浅間山荘事件とリンチ事件から40年
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浅間山荘事件とリンチ事件から40年
2月9日、朝刊 信濃毎日新聞に、寄稿「浅間山荘事件とリンチ事件から40年」小熊英二と題され連合赤軍による浅間山荘銃撃戦と山中で同士12人をリンチにより殺害した記事が出ていた。
速いものでもう40年の年月が流れた。
当時私は二十歳でありその年1月15日には成人式を迎えた遠い昔である、父と一緒に現在の会社を立ち上げてまだ2年目の年であった。
衝撃的な事件で仕事も手に付かず父とテレビに釘ずけの状態であり、家の脇を通る国道18号線は警察車両がサイレンを鳴らし頻繁に走り去って行くのを鮮明に覚えている。
テレビ中継され最高視聴率89.7%を記録された。
私たち親子はこの事件を特に心配した観点から見守っていた、特に父は特別であったのだ。
父の弟が軽井沢署員として勤務しておりこの事件に大変に関わっていたからである。
その全容は叔父が自分史、「巣立ち」のなかで、 連合赤軍「あさま山荘」事件の回想と記されている。
軽井沢駅事件、「あさま山荘」への籠城、後方支援部隊、連合赤軍とは、連合赤軍のアジト、総括によるリンチ殺人事件、警察官の殉職、と題され直に経験した生々しい記録が書かれている。
その中での軽井沢駅事件の一説を紹介したい。
2月19日、私は、本署の当直勤務中の午前7時少々のころ、
「軽井沢駅に不審な男女4人がいる」 との電話連絡を受けた。
当直員3名で軽井沢駅に急行した。不審者はすでに軽井沢発長野行き列車に乗車したらしく、列車内を検索すると男二人が前の車両に、女二名は後ろの車両に分かれて乗車していた。
この列車は、通勤客も乗車していたが空席もあるくらいであった。
前の車両の男二名には、当直勤務の二名が、後ろの車両の女二名には私と駅前交番の勤務員が職務質問したが、言動には不審があり、益々挑発的な態度となり、下車に応じなかった。
この二人の女性は髪もぼさぼさで、着ている服も汚れ、登山靴も破れ、皮手袋も手のひら側が網のように切れていて、ズボンも膝まで濡れていた。乗車券は小諸までのもので、しっかり握っていたが、近寄ると悪臭を放っていた。アノラックは丸めて座席左側に置いてあり、体で隠すような態度であったので、何か携帯しているように思われた。
駅員がホームを走りながら 「発車しますので早くして下さい」と叫んでおり、時間的余裕もなかったので、女の手を取って下車させた。
ホームには応援の機動隊員も駆けつけ、協力して暴れる女性兵士を、手製爆弾と散弾銃の実弾をアノラックに隠し所持していたので現行犯逮捕した。
叔父にとってこの事件は警察官として定年退職するまでの忘れる事のできない大きな出来事であったと思う、私たち親子は叔父が無事でいてくれたことが何よりのことであるが犯人の銃弾により殉職された、警視庁第二機動隊、内田隊長、特科隊、高見隊長、のご冥福をお祈りします。
事件の真っ只中に「母」の訃報の知らせ、自慢の弟を心配していた父も昨年の11月、他界し叔父には体を気ずかい健康でいて欲しいと願います。
あさま山荘事件 多くの人たちの心の中に衝撃を与えた出来事でした。
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