全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]

ドクターSUDA 須田高正のゼロから300km/hまでの軌跡

    ドクターSUDA 須田高正のゼロから300km/hまでの軌跡―17
 
           1981年の再挑戦4時間耐久レース
イメージ 1
   1,2,3位ライダーと私との7名での表彰式は、夢の集大成でした。

           焼入れマシンと1981年度のレース

 前年度の悲惨な結果を考え複数での参戦としました。また、前年度で課題であったリヤショックをレイダウン方式での作りでグレードアップさせたことと、フロントブレーキも同様にグレードアップさせます。
 複数マシンとは、炎上した焼入れ?マシンを復活させ、もう1台プラスさせた2台態勢であって、2台目のためのライダーを探しました。
 それは、たった1周でレースを終了させた前年度の教訓を糧にしての再アタックでしたが、前年度ライダーとの見解の相違いによってペアを組むことが出来なくなり、ライダー不足に陥ります。
 そこで、新たにライダー募集をしたところ、多数の応募があって最終的に6人が選ばれ、2人はスペアライダーと考えました。
 しかし、そのライダーとしてもスペアは嫌であって「何とかならないか」の懇願をもらいます。
 私もライダー人生を送って走ることへの情熱は分かっていましたので、折角応募してくれたのだから、頑張ってみるかと心を決めます。
 しかし、1度に3台ものマシン作りは大変以外の何ものでもなく、焼入れ?マシンの他に2台の手配は困窮を極めます。
 まず、1台は何とか入手できましたが、もう1台は何ともし難く中古下取車のGS400のフレームを改造してGSX400のエンジンを載せたマシン作りとなりました。(基本骨格は同じであるため可能)
 このGSX400エンジンは、スズキ株式会社からの提供品であって、それは、廃棄処分前のものでしたが宝物に見えたエンジンでした。
 真っ黒マシンと薄汚れた2台のマシンが入手できましたが、一般作業を行いながらの製作は、今現在であったら逃げ出す状況そのものでした。
 しかし、その時の私は若かったことと、この年は前年度と違ってメカニック1名がプラスされたので頑張れたのです。と言っても作業の大半は私1人でした。
 
                3台相手の格闘
 まず、最初は、真っ黒に焼けた1号マシンの再生からはじめますが、点火系、配線電気回りと、タイヤは当然として金属製品以外の全ての交換再生であって、通常であれば使用しないマシンですが、貧乏チームでは自分の体しか提供できない現実に頑張るしかなかったのです。
 これは、自分が選んだ道である為、後悔などの気持ちは一切無い作業でしたが、エンジンの再生を含め膨大な時間が必要でした。
 2台目2号車は、フロントフォークのオーバーホールとリヤショックの改良取付けなどの他には、1号車と同じ内容のエンジン・チユーニング作業など通常作業で済みましたが、3台目のフレーム改造を含めた「落ちこぼれ?」3号マシンは「泣きが入った」ほどの時間を要しましたが、何とか作り上げることができました。
 また、この時、オイルクーラー購入の資金が無かったために、少しでも冷却効果を上げるために、クランクケース等にハンドドリルによるタッピングホールを施して、表面面積を増やす作業をライダーを含めた全員で行いました。
 この様に苦労はしましたが、全員一致での泣き笑い作業の後に嬉しい結果を得ることができたのです。
 
イメージ 2
 軽量化のために3台ともキャストホイールからスポーク&アルミリムに変更して、フロントブレーキもスペシャルになりました。
 
 
 
 
 
 
 文字に書けば簡単ですが、この3台のために1夏で5キロほどの体重を減らしての製作作業は、悲惨悲壮そのものでしたが頑張りぬいたのです。
 また、鈴鹿出発の際に、まだステップが付いていないマシンが有って、慌てて作ったなど、ドタバタを通り越した内容での4時間耐久への出発でした。
これだからレースはやめられない
 焼き入れマシンと落ちこぼれマシンなどの3台態勢は、私の許容量をオーバーしたものでしたが、ヘルパーとライダー達がそれを補ってくれたレースとなります。
イメージ 3

まだ、ポリタン給油が許されていました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4
1号と3号が並んでのスタート。2号はこの左側に居ました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 2番目に作り1番状態の良かった2号マシンは、耐久前に担当ライダーに渡っていて、すでに走らせていましたが、落ちこぼれ3号マシンは、鈴鹿での走りが最初であって未知数のままでしたが、その作りに対しての3台は、どれも差の無い作りであったためにそれほどの心配はしていませんでした。
 しかし、この様な体制であるため、予選などでの走りはセッティングなど様子を見ながらの走りであったために、ポールポジションは他に譲りました。
イメージ 5
 最高ラップタイムを出した焼き入れ1号車。Rショックの取り付け位置に注目。
 
 そして、全員でのレースは、クラッチレリーズ・トラブルのためにピット作業に時間を費やしてしまった焼き入れ1号車が、そのロスタイムを挽回するためにクラス最高タイムを出す等の頑張りをします。
 また、エンジンに多少の不満が発生した2号マシン(バルブが1番数多く曲がっていた)はライダーが頑張り、そして、落ちこぼれマシンの優勝と、製作順の逆に3台全てが表彰台に上る、1,2,3位の快挙は、走り終わって分かったことでした。
即ち、成績を考える暇などがない状態のレースであって、最終盤になって初めて、その順位が気になったレースでした。
 この時、2気筒ツインマフラーのために、その排気音は他と違っていて、その排気音から想像すると怪しいマシンと考えられてクレーム申請が出されます。
 ゴール後の分解検査は、疑われた悔しさと夢のような結果とが入り混じった分解作業でしたが、「ナ〜ンだ400ccだってヨ〜」のギャラリーからの1言を複雑な気持ちで聞きながら分解作業を終了させて、翌日の表彰台に向かったのです。
 
              GSX400E以後のマシン
 この80時代の4サイクル400ccは、パワー戦争とも言える時代に突入して4気筒エンジンが台等します。
 このため、何時までも2気筒エンジンがレースの世界で君臨できるわけではなく、私も4気筒エンジンにスイッチしてのレース活動を行い、そのノウハウが、ZZR-1100へと継続されます。
 また、この時期に、マイクロロンとの出会が、私の作業の幅を広げてくれたのです。この、マイクロロンの実際と様々なエピソードも機会を見つけて紹介したいと思います。
 また、その後のレースとボンネビルZZR-1100の苦悩裏話などを復活させる予定です。
              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                   緊急報告
 1994〜85年のエルミラージュ&ボンネビル参加のために多くの力添えを頂いた梶本誠氏が、急病のために7月21日に42才の若さで急逝しました。合掌・・・・・
 梶本誠氏は、モーターサイクリスト誌等で活躍していたので、ご存知の方も多いと思います。また、当時はロサンゼルスに滞在していたために、私のアメリカでの行動全てに手助けをしてくれた方でした。
 そこで、「梶本誠とのボンネビル行」と題して、前回で紹介しきれなかった内容を含め、違った角度からのボンネビル等での活動を出来るだけ早く紹介したいと思います。
 なお、梶本氏は、85年ボンネビルでのオートクルーズ事件の同乗目撃者です。
 (第6回にて紹介)
 
イメージ 6

ガソリンタンクにメインスタッフの一員として記入された MAKOTO KAJIMOTO
 
 次回に進みます

 

開く コメント(1)

開く トラックバック(0)

ドクターSUDA 須田高正のゼロから300km/hまでの軌跡

      ドクターSUDA 須田高正のゼロから300km/hまでの軌跡―16
                           
                4時間耐久レース
 
イメージ 1
      1980年はSTDブレーキと不満足なRショックでの参戦でした

 GSX400Eでのレース活動は、80年から82年までの3年間で終了させますが、苦い思い出も詰まったバイクでした。
 
            弱化バルブスプリング採用での心配
 この様なバルブスプリングでのレースは、長時間の中では許容回転をオーバーすることは仕方のないことであって、81年でのゴールした後のチェックで心配していたバルブの半数がピストンに当たって曲がっていました。
 この、曲がっただけで済んだ理由は、丈夫なバルブであったため折れるなどの最悪なトラブルに陥ることがなかった事は、このバイクを選んだことに間違いがなかった証明にもなりました。
 また、この様な状態でありながらトップスピードも殆んど変わることがなかったのは、ポテンシャルの高さを示すものでした。
 なお、このバルブトラブルの心配のために、例えバルブがピストンに当たってしまっても、バルブの首振り当たり(折れる)を極力減らす方法のピストンリセスを行っていた事と、バルブリテーナーとそのコッターとの組み合わせを吟味した(外れなくする)努力も報われたと考えます。
 
             お粗末なスペアパーツ
 GSX400Eでのレースは、4時間耐久レースが目的であって、そのための耐久性の有るマシン作りでした。
 しかし、予算的弊害等のために、十分な用意ができなく、その中身は悲惨なものでした。
 1980年の時は、ブレーキ&クラッチレバーだけがスペアパーツであって、3台参戦の81年でさえ、ブレーキ&クラッチレバー2セット、リアブレーキ&チェンジぺタル1セット、左右ステップバー1セットだけでした。
 たったこれだけでのスペアパーツでの参戦は、エントリー台数500台以上を相手にするのには、お粗末な内容としか言いようがありませんでした。
 給油タンクはポリタンクであって、クイックチヤージャーなどは夢の世界であり、ライダーが希望したオイルクーラーも買えない悲惨な内容でしたが、81年のレースで3台ともゴールできたことはライダーたちが頑張ってくれたおかげです。
 
                  1980年のレース
 
イメージ 2
               余裕があったスタート前
 
 夢が叶った4時間耐久レースは、オーバーヒート対策と少しでも話題を集めるために女性ライダーを起用してのエントリーでした。
 オイルクーラー無しでのオーバーヒート対策は、エンジンオイルを60番シングルグレードの使用とスパークプラグを熱価の高い12番としただけでした。
 
イメージ 3
  少なすぎたパーツと工具類
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4
 多くのカメラマン注目の中でのスタートは順調だった。・・・・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 たったこれだけの用意での参戦ですが、彼女たちが頑張ってくれてF−Ⅲクラスでのポールポジションまで獲得して希望以上の話題を得る事ができます。
 しかし、レースとは厳しいものであって、楽勝?と考えてのスタートでしたが、転倒したマシンからのオイルに乗ってしまって転倒の憂き目にあってしまったのです。

 スタート前では、「ゆっくり慌てずに行け!!ストレートで抜けばいいのだから」の安全マージン?でのレースでした。しかし、・・・・・
 そして、スタートして1周目終わりのピット前ストレートでは、先行するマシンを掻き分けるようにして抜きながら1コーナーに進入して行くのを見て、「良し良し」と納得していました。
イメージ 5 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 しかし、間もなくして会場内にどよめきが起きて、1コーナー付近に黒煙が上がるのを知ります。
 まさか?「我々の」マシンではないよな?の話をしながら、2周目の通過をまちました。
 しかし、予定時間になっても通過しないために、「もしや」との不安がこみ上げた時にGSX転倒炎上「ライダー怪我なし」の報告を聞きます。
 この時は、落胆と安堵とが入り混じった複雑な気持ちに陥ったことを昨日のように記憶に残っています。
 そして、間もなく引き上げられたマシンを見た時は、「大事に育てたわが子」の変わり果てた姿を見ているようで、しばらく声が出ませんでした。
イメージ 6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
      ・・・・・・・・・・・・・・

              当時を振り返って
 たった1周で終わってしまった耐久レースへの参加は、前年度の耐久レース観戦の際に「自分たちも」の考えから、1年の歳月をかけて様々な努力の末の参加であったのですが、レースの厳しさを知ったのです。
 しかし、この現実は、その後に対する何ものにも代えられない教訓となり、どの様な試練にも耐えられるようになったのです。
 即ち、「失敗の積み重ねから成功を探し出す」そのものであって、全てに通じるものと考えています。

 以下81年耐久レースへ続きます
 
 前回(15)でのバルブリセスに対する説明不足が指摘されましたので、改めて説明させて頂きます。

          バルブリセスとオーバーラップ
 4サイクルエンジとは、吸入、圧縮、爆発、排気の4工程から成り立っているために「4サイクルのエンジン」と言われるのです。
 この4工程の内で、各バルブが作動する時は、吸入工程と排気工程ですが、両バルブとも同時に開いている時があります。
 それは、排気工程の終わりでピストンが一番上に上がった排気上死点の時には既に吸入バルブが開きはじめている。また、この時点でも排気バルブは、まだ閉まりきっていないという事です。
 
イメージ 7 
 即ち、吸入工程(ピストンが下がる)前から、吸入バルブが開き始めていて、排気工程の終わりを過ぎた吸入工程になっていても、排気バルブが閉まりきっていないバルブタイミングのためであって、この事を「バルブのオーバーラップ」といいます。
 この、バルブが開いているという事は、ピストンが上死点になった時にバルブがピストン側にストロークしているわけであって、一番上に上がったピストンとの隙間が狭いと当たる危険になります。
 実際にバルブとピストンが最も近づく位置は、吸気バルブでは上死点後の約5度であって、排気バルブは上死点前5度ほどになります。(エンジンによって異なります)
 このために、エンジン設計(組み立て)の際に安全マージンを保った隙間が作られているのです。
 
           ピストンリセス彫りの理由

 圧縮アップのためにヘッドを面研すると、それだけバルブがピストンに近づき、オーバーラップの多いレース用カムを採用すると同様な現象になってしまいます。
 この危険を回避するためにピストンのバルブ逃げ部を更に削ってやって、ピストンにバルブが当たらないための隙間を作ることを「バルブリセス」を彫るといいます。
 イメージ 8
 矢印の部分がバルブが当たらないためのリセスであって、面研とカム交換のために、これを更に深く彫ったのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
    GSX400のピストンではありません。
 
 
今週も楽しいドクターSUDAWEB ポップアップセールも新しい車種が登場
こちら経由でお戻りください!!!
 
 
 

 

開く コメント(2)

開く トラックバック(0)

ドクターSUDA 須田高正のゼロから300km/hまでの軌跡

          ドクターSUDA 須田高正のゼロから300km/hまでの軌跡−15
              
                   間違っていなかったマシン選び
 希望マシンが入手できないために、第2候補であったスズキGSX400Eでのレーシングマシン製作は、スタートしてみたら大正解であった事に気が付きます。
 それは、耐久性に優れた作りであったために改良余裕のあるエンジンであった事と、私が絶対に作れないレース用カムシャフトがヨシムラジャパンから発売されていてスズキ株式会社から前向きな援助が有った事でした。
   この、メーカーからの援助は、他メーカーでも同様な行動があって、頑張っているチームに対して多少たりとも援助が得られる等、良い時代が暫く続きます。
 
イメージ 1
               打てば響くエンジン
 エンジンで最も私を喜ばせてくれた1つにTSCCヘッドが有り、それは、私のレベルでのチューニング作業にもっとも効果をもたらすシステムでした。
  このツイン・スワール・コンバッション・チャンバーは、その名前のとおりに、ヘッド燃焼室内に2つの過流を作り出すものであって、その高燃焼効率のために、他のヘッドと比べてノッキング現象が起きづらくなっていて、他よりも圧縮比の高いヘッドが作れたことでした。
 このヘッドは使ってから、その良さが分かった機構でしたが、2気筒エンジンであったことが、選んだ大きな理由でもありました。
  それは、予算的、設備的にもお粗末な私にとって、パーツ点数が少ない2気筒エンジンは、エンジンチューニングの際の手間が少なくなる等、私が最優先?とするエンジンであると同時に、手を加えると必ず良い反応が有ったエンジンでした。
              
 
 
 
                
             
 
 
           違反エンジンと言われるまでの道程は、汗と涙の積み重ね
  開店間もないショップにはお粗末としか言えない工具類での格闘であって、その時に有った工具類は、ミニコンプレッサー、万力、卓上ボール盤、ハンドドリル、アセチレン溶接機、小型電気溶接機、そして小さな工具箱にあったハンドツールと僅かな測定機器だけでした。
   この様に粗末な機器類だけでは、エンジンチューニングなどは当然不可能であって、そのためには、予算削減のための手作り工具などでの格闘でした。
 エンジンチューニングには欠かせない、バルブタイミング測定盤(タイミングホイール)を始めとした特殊工具が全く無かったために手作りでそれらを賄ったのです。
 
                              手作り工具
1)バルブリセスのための特殊治具
2)バルブタイミングホイル
                  徹夜作業で稼いだ金で購入した工具
1)バルブシートカッター
2)バルブリセス用エンドミール
 これらの工具は、作業を始めて必要となった時に手配した物であって、レベルの低いものでしたが、最小最適と考えた物を購入、或いは製作をした泥縄状態での作業でした。
 
イメージ 2
フライス盤が無いためにボール盤でのピストンリセス用治具。
 7mm鉄板とピストンピンで作りました。
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3
資金難など様々な理由のために、分度器で手作りしたタイミングホイール。
 クランクケースに組み付け、検針はクランクシャフトにセットしての測定でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 4
  まず、最初に45°シートカッターを、その後に60°を購入しましたが、32°は資金難のために諦めて翌年にやっと購入しました。
 
 
 
 
 
イメージ 5
ボール盤チャックにセットできるように旋盤加工してもらったエンドミル。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 6
ボール盤テーブルをバルブはさみ角度と同じ角度にセットして、バルブリセスを行いました。
尚、この写真はGSX400のピストンが無いため、他のピストンを横に置いてありますが、実際は左側ピストンピンにセットしての切削でした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 この様に手作りを含めた最小工具でのエンジン作りは、手間がかかりますが、新しい発見などにつながり楽しい作業でした。
  また、最小工具類とたった一人での作業は、食う為の作業が終わってからの制限時間無視での格闘でしか方法が無なく、睡眠時間4時間など体力勝負での戦いでした。
  また、81年2回目の3台出場の時などは、1夏で5キロもの体重減少など悲惨そのものでしたが、その苦労は報われ結果となって現れました.。
 
       その後のレースでは「違反エンジンだ」のレッテルを貼られてしまった。
 それは、あまりにも早すぎたエンジンであったために、400ccではなく450ccだ500ccだとの噂が出てしまって、ゴール後にエンジン排気量の分解チェックをされてしまいます。
 しかし、分解検査では違反エンジンでないことが証明されて優勝トロフィーを頂き人生最高の喜びが得られたバイクでした。
まさに泣き笑いの人生そのものでした。
 
作業とレース内容は、次回に続きます。
 
今週もスズキST250Eの POP UP SALE、Ninja250R IPTOS ST-2MAXZONE最高速記事、ライディングレコーダー&ムービーカメラMRS250K-TypeSの記事などたくさん更新しています。是非遊びにいらしてください。お待ちしています。

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

ドクターSUDA 須田高正のゼロから300km/hまでの軌跡

ドクターSUDA 須田高正のゼロから300km/hまでの軌跡
 
イメージ 1
 
 「出来ない理由を探すことより、あらゆる可能性を探し出す努力」
私は、この言葉が好きであり「諦めない努力」が、私のモットーです。バイクに係わらず、その全てをグレードアップさせための方法であって、新しい何かを探し出すための方法と考えています。
また、そのレベルが低くても、その中での妥協を許さない行動が必要であり、何れは新しい発見があると信じています。
 
エンジンへの拘り
エンジンに拘りを持ち始めた時代は、現在でも同じですが、大企業と比べて金銭的、設備的、組織的など、その能力は足元にも及ばない中での格闘であって、その内容はレベルが低く失敗も多くて僅かなものでしたが、人がやらない事への挑戦は、新しい発見につながりました。
現在のハイレベルなテクノロジーと比べたら、当時のものは、お粗末なものでしたが、その時代時代のレベルの中での格闘をしていたわけで、笑うことはできません。
また、今現在、一番良いと思われる物を使い続けることではなく、それを理論的或いは物理的に良い方向に改良したらと考えて挑戦しました。
しかし、そう容易く良いものは出来るわけがなく失敗の繰り返しであり、考えたようにはなりませんでしたが、その繰り返しの中で幾つかのヒントを見つけ、その良し悪しに係わらず積極的に試して結果を楽しみました。
そして、この繰り返しが、最終的には良い結果に結びつくことが少なくありませんでした。
 
1960年以後、様々なエンジンを搭載したスポーツ車が発売されるようになり、また、パワーアップパーツ(キットパーツ)も発売され、それらを使っての改良改造したマシンでのレースが盛になります。
また、70年代後半になると、400cc以下のF-3クラスと、それ以上のF-1クラスによるレースが盛んになると同時に、これらを真似た作りを希望する街乗りマシンの需要も多数あった良い時代になります。
この70年代後半までの私は、2サイクルエンジンが主体でしたが、その後は4サイクルエンジンに変わります。
この変更の理由は、70年代後半から排ガス問題がスタートして、4サイクルエンジン車両が数多く発売されるようになり、これからの時代は4サイクルだと考えたからです。
 
 無駄を無くすエンジン作り
当時の4サイクルエンジンのチューニングアップ・メニューは、ハイコンプ・ピストン、ハイリフト・カム、強化バルブスプリングが3大要素であり、今日でもその内容に変わりはありませんが、この時の私は、少し違った内容を取り入れてみました。
それは、他と同様な方法でのチューニング作業では、何時まで経っても、その差を広げることは難しいため、その差を広げるための策を考えてみました。
 様々な定番作業の中から、更にグレードアップさせるプラスαを探す努力でしたが、規模の小さな私が出来ることは限られ、それ以上のもの作り出すことは困難でした。
そこで、考えた末に実行した事は、与えられたパワーの全てを効率良く発生させるための冒険でした。
 
フリクション軽減
 パワーウエイトレシオの重要性と同じで、与えられたパワーをより生かすためには、エンジン内部の無駄(抵抗)を出来るだけ少なくする作業であって、それは手間のかかるものでしたが、少しずつの積みかさねが結果を生み出したのです。
今日では、当たり前の行動であり、その時代でも当然の行動であったと思いますが、私が採用したその内容の1つに、逆行的処置の採用でもあって失敗する恐れがあり、これは冒険そのものでした。
しかし、失敗(出来ない理由)を考えていたのでは前に進めないために僅かな希望を生かす努力をしてみたのです。
 
フリクション・ロス軽減のためにした内容の1つは、強化スプリングではなく、絶対に反対されるであろう使い古しのバルブスプリングを組み込んで様子を見たのです。
バルブスプリングの抵抗は、エンジンを組んだ人には体験が有るはずです。それは、クランクシャフトを手で回した時に感じるバルブ開閉の際の抵抗であって、この抵抗を無くしたエンジンが、ドゥカティのデスモ機構であり、今日ではニューマチックバルブが、その最先端技術です。
しかし、これらを私が取り入れることは出来ませんので、出来るだけ抵抗の少ないスプリングの採用でした。
しかし、このスプリングは、エンジンの高回転域にマイナス要素(バルブサージング)を来たすものですが、私が必要とする回転域まで使用に耐える物であれば良いと考えました。
それは、トルク型エンジンに拘った作りであるため、ピークパワーを越した回転域は不要と考え、その必要回転域まで耐えられるスプリングは、何種類かのテストの後、これが最弱の限度と判断したスプリングを採用します。
この事は、大変危険な賭けであって失敗の心配がありましたが、それはエンジンの使い方(回し方)でカバーする事にしました。
この様なエンジンであるため、カムシャフトを交換していましたが、STDエンジンのレッドゾーン以下での使用でした。
 
また、その他では、クランクケース内のポンピングロスの軽減とクランクマスの軽減など、特別な設備が無くても出来るものを考え実行しました。
また、定番作業であっても様々な方法を何度もアタックして、その僅かな効果の積みかさねが、大きな効果となって現われました。
そして、スペシャルパーツは、カムシャフトのみで製作したエンジンは、効率の良いマフラーがプラスされて抜群の早さのエンジンに仕上がります。
 
   悲しい定めに奮起する
 
イメージ 2
 
この弱化?スプリングを採用したマシンは、第2候補であったスズキGSX-400Eでした。
その理由は、第1希望であった車両が入手できなかったからで、欲しいマシンが入手できない理由は、開店間もないショップでは、品不足の人気車両は、その実績から入手が困難であったからです。
それは、現在でも続いている力関係が大きく立ちはだかっていて、実績が無ければダメでした。 
これは、企業政策として当然の行動でしょうが、将来に夢を持った者にとっては悲しい政策であって悔し泣きをしました。
折角の若葉を育てる、或いは、枯れそうな木に水をやる等の無駄な行動はしない等の政策とあきらめましたが、この悲しい定めが、逆に私を奮起させたのです。
なお、このシステムは、当時より現在のほうがより厳しい環境になっているため、今後の二輪業界に悪影響を与えるなどの不安があります。
 
以下、次回に続きます。
 
今週はSR400のキャブレター新車が破格で登場しています。まだまだ続くポップアップセールお見逃し無く!
 

開く コメント(1)

開く トラックバック(0)

ドクターSUDA 須田高正のゼロから300km/hまでの軌跡ー13

ドクターSUDA 須田高正のゼロから300km/hまでの軌跡―13
病室でエンジンの組み立てー2
 
         病室全員での隠密作業
 
イメージ 1
    病室でエンジンを組んだヤマグチ・オートペット50cc
 
見つからない工夫は、部屋(6人部屋)の住人の協力が必要であり、また、彼らも「ひま」でした。
 医師、看護士の巡回時間は決まっていたので、その合間を見はからっての作業ですが、それは、見張りも含めて全員参加でのワイワイ、ガヤガヤ作業でした。
 と、なると、持ち込んだパーツの数が足りなくなってしまい、最後にはエンジン全てを持ち込んでしまいます。そのメッセンジャーはバイク仲間であったことは当然でした。
 また、酒盛りこそしなかったが大宴会場?と化した病室は、菓子やピーナッツなどの匂いが部屋中に充満して、オイルの匂いを消してくれたのが大正解でした。
 また、外傷などの外科患者病室は、「にぎやか」であるのが通常であり、看護士たちも黙認してくれていたのを悪用したのです。
 
            左足ブレーキ
 若さとバカさでの病院生活が終わる頃には、エンジンは全て組み上がり、退院の際は、全員から「頑張って」の声援をもらいますが、これは、半ば強制退院であって当然だったと思います。
 
 退院前から計画していた松葉杖での退院は所有していた四輪(マニュアル・ミッション)を運んでもらって左足だけでの帰宅でした。
まだ、右足は使えない状態での強制退院は、アクセルぺタルは松葉杖で行い、ブレーキとクラッチぺタルは左足での退院でした。
 この松葉杖運転は、サイドブレーキで止めた状態から、左足でのクラッチ操作でギアをシフトして、その状態で松葉杖でアクセルぺタルを適当に踏み込んで、クラッチとサイドブレーキ操作でスタートします。
 その後のチェンジアップなどは、アクセルぺタルが松葉杖だけであって特別難しいことではなく、緊急などの必要に迫られた時は、固められた右足で適当にアクセル操作をして走らせました。
 この適当なアクセル操作は、当時のパワーの低いエンジンであったために、例え踏み込みすぎても急加速することはなく安全?運転ができたのです。
 また、ブレーキが必要な場合は、クラッチは使わないでニュートラルにチェンジしながら、左足でブレーキを踏めばいいだけであって、ギクシャクした運転にはなりませんでした。
人間、必要に迫られると努力するものであって、この状態をしばらく続けたおかげで左足ブレーキを完全にマスターしたのです。
それ以後、今日までのオートマチック車運転では左足ブレーキです。この左足ブレーキは、様々なシチュエーションで使えますので、お勧めのテクニックです。
 なお、車の運転に関しては、始めて運転を開始した時から、エンストなどの間違いを起こさないで抵抗なく運転ができた私は、松葉杖運転も同様でした。その理由は、子供の頃からのイメージトレーニングが役立ったのです。
 
自慢話と反省文
 これからの話は、それを聞いた人全員がウソだと言います。車の免許を取得しようと学科の勉強を始め、その際に構造に関する知識も会得し、更にそれを発展させたことと、それまでのイメージトレーニングが役立って、始めて運転した時からエンストなどせず、また、間違った運転もしないで免許が取得できてしまったのです。
 このために、大型二種免許を含め、四輪免許に使った費用車は、受験料を除き10分間練習した(情けない理由によって)300円だけでした。
なお、二輪免許は、時効が過ぎていますが、その内容は公表できませんのでごめんなさいです。(来店された方にはお話できると思いす。・・・・)
 
なお、イメージトレーニングとは、子供の頃からバスに乗る時は、必ず先頭座席に陣取って運転手の一挙一動とバスの動き方などの全てに目を光らせていました。車と飛行機が大好きな子供でした。
子供が喜ぶ景色ではなく運転に興味があって、運転手の操作とそれによるバスの動きに対して、その先の動きを読んで(イメージ)楽しんでいまた。
即ち、次はどの様な操作をするのか、また、そのためにバスがどの様な動きをするかのイメージであって1種のゲーム感覚でした。
アクセル、ブレーキ、クラッチの操作のしかた、特にダブルクラッチ(現在では不要)には興味があって、その理由を聞いたりします。
特に、ハンドル操作によったバスの動き方の中で、左に曲がる時に1度右にハンドルをきって大周りをする内輪差の理由など、子供が質問するレベルではないのに、質問された運転手は親切に教えてくれたのです。
しかし、多分、この時の私に対する運転手の評価は、扱いづらいガキだったと想像できます。
なお、この様なイメージトレーニングだけで運転ができてしまった私であったために、松葉杖運転など問題ではなかったのです。
 
 以上、この自慢話を聞きたくなかったでしょうが、本来の目的は、バイクを楽しむ際の心構えを知ってほしかったからです。
 即ち、ライディングテクニックのためのイメージトレーニングであって、路地からの子供の飛び出し、先の見えないブラインドコーナーなど、最悪の場合を想定しながらの運転であれば、事故や転倒などが少なくなると思うからです。
 
 反省は、先の酒酔い事故の他に、センターライン・オーバーによる正面衝突と、雨天の下り坂でのハイドロプレーニング現象による崖下転落です 。  その他では、数多くのスピード違反と路上駐車禁止による赤切符1枚が今日までの反省材料であって、その大半は22歳から24歳の3年間に集中します。
また、能力低下の年齢になって今後どの様な失敗を引き起こすかは分かりませんので、周りの車のスピードが遅いとカリカリすることは辞めなければと思っています。
 
怖いハイドロプレーニング現象
自分でも経験しましたが、このハイドロプレーニング現象は、コントロール不能になってしまう恐ろしい現象です。
実は、すでに1回経験していて、それは、助手席に座っていた時の恐怖でした。場所は、雨天の東名高速道路の登坂で起きた事件でした。
バイクを2台積んだワンボックスでインターチェンジから間もなくの加速状態(80km/hぐらい)の時に起きてしまったのです。
運転手がアー〜と叫んだのでビックリして前を見ると、少し斜めになった景色を見てエ〜ッと思った瞬間、今度は反対方向に景色が変わりってヤバイ!!と思った瞬間に1回転スリップして中央分離帯ガードレールに突っ込んでいたのです。
この僅かな時間中に、転倒などの最悪を考えていたのでしたが、ガードレールに跳ね飛ばされただけで済んだ事は幸いでした。
しかし、フロント部の大きな損傷と左腕でサイドガラスを割った他に、車内がミキサー状態になったために、購入したばかりのツールキャビネットを大きく凹ませたりの悲惨な状態でした。
この時のハンドル操作は、私の時と同じで全く反応しない車任せの状態でした。そして、2回とも2〜3分山の磨り減ったタイヤでした。
 
イメージ 2 
 凹みを修正してありますが、苦い思い出のツールキャビネット
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
次回へ続きます。
 
ドクターSUDAのホームページも全開で飛ばしております。
 
 

開く コメント(0)

開く トラックバック(0)

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]


.


プライバシーポリシー -  利用規約 -  ガイドライン -  順守事項 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2014 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事