日記
頑固おやじ遂に死す 私はほぼ2週間前から高崎市に出張で来ています。2ヶ月以上時間を空費してやっと現場での仕事が始まりました。
その最中、いわき市に住んでいた頑固な“殿様おやじ”が遂に亡くなりました。大正7年の生まれで、享年93歳でした。2年以上前から激しい腹痛で数回入院し、「大腸に数個癌が見られ、複数の臓器が正常に働いていないし、高齢で体力も無いので、手の打ち様もありません。応急処置で騙し騙しやって行くしか方法はありません。」と担当医師から言われて、私達は覚悟をして、通常は父を自宅に帰していましたが、私達の予想を遥かに超えて、父は3年間も自宅で元気に過ごしました。
(私達と違って)美形だった父も最期の顔は(頑固だった)祖父とそっくりで、小さくなっていました。祖父はあの新地村で生まれ、そして亡くなりましたが、「柿がなろうと、梨がなろうと、俺が栗の木だと言ったら栗の木なんだ。」という迷啖呵が象徴的に語り継がれる程の超頑固者でした。
父はその頑固祖父の貧しい半農半漁の家で育ち、幼い内から働かされ、小学校にもろくに行けず、卒業前に呉服屋に丁稚奉公に出されるなど、苦しい、悔しい幼少年時代を育ちました。そして、軍に徴兵されると海軍を選び、必死の思いで勉強して通信兵になる事が出来ました。南シナ海周辺での数年の水上艦勤務の後、突然父は潜水艦勤務を命じられ、太平洋のほぼ中心に位置するガタルカナル島で孤立した敗残兵の撤収作戦に従事しました。
連戦連勝の筈であった日本軍はここでは連戦連敗で、父は衝撃を受けました。それにも増して驚いたのは、潜水艦を撤収作戦に使うという異常な命令でした。潜水艦は敵艦を沈めるために造られた訳で、兵員の輸送のために造られた訳ではありません。「日本は負けるんだなー」と父は内心強い恐怖を感じました。この頃から太平洋の空と海の殆どはアメリカ軍の支配下に入り、父の乗る潜水艦は毎日毎日逃げ回るばかりでした。こんな最中に、父は両足の指を切断して、潜水艦を下ろされ、除隊となりました。そして、この潜水艦はアリュシャン戦線に向かい、帰って来ませんでした。
除隊になった父は通信兵の技量を買われて、仙台気象台の職員になりましたが、始めから殆ど毎日アメリカ軍の空襲があって、逃げ回る日々が続きました。結婚したばかりの母のお腹には私がいたのですが、母は空襲の最中霞の目飛行場の周辺の掘割の中を逃げ回ったそうです。そして、昭和20年の6月始めに私はこの世に産まれました。それで、私も戦中派なのです。
父(A型)と母(O型)は幼馴染で、相思相愛の仲になり、双方の家族の反対を押し切って、結婚したのでしたが、父が祖父の言動から無意識にコピーした「自宅では絶対君主」の生き方のせいでたちまちの内に破綻しました。母は村で一番の勉強家で、有給の看護婦養成学校を優秀な成績で卒業し、某大学付属病院の看護婦になったほどの進歩的な女性だったので、絶対君主など受け入れられませんでした。母の兄も農地解放運動で村の青年団の先頭を走った人なので、母も強い影響を受けて、兄を尊敬してもいました。父も同じ運動に参加して、理性では母の言い分を理解出来たのですが、父は極端に言葉による表現能力が低かったので、どうしても手や足が出てしまうのでした。これも、祖父の言動からの無意識のコピーでした。
このため、私には明瞭な記憶はありませんが、私達3人の子供が生まれた最中に2度も同じ人と離婚・結婚を繰り返したのでした。「子供達が可哀想だ」という親類達の圧力に負けて再婚しても、直ぐに耐えられなくなってしまうのでした。しかも、この間に父は肺結核に罹り、2年間も病院に隔離され、私達子供3人は親戚の家にばらばらに預けられ、窮屈な生活を送りました。
折角地獄行きの潜水艦から下ろされ、この世で生き続ける幸運を得たのに、実際の生活はこの様に意のままにならない地獄の様な生活だったので、父は絶望して、毎日大酒を呑み、家族に暴力を振るう様になりました。「星 一徹」の様に、ちゃぶ台反しも日常茶飯事でした。そうすると、母も我々子供達もおやじを怖れて、びくびくして暮らす様になり、それが父を苛苛させて、益々事態は悪化して行きました。「何故こうなってしまうんだ?」といくら考え、悩んでも、父は貧しい家で大勢の兄弟と共に怒声と暴力の中で育ったので、この問題の解決方法がどうにも見つからないのでした。「家族への愛をどう表現するか?」の問題は父は終生理解出来ませんでした。父に心底から理解出来たのは、「命令と服従」だけでした。「優しく抱きしめて愛情を表現する」方法がある事は全く理解出来ませんでした。そんな事は自分の育った家庭では全く見た事はありませんでした。
こんな父も子供達は可愛い様で、たまに近郊の丘陵地に(母抜きで)ハイキングに連れて行ってくれましたが、私達は「いつ癇癪玉が爆発するか?」と怯えるばかりで、少しも楽しくありませんでした。
しかし、私達子供が大きくなるにつれて、そう気軽に暴力を揮い続ける訳にも行かず、父はその代わりに「黙んまり戦術」を採る様になりました。家族が父の意に反する事をすると、父は何週間でも、時には1ヶ月以上も一言も話さないのでした。これには私達も困り果てました。父は絶対君主でしたから、父の許可を採らない事にはお金の支払いが何も出来ないのでした。
母はそんな父の暴力を怖れながらも、その器量の小ささを軽蔑していました。だからなのか、何度注意されても母の言動は改まりませんでした。母は看護婦をしていて時間が無かったせいもあり、お金を節約する事が出来なくて、いつも父の給料日の随分前に父に渡された生活費を使い果たしていました。そして、「どうして計画的に使わないんだ?」と責める父に「だって、無くなってしまうんですから、どう仕様もありません。」といつも反抗的に答えていました。子供達から見ても、母には「創意・工夫」の才能が全くありませんでした。学校では成績が良かったのは事実だったのですが、臨機応変に自分で考えて、創意・工夫をする事は殆どありませんでした。それは、毎日夜になると縫い物をしながら居眠りをし続けて、何十日経っても縫い物が少しも進まない事に象徴的に表れていました。この様な進歩も反省も無い母の生活に、父の怒りは段々憎しみに変わっていきました(この辺りはここ十数年の私の人生に良く似ています)。
父の憎悪と悩みは段々深くなり、宗教に救いを求める様になりました。禅寺に座禅を組みに行ったり、滝に打たれに行ったりし、更に、其処で出会った人に誘われるままに新興宗教の集会や研修会に出席しました。そうして、父は「全ての人に物に環境に感謝しなさい」と教える“生長の家”という新興宗教団体が気に入り、自分に反抗的な母をその集会に連れて行きました。自分は全ての人や物や環境には感謝出来ないが、母には特に自分に感謝させようとした様です。父の思惑とは関係無く、母はこの宗教団体に夢中になり、その教えを鵜呑みにして、心底から信じ、そのまま実生活の中で毎日実践し始めました。勿論、母は父にも従順になり、家の空気も明るくなりました。少なくとも、私達にはそう感じられました。すると、私達子供3人の学校での成績も急激に向上し、父も機嫌の良い日が少し多くなりました。これは私が中学3年生のの前後2〜3年でした。しかし、これはつかの間の平穏でした。母が余りに深く“生長の家”に心酔したために、父の狭量な指示を無視する事が多くなり、再び父の怒りに火が付いてしまったのでした。
そして、こんな家に耐えられずに、私は遠く離れた金沢の大学に行き、妹は近くの大学を出たものの、東京近郊に就職して行き、弟は近くの専門学校を出て、あろう事か関西に就職して、誰も家に戻りませんでした。A型ばかりの3兄弟には、この家庭問題を解決する方法が全く見出せなかったのでした。
(大嫌いな憎むべき母と家に残された)父は、絶望して、上司に配置転換を願い出て、福島県の奥地の測候所に転勤して行きました。そうなっても、(美形の父を愛していた)母はいつか父が戻るものと仙台の家で待っていましたが、あの仙台沖地震によりその家が大破してしまい、仕方なく義理の妹の家に転居して行きました。この際、父は様子を見にも来ませんでした。 ( つ づ く )
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