戦国群雄伝・三好元長
|
画像は清和源氏小笠原氏流三好氏家紋・三階菱に釘抜。 三好元長(みよし・もとなが) 生年1501年(文亀元年)〜没年1532年(天文元年)。京兆流細川家臣。 父は三好長秀(みよし・ながひで)、または三好之長(みよし・ゆきなが)といわれる。 母は不明。 子に三好長慶(みよし・ながよし)・三好義賢(みよし・よしかた)・十河一存(そごう・かずまさ)・安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)らがある。 道号は海雲(かいうん)。 主君・細川晴元(ほそかわ・はるもと)を援けて畿内を転戦し、細川家の家督争いに晴元を勝利させ、のちの三好長慶による三好氏の栄華の基礎を築いた武将である。 阿波三好氏は、清和源氏小笠原氏の末裔と伝えられている。 甲斐源氏・加賀見遠光(かがみ・とおみつ)の次男・長清が甲斐国(山梨県)小笠原郷に拠り、小笠原長清と名乗ったことが小笠原氏の始まりである。 1221年(承久3年)に起こった「承久の乱」の際、宮方に味方して没落した佐々木氏の代わりに小笠原長清が阿波守護に補任され、子の長経(ながつね)を阿波守護代として統治させた。 小笠原長経は弟・長房(ながふさ)に阿波守護職を譲り、自らは信濃(長野県)の本領に帰っていった。 この長経の子孫が信濃小笠原氏であり、長房の子孫が阿波小笠原氏・三好氏となったのである。 三好元長は、時の室町幕府管領家・細川家が家督争いに揺らいでいる最中、三好長秀の子…または三好之長の子として生まれた。どちらが真の親かははっきりしていない。 三好長秀の末子にして、長兄である三好之長の養子となったという説も存在している。 成長した元長は父(兄?)・三好之長とともに細川晴元の家臣として仕え、まだ幼少であった晴元をよく援けて畿内各地を転戦した。知勇兼備の名将だったようで、晴元の信頼も厚かった。 1526年には宿敵・細川高国(ほそかわ・たかくに)と幕府12代将軍・足利義晴(あしかが・よしはる)の連合軍を大いに破り、細川晴元の入洛に貢献している。 その多大なる功績を認めた細川晴元は、三好元長を山城(京都府南部)の守護代に任じた。 しかし、のちに同じ細川家臣である柳本賢治(やなぎもと・かたはる=波多野秀長の子・波多野稙通の弟)と対立して抗争を行い、敗れて本拠の阿波へと一時逃亡した。 1531年、細川高国との戦いには元長の力が必要と感じた晴元は、再び元長の出馬を要請。 元長は晴元方の武将として復帰を果たし、遂には最大の敵であった細川高国を、摂津(大阪府)尼崎で討ち取るという大功を上げたのである。 これにより元長は細川家の重臣として重きをなすようになり、次第に元長も増長していったようだ。 これが成長し、細川家当主となった晴元の恐れを呼んだのである。 晴元は、もはや家中で並ぶもののない勢力を持つ元長を、次第に脅威と感じ始めていった。 1532年、晴元は元長の一族であり、元長と反目しあっていた三好政長(みよし・まさなが)と謀り、本願寺に堺を攻めるよう働きかけた。 本願寺法主・証如光教(しょうにょ・こうきょう)はこれを受け、一向一揆衆を用いて堺を攻撃した。 そのとき、堺には三好元長がいたのである。 元長は突然の一揆衆の来襲を受けて敗走し、逃げ切れぬと悟って顕本寺にて自害して果てた。享年32歳。 命を賭けて盛り立てた晴元に裏切られた元長の無念は、いかばかりであったろうか。 三好元長は、子の三好長慶の活躍が派手なため、あまり日の目を見ない武将である。 しかし彼も戦に関しては非凡な才を持つ勇将であり、彼の息子たちにも戦の才は受け継がれている。 彼の嫡男・三好長慶は父の仇・細川晴元を追放し三好政長を殺害して畿内を制圧、一時的にだが三好家の天下を実現させている。 次男・義賢は長慶の片腕として軍事に才能を発揮し、三男・十河一存の猛将ぶりはその勇名を天下に鳴らした。四男・安宅冬康は三好水軍を統率し、長慶を補佐している。 元長本人は志半ばにして斃れたが、優れた子によって三好の家名は後世にしかと刻まれたのである。
|

なんとなく大阪の人としかのイメージがなかったのですが、
意外と活躍をしていたんですね・・・・・・
同じく、私も三好長慶のほうが活躍していると思いますね。
2007/8/29(水) 午後 11:33 [ lc_*ar_**00 ]
しもつきさん…三好氏は長慶のおかげで畿内の人というイメージが強いですが、実は阿波(徳島県)出身の武家なのですよ。
三好氏で一番活躍しているのは間違いなく長慶ですが、弟の三好義賢や一族の三好政康(三好三人衆の一人)、三好政勝(政康の弟で家康に仕えた)なども地味に活躍してますよww
2007/8/30(木) 午後 10:52