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哲学日記
泥沼から脱出するまで一気につき進め。休息は泥沼を抜けてからとるものだ。


 人は(私は)死んでも生きてるんだと。

何千年も昔から世界中で、なんど世代が入れ替わっても、人々はこの迷信を鵜呑みにする。


日本人も「死んだ人は、あなたの近くにいる」と、千年も前から言い続けている。


しかし、
何千年続こうと、間違いは間違いだ。










 ひとつ質問です。
この世界に争いが絶えない原因は何だとおもいますか?








(ブッダの真理のことばDh.6 中村 元 訳)から引用します。

「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。
――このことわりを他の人々は知っていない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

(引用終)




 釈尊は「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。――このことわりを他の人々は知っていない。の後に続けて、しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。と教えています。

 わたしはこう確信しています。
死んだ後も何らかの形で「自分」は生きていると大多数の人々が妄想していることこそ、世界に争いがしずまらない本当の原因なのだ。と。

知識の表現「人は必ず死にます。常識です」
智慧の表現「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう」
言葉にすれば同じですが、この間には容易に超えがたい深い断絶があります。
その証拠に釈尊の次の一句「このことわりを他の人々は知っていない」の意味が、知識レベルの人には全然わからないはずです。

世間の常識はあげ底。
それも甚だしいあげ底。
「人は必ず死ぬ」と聞くと「そんなことは常識だ。誰でも知っている」と答えるのがそれ。
生者必滅の理が本当に常識なら、こんなにも浅ましい世界であるはずがないですから。

本当に自分は死を越えられない存在だと気づけば(智慧レベル)「争いはしずまる」ことは自分の手のひらを見るように自明になります。

知識レベルにとどまっている人に、「争いはしずまる」ことをいちおう納得がいくように言葉だけで説明することもできますが、わたしはそんな無駄をやりたくない。
知識でわかってもらっても、争いはしずまらないからです。



 以下の釈尊の言葉は、「なにをあたりまえのことをくどくどと」と思いたくなるほど、《誰でも知ってる事実》です。


この世における人々の命は、定相なく、どれだけ生きられるかわからない。惨ましく、短くて、苦悩に繋がれている。

生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死が来る。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。

若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に到る。

かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。

見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は一人ずつ、屠所に引かれる牛のように、連れ去られる。

このように世間の人々は死と老いとによって害われる。されば賢者は、世のありさまを知って、悲しまない。

泣き悲しむことによっては心の平安は得られない。ただますますかれには苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

だから尊敬さるべき人のことばを聞いて、亡くなった死者を見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、悲しみ嘆きを去れ。

(以上、スッタニパータ第三8・574〜590より抜書 中村 元訳)



 釈尊はなぜ、こんな平凡な分かりきったことを、何度も何度も繰り返し説いたのか。

それは、この「人間は死ぬ」という事実をありのままに認める人がめったにいないからです。

非常に多くの人は、ありのままの事実より、嘘の話に感動するほうを選ぶ。

その根底には死への恐怖があります。


これは、人間と世界を理解するための、決定的な最重要ポイントです。
人々が、自由の国に厭きては往年の欺瞞の国・獣の国にくりかえし戻ってしまう仕組みと打開策を理解するための。


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(過去記事統合編集増補再録)

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いまさらですが 『おくりびと』



 もうテレビでもやったから、近所のゲオなら旧作料金50円でレンタルできる。

 元ネタ本『納棺夫日記』は大昔読んだが、映画とはだいぶ違う印象だったとおもう(具体的内容はすっかり忘れたが)

 国内外で多くの賞をとっただけあって、映画自体はよくまとまっていて良い出来だ。


 しかし、根本的なところでとんでもないインチキがあるとおもう。

「人は死んでも生きている」妄想は、人が死ぬたびに葬儀場で必ず確認しあうみんなの儀式になっている。
この共同妄想は今に始まったことではないが、「おくりびと」が世界的に評価されて気づくのは、その表白においてだんだん臆面がなくなってきているという事実だ。


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シカゴ。
「長い夜」


 おれは中学後半から高校にかけて毎日かかさず夜中まで大音量(ヘッドホン)でロックを聴いていた。
「次の日を生きるために必要なエネルギーを耳から充電中」って感覚だった。
毎夜次の1日分のエネルギーをロックからもらいながら、なんとかその日その日を生き残った。







『一見カラダに悪そうだが、実は健康によい11のこと』にこう書いたあった。
「英マサチューセッツ大学の研究チームによると、ヘビーメタルやハードロックなど、賑やかな音楽を聴くと、小嚢と呼ばれる内耳を刺激し、これが脳に心地よさを与え、気分がよくなるらしい。ちなみに、小嚢が刺激されるのは、90デシベル以上の音楽。」

自分の体験から、おおいに納得できる話だ。大音量で聴かないと効果はなかった。
おれは慢性睡眠不足で、さらにヘッドホン難聴になった。
まあ、そのくらいはしかたなかったとおもっている。


 今は大音量でロックを聴く必要はなくなった。歳のせいもあるけど、主に仏教のせい(おかげ)だ。

カラオケは、若いときから嫌いでほんのたまにつきあいで行ったくらい。それも今はなくなった。
しかし、おれは運転中に、さほど聞きたいと思わない音楽を流してしまう。
同じCDを何年間も入れっぱなしにしてそればっかりかけていて、さすがに飽きて、ある時イジェクトボタンを押したら出てこない。中でディスクが変形したらしい。以来そのままになってる。

 この機会に、もう音楽を流さず、呼吸のヴィパッサナーをしたいとおもってる。
人工音の刺激に毎日なんとなく依存してるって、仏教的に正しくないとおもうので。



(過去記事増補編集再録)

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 『長い散歩』

 とてもいいんだけど、ちょっとロマンチック過ぎるとこが嫌だ。

長い散歩(プレビュー)


 『後妻業の女』

 原作は読んでない。面白いけど後の漫画版のほうがいい。

【映画】後妻業の女 予告集 “特報”


 『永い言い訳』

 水底が見えないのは深いからじゃなく、濁ってるからだ。

映画『永い言い訳』予告編

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思考(強迫神経症)2


 仏教は、迷中の思考を明確に強迫観念とみなしているとおもう。
医学的に認知されている強迫観念は患者自身が病気だという自覚を持っている場合が多い。
思考(という強迫観念)は最も一般的な症状であるにもかかわらず、医者も含むほとんどの人々は、これが人生を破滅させる恐ろしい病だという自覚をもたない。
古今東西、人類の99,9%が常にかかっている病は、病と自覚されがたい。




 迷中のすべての考えがゴミなら、考えを無にして、梵我一如(宇宙との一体感)とかになればいいのかと訊かれたことがある。

おれはそんな体験したことない。したところで妄想だとおもうので興味もない。

第一、なにも考えない「無」というのもちょっと違うとおもう。

「無」状態なんて、たいてい脳がサボってるだけだ。

おれがおもうに、脳のサボりパターンは2種類あって、それが妄想と「無」。

 ヴィパッサナーは、妄想にも「無」にもならない脳の状態をキープする唯一の方法だとおもう。
だからヴィパッサナー実践中は、サボりたいのにサボれなくされた脳があの手この手で抵抗しつづける。これは本能レベルの抵抗。
けっこう手強い。けっこうしんどい。


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今日の日々日記

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 4時頃就寝8時頃起床。
 9時過ぎ、安いアメリカ産豚肉ロースとんかつ・ソテー用4枚、醤油と白ワインの液に5分漬け、とんかつに仕立てる。肉の筋切は一切しない。玉子・小麦粉を水は使わず少な目の白ワインで溶いたバッター液を薄くまとわせ、パン粉付け、揚げる。
 最初肉が縮んで反らないように低温でゆっくり火を通し衣が固まってから最後180℃で返しながら揚げ終るパターンでカラッと上手く仕上がる。揚げたて4枚一気食い(写真撮るの忘れた)「※※や」の団子みたいなぶ厚い衣のカツより美味いわ。

 14時頃イオンへ。駐車場でキリスト教講義聴く。
 けっこうためになる。牧師がこう説いている。キリスト教は、他宗教のように「行い」によって救われるのでなく、「イエスキリストの身代わりの犠牲によってすでに救われている」ので、そのことをただ信じるだけでよい、ただただ信じるのみと説教している。
今でもやっぱりそこに落っこちるのか。ヤコブの手紙は無視か。そこがダメなところだと気付かないか。

 山本七平「徳川家康」読む。秀吉も家康も「不倒翁」毛利元就を師と仰ぎ学んだ説は面白い。でも…本持ったまま寝落ち。





 16時前目覚め、1Fフードコートへ。
この時間でも広いスペースが満員に近く混んでいる。スガキヤが復活させたプレラー390円。周り見るとプレラー売れてるが、他店の商品も売れている。10日から毎日食べてるが今日のが一番美味い。スープが濃厚でチャーシューも気持ち厚切りな感じ。各店競争の影響?

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 探偵ナイトスクープ『ヴィヴィオ君の最期』見た。
面白かった。お母さんが良かったし、澤部 佑の対応もよかった。
なかなかの名作だと思う。


朝日放送・探偵ナイトスクープ 最愛の息子“ヴィヴィオ君”の旅立ちに局長も涙!?より引用します。
【内容】
1.『ヴィヴィオ君の最期』探偵/澤部 佑
埼玉県の女性(36)から。我が家には今年24歳になる「ヴィヴィオ君」がいる。だが、彼は今年の3月に我が家から旅立たなくてはならない運命を背負っている。実はヴィヴィオ君とは24年前に作られた軽自動車のこと。16年前に中古で買って以来、自分でボディーを塗り替えたり、内装も可愛くアレンジしたり愛情を注いできた。でも、ヴィヴィオ君も24歳。2年前から走行中にエンジンが突然止まったり、どこからか変な音が鳴ったり。それでも可愛くて可愛くて…。1年半前に家族会議をした結果、このまま乗り続けても修理代ばかりかかるので、泣く泣く新車を購入。さすがに新車が届けばヴィヴィオ君への愛も覚めるだろうと思っていたが、結局ダメだった。いまだ手放すことができず「車検が切れるまで」という旦那との約束で今2台の車を維持している。その車検切れまであとわずか1カ月。13歳の娘よりも長い付き合いで、息子を奪われるような気持ちなのだ。運命の日は近づいており、毎日どうしようもない寂しさや不安で涙しながら運転している。もう私一人ではどうすることもできない。私を可愛い息子・ヴィヴィオ君から子離れさせてもらえないだろうか?というもの。



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 迷中の思考はゴミだ。

悟る前の人間の思考は、どんな立派そうにおもえてもすべて不浄なもので、なんの値打ちもないもの。それを一言で表現すればゴミ

 おれはこの事実に対する信念が全然足りない。それで人生を空費している。

 歩きながらでも、車を運転しながらでもヴィパッサナー実践はできるが、ヴィパッサナー実践中の思考は無価値であるだけでなく有害だ。
思考はゴミという確固たる信念がなければヴィパッサナー実践は徒労に帰す。



 頭で理解し受け入れたつもりでも、骨身に染み付いたDNAレベルの古癖はそれを瞬時に打ち消してしまう。

おれという人間は、歩いている時も、車を運転している時も、眠りに落ちつつあるときでさえも、気がつくと常になにかよそ事を考えている。

自分が生きている実感を得るために、常になにか思考することが必要だと強く思いこんでいる。
自分の思考になんらかの価値があると盲目的に信じている。
それは強迫神経症となって、日々を空費させ続けている。


 さあいよいよ死ぬというその時に起きる「ああ、しまった!」の悲惨な後悔を一度は知ったはずなのに、未だにこのテイタラクから抜けられない。


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 以前、親子丼があるなら親子揚げもありだろうとおもってやってみた。これが美味しかったので今でも時々作る。

百均グッズ活用で時短する。


1.
鶏腿肉を適当にカットして百均「チリソース」をポリ袋の中でからめます。
2.
百均「レンジで目玉焼き」で目玉焼きを作ります。
3.
目玉焼きを1.のポリ袋に入れて「チリソース」にからめながら適当にちぎります。
4.
ポリ袋に片栗粉を適量入れて全体にまぶし、ちぎった目玉焼きを腿肉でくるみます。
5.
180℃の油で揚げて出来上がり。

[同日追記]
 出来上がり写真下は、鶏肉を自己流味噌漬け液に一晩漬け込む一手間かけたもの。
このほうが深みのある味がしてさらに美味しかった。
使用済みの漬け液を、捨てるまえにもう1回有効利用できるし。

付け合せは、その味噌漬け(人参と白菜)です。


 時短と逆の話になるけど、ちょっと手間をかけて、鶏肉の脂や筋をていねいに取り除くと、臭みなく美味しくできます。



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 昨日車の中で、豊洲移転決定に関する石原慎太郎氏の記者会見を聞いた。
「科学者専門家を信頼」「部下を信頼」「浜渦さんに任せきり」「私一人というより行政全体で責任」…なるほど石原氏の言い分にも一理ある。
 かって丸山眞男が「無責任の体系」と告発した官僚制の無責任とはこういうことだったか。
 戦争の大悲惨を学んだあとも、日本人の悪癖は丸で変わってなかったんだ。

 ちょっと昔、皆が場の空気を読むばかりで、事実を無視して戦争に突入し、結局は鉄丸を飲むような無残な敗戦となった。
その反省の核心で「無責任の体系」(みんなの責任=誰の責任でもない)の否定が、戦後日本国民に共有されたはずだった。
 それは、誰かに責任を押し付け詰め腹を切らせてお茶を濁すことではなかったはずだ。
それは、個々人の私欲を、滅私奉公などの欺瞞的言辞で隠し責任を回避しながら実現しようとする旧来の醜い悪癖を捨てることだったはずだ。

 しかし、特に福島原発事故以降の様々な事象によって、日本人は何一つ変わっていないことが明らかになってきたとおもう。






同じ過ちは繰り返しません…何が過ちだったかも分かってないくせに。 


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