ドクターSUDA 須田高正のゼロから300km/hまでの軌跡
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ドクターSUDA 須田高正のゼロから300km/hまでの軌跡―18
1981年の再挑戦4時間耐久レース追加文章
30年前の4時間耐久レースを知りたい、また、参戦した内容をもう少し詳しく知りたい等の問い合わせを数多く頂きましたので不足分をプラスさせて頂きます。
また、前回17号で勘違いした内容がありましたので訂正させて頂きます。それは、耐久レース1ヶ月ほど前の雨天での前哨戦200キロレース開催の中でのF―Ⅲレースに3台は走ってしました。そして、このレースの出発の際にステップを慌てて取り付けたのです。 なお、この時の成績は、出来たてマシンのためのセッティング不足とタイヤトラブルなどのために2位9位11位でした。 レーシングマシンを相手に焼入れマシンたちの4時間耐久レース
ライダー全員がこの総合表彰式に昇れたのは全員の努力の結果でした。 1980年代前半の4時間耐久F−Ⅲマシンの大半は空冷エンジンであって、点火装置もポイント式からCDI点火方式が採用されはじめた時代で今日のようなハイテク機構が詰め込まれたマシンではありませんでした。
また、現在の4時間耐久レースは、600ccにて行われていますが、当時は250cc以下の2サイクルと400ccまでの4サイクルマシンによるレースでした。また、80年代初頭では、125cc&250ccレーシングマシンとの混走でした。 そのために、GSX400Eで参戦した時は、多くのレーシングマシンとの争いがプラスされた厳しいものでした。 そして、125ccはともかく250ccレーシングマシンは、パワー&トップスピードともF−Ⅲマシンより勝っていて、それらとのレースは難しいものが有りましたが、耐久レースは、様々な要因がプラスされるために、それなりにレースが盛り上がったものでした。 全車上位予選通過のためにスタート前の和やかなライダーたち。 これだからレースはやめられない
焼き入れマシンと落ちこぼれマシンなどの3台態勢は、私の許容量をオーバーしたものでしたが、ヘルパーとライダー達がそれを補ってくれたレースとなります。
また、当時のマシンは、強化バルブスプリングと「サスを固めて」が定番でしたが、81年度マシンは作動性能の良いサスペンション作りでのレースでした。 これは、スプリントレースとは違う耐久レースは、エンジンを含めそれのみに拠出した作り(セッティング)であると許容量の狭いものになってライダーに負担を与えてしまいます。 そのため、耐久レースでの疲労や様々な出来事に対処しやすくするためには、多少グレードが低くなったとしても、ストロークに余裕のあるレイダウン・リヤサスは、タイヤへの負担を含めライダーへの負担も少なくすると考えての作りでした。 しかし、フレーム剛性への対策が十分でなかったために、満足な走りまでには至らなくてライダーがそれをカバーする走りでした。しかし、トータル的には良い効果が出たと思っています。 レースの結果
全車が上位での予選通過で気分的にもゆとりが出たレースが始まり、ストレートでの絶対的な速さを武器にしながら、リタイヤするマシンなどによって徐々に上位へ進出していき、最終的には総合1&2位がTZ250、3位がRS125、そしてGSX400Eが4位5位6位とクラス1,2,3位をゲットしました。
もちろん、この結果は、ライダーのポテンシャルの高さが大きく貢献したのは言うまでもないことです。 トラブルを克服してクラス3位のゼッケン155
クラス2位のゼッケン123
総合4位、クラス優勝のゼッケン125 ピット作業も順調でした。 ゴール後のエンジン分解検査
トルク型エンジンの2気筒ツインマフラーから発する排気音は、他のレーシングマシンや集合マフラーマシンとのサウンドが明らかに違っていて、それは、異質な排気音と見られていました。 このようなマシンが250ccレーシングマシンをストレートで抜いてしまう様子を見たら「怪しいマシン」と思われても不思議ではなく、最初は450ccの噂が飛び交い、最終的には500ccになっていました。 そのために、怪しいマシンとの考えからクレーム申請が出されてしまってゴール後の検査は3台全てがエンジンの分解検査でした。 また、1台ごとの分解検査であったために、全てが終了した時は夏の日がすっかり暮れていました。 そして、「ナ〜ンだ400ccだってヨ〜」のギャラリーからの1言を複雑な気持ちで聞きながら、今までの苦労を思い起こしていました。 夢のようなトロフイー
総合4位でゴール後のビールは格別であったと思います。
思い起こして鳥肌が立ってしまった作業場
このブログをアップさせて、改めて当時のことを思い起こした時に、思わず寒気を感じてしまったのです。
それは、間口3間(5m40cm)奥行き4間(7m20cm)の展示&作業場の狭い店での3台ものマシンを製作したことであって、どれをどの様にして製作していたのかが、あまり思い出せなかったからです。 出場を宣言してしまって、後戻りが出来ない状態に陥り、後は無我夢中の奮闘であったわけですが「よく出来た」が偽らない気持ちであって、我ながらに驚いています。 そして、この素晴らしい思い出を作ってくれたのは、ライダーを始め多くのヘルパー達のおかげであり、改めて感謝感謝の気持ちでいっぱいです。 足の踏み場もない狭い作業場とは、この事です。 ※ ゼッケン155ライダーの「ばらまた」さんが、違った角度からの耐久レースをアップしてくれています。こちらもご愛読ください。
そして夢 叶わぬ夢でしょうが、今度はビックスポンサーを得て、もう1度耐久レースをしたいものです。きっと新しい何かを発見できると思うからです。
次回より「梶本誠とのボンネビル行」と題して、1994年5月エルミラージュから95年ボンネビルまでを、当時のメモと日記を忠実に紐解いて、私たちの実際を紹介したいと思います。
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炎天下の中、予選が終わった後に社長が「ちょっと身体を冷やそう」とパドック内に出てた屋台で氷イチゴをご馳走してくださいました。
喉を通る冷たい感触を今でも覚えています(^。^)
http://blogs.yahoo.co.jp/kitanotamotu/26233226.htmlにライダーの角度から見た記事をアップさせていただきました。
2010/8/14(土) 午前 11:51 [ ぱらまた ]
長津田店の写真懐かしいです。
人づてに社長がブログ(!)やっているのを知り、拝見させていただきました。
私が今こうしていられるのも、この長津田店が原点。
社長に鍛えられていただいたおかげと感謝しております。
でも、鉄のスイングアームをアルミ風に見せるため、シルバーの缶スプレーで塗らされたのはどーかーと思いますよ。
2010/9/4(土) 午前 5:25 [ イワ ]
皆さん懐かしいですね。私もレースを始めた1年目にヘルパーとしてお手伝いさせて頂きました。#155の担当となり、前日の給油練習でポリタンクが出てきた時、エッこれでやるの??って驚きながらこぼさない様に練習した事、本チャン前にキャブレターをカバーしていたウェスが落ちて、クラッチに咬み込み、レリースレバー側のケーブルが外れてしまって真っ青になって社長を呼んだ事、またA選手がコースレコードを叩きだした時、皆でこれ以上ペースを上げたら飛んじゃうって心配してた事など今でも鮮明に覚えています。社長、イワさん、元気ですか??
2010/9/25(土) 午後 9:08 [ h23*3*961 ]