今週の月曜日の小泉進次郎氏の講演会後(関西学院大学で開催されました。)、少しは政治の事に興味を持った学生もいるようです。
1898年6月30日大隈重信が第8代総理大臣に就任しました。大隈重信は1898年と1914年の2回にわたり総理大臣に就任しています。1 838年肥前佐賀藩の砲術長をつとめる上級武士・大隈信保、三井子夫妻の長男として生まれ、幼名は八太郎と名づけられました。
7歳の頃、藩校の下部組織「蒙養舎」に入学。その後、上部の藩校弘道館に入学しました。弘道館では佐賀藩鍋島家に伝わる葉隠(武士というは死ぬことと見つけたりという封建的な武士道の教え)という独特の儒教教育を受けましたが、この儒教教育の封建さに反発し、1854年14歳の時に藩校改革を訴えましたが退学処分となりました。 しかし、その2年後、もうひとつの藩校であった蘭学寮に再入学し、蘭学(オランダの学問)を極め、その学校を卒業すると、1861年23歳の時には佐賀藩主鍋島直正にオランダ憲法を進講するまでになりました。
やはり先見の目があったのですね。その後弘道館が蘭学寮を合併された際に、弘道館で蘭学(オランダ学)を教える教師になりました。そして1865年27歳の時に教頭に昇進しますが、このころになると大隈は蘭学を見限って英語を学ぶようになりました。時は幕末、新しい時代を迎える予兆の時代でもありました。 大隈は教師を辞し、京都や長崎を往来し、尊王派の武士として活躍するようになり、そして1867年(明治維新前年)には江戸幕府将軍徳川慶喜に大政奉還(天皇に権力を返すこと)を勧める計画を練り、佐賀藩を脱藩して京都に赴きました。しかし、その計画は失敗し、とらえられ、佐賀に送還され1ケ月の謹慎処分となりました。 その後すぐに、江戸幕府の倒幕運動が高まり、佐賀藩は、薩長土肥(薩摩、長州、土佐、肥前)のうちの一藩となり、官軍として江戸幕府と戊辰戦争を戦い江戸幕府を倒し、明治維新を迎えることとなりました。 大隈自身は明治維新の1868年30歳の時、あるひとの紹介で明治政府の役人となり外国事務局の参事という職につきます。 その翌年の1869年結婚し、築地本願寺近くに新居を構えました。ここには当時の新進の役人達が多く集まり、政治談議に華を咲かせました。新進の役人達とは、大隈の豪放磊落な性格を慕い集まった伊藤博文や井上馨、山県有朋といった長州藩出身者や、渋沢栄一、五代友厚(大阪振興につくした)といった後に大企業家になった者たちでした。そしてこの家は、政治談議に華を咲かせる「築地梁山泊」と言われるようになりました。この梁山泊で行われた議論で一番の成果は新橋―横浜間の鉄道敷設でした。大隈は鉄道を敷くことは、人々が移動手段を得ることであり、そのことが封建制を打ち破る第一歩であると考えました。明治三年、すでに大蔵省の大輔(次官)になっていた大隈は部下の伊藤博文と相談し、その部下であった官吏・渋沢栄一に鉄道具体策を立案するよう命じました。
しかし、明治維新以前江戸幕府の時代に、幕府がアメリカに鉄道敷設の免許を与えていたため、アメリカが明治政府に「鉄道敷設権は自分達のもの」と抗議をしてきました。大隈はアメリカの抗議を跳ね除け、また軍部も国内の反対派には「鉄道が敷設されると天皇陛下はいつでも京都にお帰りになれる」といってその発言を封じ大隈を支援、大隈は新しくイギリスと組んで鉄道敷設に邁進しました。そして1873年(明治5年)9月初旬、新橋―横浜間の鉄道が敷設されると明治天皇は大変喜ばれ、盛大な開業式の際に大隈と伊藤の2人に剣一振りと金6百円(現在の価値で2〜3億円)を与えたそうです。
こうして大隈は日本政府内で重要なポジションにつきましたが、1881年(明治14年)に自由民権運動の流れの中、新憲法制定論議が高まり、政府内では伊藤博文と井上馨のビスマルク憲法(ドイツ派)を選択する派と、一方はイギリス型の議院内閣制の憲法を推す大隈派とが対立し、盟友でもあった伊藤と衝突し、結局大隈は政府から追放されることになりました。これを明治14年の政変といいます。 この1881年(明治14年)の政変を機に、野に下った大隈は、1882年3月に立憲改進党を結成し、そこに尾崎行雄、犬養毅らが馳せ参じました。丁度このころ、慶応義塾の創設者福沢諭吉とも知り合いになりました。
しかし、政治家嫌い福沢諭吉は、日ごろから大隈のことを「生意気な政治家」と思い、また大隈は福沢を「お高くとまっている学者」と思っており、、雑誌でも、双方を批判する論戦に明け暮れていました。 ある日、雑誌の編集部が大隈と福沢を会わせてみようと企画し、本人達に内緒で酒宴の席を設けました。
いったいどうなるかと、周囲は面白がっていましたが、直接相対した両者は、酒が通ると意気投合し、大隈が「福沢先生はうらやましいですね。未来ある若者に囲まれておいでだ」と言うと、福沢が「あなたも学校をおやりになったらどうです?」と持ちかけられたそうです。これを受け、1882年9月大隈は「政治を改良し、その法律を前進」することを標榜し、「東京専門学校」(早稲田大学の前身)を創設しました。当初は政治経済学・法律学・理学の3学科が設置(その後理学科は廃止)され、のちに、日本最初の純粋な文学研究学科として文学科も設置されました。 設立間もないこの学校は、官学中心主義をとる当時の明治政府(特に政敵となった伊藤博文がおりましたので)は、東京専門学校が「学問の独立」を謳っていたにもかかわらず、大隈という政治家が設立に関与していたという理由で、改進党系の学校とみなし、さまざまな妨害や圧迫を加えました。そして、しばらくの間東京専門学校は講師の確保にも窮するようになりました。しかし伊藤博文は、一方で、大隈の外交手腕を高く評価しており、いつか政治にカムバックさせようとも思っていました。そして、1888年(明治21年)伊藤は大隈を外務大臣に任命し、外国との不平等条約解消を大隈の手腕にかけました。続く黒田清輝内閣でも、大隈は外務大臣に任命されました。 革新的な考えの持ち主であった大隈は新しく外国人判事制度導入を図りましたが、世はまだまだ封建的な考えが主流でした。大隈はこの外国人判事制度に反対する右翼に襲われ爆弾を投げつけられ、右足を切断し、外務大臣も辞職し、しばらく養生することになりました。 そして1896年(明治22年)薩摩藩出身の松方正義の第2次松方内閣が組閣された際、大隈は再度外務大臣として政界に返り咲きました。それもつかの間、翌年薩摩藩出身者と対立しまたまた外務大臣を辞任することになりました。 翌1898年大隈は板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣となり、日本初の政党内閣を組閣しました。この内閣は、俗に「隈板内閣」(わいはんないかく、大隈と板垣の内閣)と言われています。
この本格的な政党内閣も、その後政党内で対立が起こり、組閣からわずか4か月後に内閣は総辞職する羽目となりました。大隈の創設した東京専門学校は、明治30年代以降、学校運営がようやく安定を迎えて、その体裁を次第に整え大学昇格を展望し、1902年早稲田大学として新しくスタートすることになりました。その際の開校式典では政敵となった伊藤博文が挨拶し「大隈君とは色々競ってきたが、教育機関を作った点ではかなわない」と挨拶したそうで、大隈は大層ご満悦であったそうです。1907年(明治40年)大隈はいったん政界を引退し、早稲田大学総長へ就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業に精力的に取り組みました。 翌々年の1909年政敵であった伊藤博文が、外遊中のハルビンで暗殺された際には、その報を聞いた大隈は悲しみつつも、「なんと華々しい死に方をしたものか」と本気でうらやんだそうです。 大正時代に入り、第一次護憲運動が興ると大隈は政界に復帰しました。そして1914年(大正3年)汚職事件で辞職した山本権兵衛内閣の後を受けて、大隈は2度目の内閣を組閣しました(第2次大隈内閣)。 その年7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保を求めて、8月23日に対独宣戦布告をおこない、翌年には外相加藤高明と共に対華21ヶ条要求を提出しました。 しかしその後、政権は次第に国民の支持を失い、1916年(大正5年)10月ついに内閣は総辞職し大隈も政界から完全に引退しました。退任時の年齢は満78歳6か月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録であります。 その6年後の1922年1月10日早稲田において死去。享年83歳でした。告別式は自邸で行れ、後日日比谷公園で国民葬が行われましたが、国民葬にふさわしく30万人の一般市民が参列し、会場からあふれた人々は、さらに沿道にもあふれ、数多くの市民が大隈の死を悼みました。ちなみにその3週間後、同じ日比谷公園で行われた山縣有朋の国民葬では、政治関係者以外の市民はまばらだったそうです。墓所は佐賀市の龍泰寺と東京都文京区の護国寺にあります。 大隈は125歳まで生きることを目標としていました。「人間は25年を5回生きる能力を有している」との持論を持っていました。しかし実際には83歳で逝去。早稲田大学にとっては125という数字は特別なものとなり、大隈講堂の時計台の高さは125尺(約37.9メートル)であるほか、創立125周年にあたる平成19年(2007年)には記念式典を行ったそうです。
大隈公の好きずきはともかくとして、早稲田大学を卒業した方は日本にも海外にもたくさんいらっしゃると思います。財界のみならず政界でもご活躍の方もいらっしゃいますが、大隈公の熱意や思いそして伊藤博文のようなライバル関係を築けている政界の方はどれほどいるのでしょう。
そして、在校生も含め早稲田大学に縁のある方々が今、大隈公のなし得た事をどれだけご存知なのでしょう・・・と、思いながら 今から4年前におこなわれた創立125周年の記念式典の案内をながめていました。
(家族に卒業生がいますが、大隈公については受験の日本史程度の知識しか持っていません。覚えていただけよしかな?)
あはは〜
これは、一寸した大隈重信の講義ですね。
今度は、後藤新平を御願いします。^^
私の好きな人物ですから^^
2011/6/30(木) 午後 1:03 [ goodじいさん ]
大隈重信は、別として、私の友人は、早稲田出身が多いようです。
私も仕事が無くなったら、早稲田大学に入学したいと思っています。
(3校目の大学として、、、。笑い。)
2011/6/30(木) 午後 11:13 [ sharu24jp ]
goodじいいさんさま
こんばんは。後藤新平ですね。勉強いたします♪
明治維新に携わった方々のお話は仮に名もない武士であっても、大変興味を持つようになりました。年のせいかな?
2011/7/2(土) 午後 9:37 [ さかき きこ ]
sharu24jpさま
こんばんは。是非是非、早稲田へ(笑)私の学友も准教授していますし〜。私も東京へ転勤となった暁には、通いたい大学です。(笑)
2011/7/2(土) 午後 9:38 [ さかき きこ ]