迂回路

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神の汚れた手

著者:曽野綾子
出版社:朝日新聞社(朝日文庫 そ-1-1〜2)
読了日:2010/2/21

 一人の田舎の産婦人科医の元に、様々な妊婦がやって来ます。その中には、妊娠を望むのにかなわず不妊治療を行う者もあれば、反対に望まない妊娠をして胎児を「処分」するために訪れる者もいます。

 すべての人間が望まれて生まれた子、喜ばれて育った子ではないというのは、昔からあるごく当たり前の事実であるのに、なぜか人間は今も昔も、すべての人間は祝福されて生まれ育つと信じたがっています。そのため、その残酷な現実にいざ直面すると戸惑い、否定あるいは逃避しようとします。最悪の場合、子供が生まれたという事実そのものを隠蔽あるいは消去しようとします。

 近年は赤ちゃんポストというものもできて話題になりましたが、これの是非は別にして、私がこのシステムが画期的だと思うのは、望まれずに生まれる子供の存在を積極的に認めているところです。極論ですが、子捨てや子殺しが法的に許されないから問題なのであれば、法的に許可してしまえばいいのであり、例えば生後1ヵ月までなら親に限り子を殺したり捨てたりすることを許可すれば、望まれずに生まれた子供が将来自分の出生を呪ったり、障害児の親が子の将来を悲観したりすることはほとんどなくなるでしょう。そこで、せめて殺さないために捨てることを前提にして、その子捨ての受け皿を確保したのが赤ちゃんポストなのです。

 一方で、子供を望むのに生まれないケースがあります。このような場合、先のような望まれずに生まれた子供をこちらに回すというのは、需要と供給が一致していて一見合理的であり、本作品で触れられている菊田事件というのもそのような理屈で起こったものです。
 しかし、いくら養子縁組をしたり子供を横流ししたりしても、遺伝子の上では決して親子ではないわけで、それ故に生じてくる様々な不都合を子供が成長する過程で解決しなくてはなりません。「生みの親より育ての親」というのは私もその通りだと思うのですが、このような例で生みの親でないことを隠し続けることはほぼ不可能であり、また危険であると思います。

 医者という職業は、生殺与奪の力(権利ではない)を持ちます。そして多くの場合、人間を殺すことは生かすことに比べ簡単であるため、その力は患者を生に導くより死に導く方が圧倒的に多くなります。しかし、医者はあくまでも医学的な理由に基づいて、患者やその家族のためにその力を行使するのであって、医学的でない理由に基づいていたり、自身や病院の利益のためにそれを利用したりすることは許されません。許されないのですが、それは確かにある程度可能であり、またその利益を享受するのが誰か、という点については明確な線を引くことが難しいため、厳しく規制することはできないのです。
 「神の汚れた手」とは、本来は神の領域であるはずの人の生き死にを左右するという所業のうち、その最も不明瞭かつ汚い部分を人間である医者がしばしば代行することを受け、その医者の手のことを指したものです。徹底的に延命しようとすればまだ生きられるにもかかわらず、周りの誰もその延命を望まないために治療を諦めて神の御許に送ることとなった――そんな患者は無数にいます。私の手も既に相当汚れているのかもしれません。

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