽している。
誠に過保護的な配慮だと思う。
死を隠せば隠すほど、真実からは遠くなる。
死を隠せば隠すほど、生の尊さを学べなくなる。

しかし死は誰にでも訪れる。
いくらマスコミが隠蔽したとしても、
いずれは学ぶ事になる。
死は決して遠いものではなく、
身近に有るものだという事を学ぶ事になる。
この世で死だけが平等で、何人も死を免れた者は
何人であれ、存在しない。
富める者、貧しき者、強者、弱者を問わず、
誰でもいつかは死ぬ。それは生きている者の法則である。

*私が架蔵している古書も
 百年以上経過した本は
 元の所有者は既に故人である。
 本は人よりも長く、この世に存在する。
 私も所有する本も私は死んだ後、
 また何百年もこの世に存在する事だろう。
 私がこの世に存在し、またこの本を一時所有していた証に
 主要な古書には自分の蔵書票を貼り付けてある。
(2005年8月15日記事投稿)

写真の差し替えの為の再掲載と追記。

Der Todesking (Trailer)
http://www.youtube.com/watch?v=cRKIYUjTDfA
(記事投稿時点でなら視聴可能)

Der Todesking 1987 soundtrack
http://www.youtube.com/watch?v=d1vDOumDc4M
(記事投稿時点でなら視聴可能)

本記事は人気が有るとは言えない。
さしたる関心も興味も持たれない。
物事には関係ないことと関係があることがある。
誰でも関係することに関しては興味を持つ。
関係ないと思う記事は検索もされず読まれもしない。
しかし、死は誰にでも訪れる。
この記事を無視しようがしまいが、存在を知ってようが
知ってまいが、何にしても死ぬ。
総資産500億ドルのビルゲイツだって
万全の健康管理をしている人でも、いつかは死ぬ。
直面する問題や面倒な苦労は、金や地位や権力やコネや人脈で
解決することが可能だ。
何かしらの解決の方法が見出される。
しかし、死だけは誰も解決は出来ないし、避ける事は不可能。
死だけは公平に富める者にも貧しい者にも訪れる。
死の存在だけがこの世で唯一の公平である。

余命宣告された人間を除き、誰もいつどこで死ぬかは知らない。
今日、死んだ人間は、生まれた時から、今日死ぬまで
必死に生きてきたのだ。それは結果から見ればそう見える。
結果から見れば、そう見えるだけで、いつどこで死ぬかは
現時点では判らない。
私もいつか死ぬ。このブログに来た人も、いつか死ぬ。
ただ、その日がわからないからこそ、こうして平常心を保っていられる。
子供の頃は霊とか心霊写真とか怖かったが、
人生も半ば過ぎると向こうの仲間入りが近くなってきて、
怖いとは全く感じなくなった。逆に幽霊が存在し、
あの世が存在するならば、死後の世界が
存在するなら、どんなに幸せだろう。
この自己というものが保たれるのだから。
しかし自己というか、意識が有るということは
永遠に何かしらの悩みや心配や苦労を抱えるということだ。
霊になったからといって、何もかもが自分の思い通りにならない限り、
何かしらの苦労を抱えることになる。
それはそれで辛いものと思える。
死ねば、何もかも消える。今までの蓄えた知識も知恵も何もかも。
自分が死んだという事さえも死んだら感知出来ない。
死と夢は同じ様なものという輩がいるが、夢なら目覚めることが出来、
目覚めてから、夢だったのだと感知できるが、
死なら、その状態を知る事は出来ない。
自分で自分の死は当然、知ることはできない。
それはそれで恐ろしい。
臨死体験は死と同様ではない。結局は蘇生したのだから、
結論として、それは死ではない。
死を経験することも報告することも出来ない。
死は自分では一切感知する事が出来ない。
死が訪れた瞬間、五感は遮断される。
何となく過ごしている毎日、そして今日、
こうして人は死へと一日一日と近づいている。
日本は死というものが過剰に隠蔽されているので、
まず意識することは少ないが、しかし隠蔽されているだけの事であり、
目隠しされているだけの事であり、
(映画「FINAL DESTINATION シリーズ」を考えてもわかるように)
確実に死は身近に存在する。
そんな死の存在を意識した瞬間から、人は大切に日々を送ろうと思い始める。

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