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キャトル=ブラ後

 キャトル=ブラの戦いといえば1815年6月16日に行われたものとされている"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Quatre_Bras"。実際、最も激しい戦闘が展開されたのが16日なのは事実だ。だが、実は翌17日にも戦闘があったことは、どうもあまり知られていないようだ。
 John FranklinのWaterloo Hanoverian Correspondence"http://www.1815.ltd.uk/site/books/hanoverian_vol1.php"を見れば17日の戦闘について書かれた参加者の文章がいくらでも見つかる。中でも激しい戦いに巻き込まれたのはブレーメン軽歩兵大隊で、ミュラー少佐によれば少なくともその戦闘は夜明けから午前10時頃までは続いたようだ(p89)。同大隊の損害は戦死6人、負傷53人、不明23人(ワーテルローへの退却時も含む)となっており、16日に同大隊が受けた損害(負傷17人、不明3人)より多かったりする。
 ただ人数については別の説もあり、スクリバ大尉は戦死4人、負傷40人、不明18人と記している。とはいえ後者の人数で考えても同大隊は17日に全戦力の14%に相当する損害を受けた計算となり、この日の戦闘が(少なくとも同大隊にとっては)かなり本格的なものだった様子が窺える。彼らにとっては17日こそが本当の戦いだったと言ってもいいくらいだ。
 
 にもかかわらず歴史書ではこの戦闘に触れていないものが多い。たとえばDavid Chandlerの"Waterloo: The Hundred Days"には「ネイは[17日の]午前中を通じ、ウェリントンへの攻撃を再開しようとしなかった。彼の兵は道に沿って、何時間も決して来ない命令を野営の火の周りで待っていた」(p107)とあるし、A. F. Beckeの"Napoleon and Waterloo"には「不幸なことにネイは何もしなかった」(p134)、John Codman Ropesの"The Campaign of Waterloo"には「だがネイは一人の兵すらも動かさなかった」(p213)と書かれている。
 Albert A. Nofiも「いくつかの所定の巡回を除き、ネイの部隊は終日何もしなかった」("The Waterloo Campaign" p142)と記しており、Henry Houssayeの1815"http://archive.org/details/1815henr02hous"でも「キャトル=ブラ方面ではフランス軍と英国軍は6月17日の午前中の間、動かず相互の陣地にとどまった」(p251)と書かれている。一応Houssayeは脚注で「朝5時から午後2時まで前哨部隊の間で少しばかり射撃の応酬があった」(同)と書いてはいるが、この文章からブレーメン軽歩兵大隊が受けた損害を想像するのは難しいだろう。
 17日の戦闘についてきちんと記している戦役本はあまり多くない。Jac Wellerが"Wellington at Waterloo"で「フランス軍が大挙して攻撃する前兆となり得る小規模な射撃戦がしばしばあり、一度はそれがキャトル=ブラの全正面に渡ってほとんど絶え間なく続いた」(p74)と書いている事例とか、ブレーメン大隊などに損害が出ていることを指摘しているWilliam Siborneの"History of the war in France and Belgium"(p151)といったものはあるが、数としては限られている。
 
 戦闘があったという記録が数多く存在することはPierre de WitのThe campaign of 1815のサイトにあるThe situation at Quatre Bras on the early morning of the 17th of June."http://www.waterloo-campaign.nl/june17/bnedter.0.pdf"を見ても裏づけられる(p8-9)。にもかかわらず、多くの戦役本でその事実がほとんど無視されているのはなぜか。おそらく、同時代の上級指揮官たちがこの限られた戦闘を「敢えて言及するまでもない小競り合い」と認識したのが理由だろう。
 ワーテルロー関連の記録についてはいくつか翻訳をしているが、たとえばフランス軍公報"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/waterloo_nap.html"などの記録はもとより、キャトル=ブラの戦場に居合わせたネイの手紙"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/waterloo_ney.html"、ウェリントンの手紙"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/waterloo_wel.html"、ウィレム皇太子の報告"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/waterloo_ora2.html"といった史料を見ても、17日朝の戦闘には全く触れられていない。
 細かい記録まで発掘すれば見つかるが、主要な史料だけでは分からない戦い。それがこの17日朝の戦闘だったのだ。いやそれでもこの17日の戦闘は一部の歴史書には掲載されたからまだ幸せかもしれない。報告は書かれても文献には採用されなかった細かい戦闘は、実際には他にももっとたくさんあったに違いない。

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地図問題

 ナポレオニック関連で時に困るのが地図だ。別にGoogle Mapでも構わないのだが、地名が昔から変化していたり、大都市周辺だと市街地に飲み込まれて昔の地名が見えなくなっている事例がある。またGoogle Mapの問題点として、河川や山など自然の地形については欠落が多いこともある。見やすく、使いやすい地図はないのだろうか。
 全般的にカバーしている本をGoogle Bookから探すと、Geschichte der Kriege von 1792 bis 1815 mit Schlachten-Atlas"http://books.google.co.jp/books?id=USwAAAAAQAAJ"やAtlas der Schlachten, Treffen und Belagerungen aus der Geschichte der Kriege von 1792 bis 1815"http://books.google.co.jp/books?id=aIH2iU3dKncC"といった本が見つかる。それなりに役に立つのだが、スキャンが甘い場合は地図上の文字が読み取れないことがあるのが問題点。
 結局のところ、こうした複数の手段を使いながら状況を判断するしかないのだろう。完璧な地図なんてものはないし、そもそもあの時代の記録が地名を正確に記していた保証もない。分かる範囲で妥協し、どうしても分からない部分については判断を保留する、という方法しかなさそう。

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マニャーノ史料8

 イタリア、及びナポリ方面軍司令官から総裁政府へ。
 マルミロトの司令部にて、共和国暦7年芽月17日。
 市民総裁殿、私の直前の報告であなた方は、敵をアディジェ右岸から撤退させるため、そして渡河時に彼らが私の側面と背後を取るのを防ぐため、近々私が2度目の会戦を余儀なくされるであろうとの予感を抱いていたことでしょう。この会戦は昨日行われました。交戦は一瞬にして全戦線に広がりました。ヴィクトール将軍とグルニエ将軍はヴェローナ下流のアディジェ河畔に隣接し、サン=ジャコモ村を奪おうとしました。デルマ将軍は前衛部隊と伴に、ドッソブオノが突破されないように、そしてこの2個師団を攻撃から守るため行動しました。モロー将軍はアトリ及びモンリシャール師団と伴にヴィラ=フランカとヴェローナ間の全敵との戦闘を委ねられました。最後にセリュリエ将軍は同じヴィラ=フランカを攻撃し、この小さな町を奪った後に敵を追撃しアディジェまで追い込む役目を委ねられました。
 敵が私の意図を知らされていたかどうかは分かりません。いずれにせよセリュリエ将軍はヴィラ=フランカへの攻撃を押し返された後に、それでもどうにか激しい突撃でそれを奪い、900人以上の捕虜を得ました。モロー将軍は彼の2個師団と伴に平野部にいた敵に後退を強い、ヴェローナへ向け真っ直ぐに行軍しました。夜間の落馬によって傷口が再び開いたにもかかわらず、デルマ将軍は彼の師団の指揮を執りたがりました。
 私はこの攻撃において中央の地点に持ち場を定め、必要なところを補完しました。戦闘は午前11時から午後4時まで続きました。左翼の4個師団は、敵の多大な数的優位にもかかわらず敵に対して優勢を示しました。
 当初は猛烈な兵によっていくらかの優位を得ていたヴィクトール及びグルニエ将軍は、4時頃にまずはその攻撃が鈍らされたのに気づき、そして敵がヴェローナから相次いで増援を受けたため、6時頃には退却命令を出すことを余儀なくされました。
 デルマ師団はいくつかの突撃を、決して敵に突入されないまま支えました。敵がそれに対して送り込んできた多くの兵は師団の側面にまで溢れ出てきましたが、デルマ将軍は素晴らしい機動の腕前を見せ、とうとう敵に後退を強いました。これらの様々な出来事の結果、夕方5時にはセリュリエ将軍がヴィラ=フランカを占拠し、モロー将軍はほとんどヴェローナ城下、敵の宿営地で戦っていました。デルマ将軍も戦場の支配者としてとどまっていましたが、右翼の2個師団の退却が私の右側面を晒したため、私は他の師団に日没まで現在地を保持し、それから会戦前に占拠していた陣地まで退却するよう命じました。
 市民総裁殿、以上が戦闘の結果です。敵からは2000人の捕虜と7門の大砲を奪い、激しく熱心な戦闘が7時間も続いたため戦場には4000人以上の死傷者が撒き散らされています。
 私の損失は死傷者と捕虜3000人近くに達しました。また大砲4門を失いました。
 署名 シェレール。
Réimpression de l'ancien Moniteur, Tome Vingt-Neuvième."http://books.google.com/books?id=EdZnAAAAMAAJ" p651

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マニャーノ史料7

 イタリア方面及びナポリ方面軍司令官から総裁政府へ。
 カステルヌオヴォの司令部にて、共和国暦7年芽月6日[1799年3月26日]夜。
 市民総裁殿、
 私は夜明けに、3個師団と伴にガルダ湖とアディジェ間に位置する敵を攻撃しました。他の2個師団はヴェローナに向かい、第6[師団]はレニャーゴを牽制しました。
 左翼の3個師団は白兵戦で22の堡塁と砦を落とし、そこの敵は陣地からたたき出されました。殺戮は恐ろしく、4時間に及ぶ致命的な戦いの後にデルマ将軍とグルニエ将軍は全ての陣地にいる敵を崩壊させ、手を緩めずに彼らを追撃し、アディジェに架かる2本の橋を奪いました。
 セリュリエ師団も我が船隊に支援されながらガルダ湖沿いの高地を一掃しました。
 ヴェローナへ赴いた2個師団は主攻撃の成功に強力な貢献をなしました。彼らは夜明けから日没まで、非常に多数の敵を相手に偉大な真価を示しながら戦いました。
 我々の徴集兵は古参の擲弾兵と勇気を競いました。ポーランド兵、スイス兵、ピエモンテ兵、チサルピナ兵はいずれも義務を果たしました。彼らはフランス兵と肩を並べて戦うにふさわしい存在です。
 この日の結果はイタリア方面軍にとって過去の勝利に匹敵するほど名誉となるものであり、アディジェに架かる橋2本、大砲12門、軍旗2旒、多くの士官を含む約4000人の捕虜を我々にもたらしました。加えて敵は戦場に3000人以上の死者と数多くの負傷者を残しました。
 デルマ将軍は脚に1発の銃弾を受けましたが、負傷にもかかわらず戦闘を続けました。ダレム将軍は大腿部に1発の銃弾を受け戦闘から離れました。
 敬具。
 署名 シェレール。
Réimpression de l'ancien Moniteur, Tome Vingt-Neuvième."http://books.google.com/books?id=EdZnAAAAMAAJ" p637

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マニャーノ史料6

 クライ中将は以下の報告を送ってきた。
 先月30日にヴェローナ近くで逆襲を受けた後、敵はアディジェを下り、その河とタルタロ間に布陣したうえで、そこからアディジェを再渡河する恐れがあった。だが敵が全戦力を集められないことを理解していたクライ中将は、すぐ彼らを攻撃する決心をした。敵の司令部はイゾラ=デラ=スカラにあった。1つ目の宿営地はヴェローナ城下にある我々の軍に対峙するマニャーノにあり、2つ目はレニャーゴに対峙するメネーゴ川沿いのレッカ近くにあった。クライ中将の計画は、まずマニャーノ近くの敵宿営地を攻撃し、そして可能ならイゾラ=デラ=スカラまで突入するというものだった。そこで彼は今月5日に敵に接近し、そして朝10時に3個縦隊で彼らを攻撃し、4つめの縦隊がそれを支援した。戦闘はすぐ全面的になり、敵は最も頑強な抵抗を行った。長い間、土地が争われたが、帝国兵の頑強さと勇気が勝利を得た。敵はあらゆる場所で壊走し、マニャーノの宿営地から追い払われた。夜が来て戦闘に終わりを告げた。夜の間に帝国兵はレチェードレ、カステル=ダツァーノ、フッタ=フレダ、そしてヴァレーゼに戦線を敷き、この2度目の敗北後の敵の動きを見張った。
 伝令の出発時点で我々は既に大砲11門、弾薬車30両、軍旗7旒、そして2000人以上の捕虜を得ていた。我々の損害はクライ中将による見積もりだと死傷者2000人。敵の損害は陛下の兵が驚嘆すべき勇敢さを発揮したため、はるかに多い筈だ。
A Collection of State Papers, Vol. VIII."http://books.google.com/books?id=8FlFAAAAYAAJ" appendix p179-180

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