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ヴァンデの共和国軍人 その12

12)ルイ=アレクサンドル・ベルティエ、ヌシャテル公及びヴァグラム公
 1753年ヴェルサイユに生まれる。70年中尉、77年大尉。81年、ロシャンボー率いる米国遠征軍に同行し、参謀業務に就く。88年に少佐、89年に中佐に昇進。
 革命後はロシャンボーが指揮官だった北方軍に所属。ラ=ファイエットやリュックナーの下でも働く。Phippsによればベルティエの参謀としての能力はかなり高かったため引く手数多だったのだが、やがて政敵のデュムリエが北方軍の指揮官に就いたため92年9月に職権を停止される。なお、Sydney John Watsonの"By Command of the Emperor"にはリュックナーの下で准将になったと書いてあるが、Sixの本にはそうした記述は見当たらない。
 一度は軍務から引退したベルティエだったが、彼の能力を求める声は依然として強かった。そのため彼は1793年5月11日、一志願兵としてヴァンデへ赴任することを認められ(Sixによる)、14日にソーミュールに到着した(Watsonによる)。派遣議員カラがベルティエを3月末にヴァンデへつれて来たとの説もある(Phipps)。
 ヴァンデに来た彼を参謀長の地位につけたのはロンサンだった(Phipps、Watson)。彼は6月に行われた王党派軍によるソーミュールへの攻撃に対して抗戦。ムヌーと同様に乗馬を2頭殺され、自らも負傷した。結局ソーミュールは陥落し、共和国軍はトゥールへ退却する。一方Sixは、ベルティエがビロン麾下のラ=ロシェル沿岸軍で参謀長の役目を果たすようになったのはソーミュール陥落後の6月12日だとしている。
 共和国軍はやがてソーミュールを奪回したが、その後の方針については複数の考えがあったという。ソーミュールにいた派遣議員らは大軍を差し向けて王党派軍を海へ追い詰める方針だったのに対し、ラ=ロシェル沿岸軍指揮官のビロンは周囲から取り囲むように進軍することを望んでいた。ベルティエが支持していたのは前者の案だったようだ。しかし、結果的にヴァンデの戦闘は後者の形で決着がつく。
 ベルティエがヴァンデから引き上げたのがいつなのか、はっきりとしない。Sixによれば彼は7月1日にパリへ派遣されたが軍への帰還を許されなかったという。Phippsによれば彼がパリへ向かったのは7月18日のヴィイエールの戦い後。Watsonはベルティエが6月30日にロシニョールの参謀になった後で8月になってパリへ派遣されたとしている。いずれにせよ、パリに向かった時点で彼とヴァンデとの関係は終わりを告げた。
 2度目の引退から彼が軍務へ復帰したのは1795年。当初はアルプス方面軍に所属した彼は、その後イタリア方面軍に転じボナパルト将軍の麾下に入る。その後の活躍は説明するまでもない。フランス帝国元帥となり、様々な貴族の称号を得た彼は1815年、バンベルクで死去する。
 ヴァンデで間違いなく戦った後の帝国元帥は、グルーシーとベルティエの2人だけ。面白いことに立憲君主主義者であったと思われるベルティエは、ヴァンデでは典型的なジャコバン派であるロンサンによって重用された。パリへ戻った後で彼がビロンのようにギロチン送りにならなかったのは、そうした関係があったためらしい。

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