カエルの長靴
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Παραλειπομενων カエルの長靴 ───物薄而情厚─── 故事というものを紐解き乍ら、人の日常と謂うものを委曲なく看取す ればそれは永遠なる命題であると共に、加えて人という者は古から今そ して将来に到るまで変わらない者なのであることを改感する。であるか から修養が常に必要であることの緊要さを識することになる。 この故事は『小學』に存る、司馬光の語ったことばで、その意はとい うと知っておられる方も多いかと希うが、人をもてなし、贈り物をする につけて大事であるは、その行いに於ける情の厚さの貴さを指摘したも のである。 こんな事を態々記せば、人をして、 「そんな当たり前のことを」 といつものように一瞥するが、さりとてそれらの人々の行いを見るや ほど遠いか反対のそれを感じるのみであって、実は何も考えず、何も感 ぜず、何も識らないのである自分を、そのように表現しているのであろ うと惟う事が少なくない世であるとおもう。 先日、日本の知己のお子さんが三歳になられたのを祝して、なにか贈 り物をしようと考えたのだったが、仲仲妙案が浮かばない。さもありな んで僕自身が妻帯もし子供を持っているなら、妻の智慧というものが有 用であるけれども、左右では亡いから困った仕儀になる。 ましてや日本はこんにち過剰なほどに外国の物品があれもこれもと溢 れ、それこそなんでもが「当たり前」になっているから(これが「当た り前」症候群の発症の原因の一とつだと念ってはいるが)、アメリカの それも殆ど入手出来るのだから、贈る側としては、いっそうのハンディ を背負うことになってしまう。 子供服はさすがに米国が数段以上も優れている。だからといってそれ らの服を贈った所で、その服が日本の風景に溶解するかというと否なる ものであり、子供服を着た子供の佇まいを斟酌しなければならない。と すれば贈る側の情の上滑りになってしまう。それでは意は伝わることが 出来ない。 逡巡が旋回し発点に舞い戻るなかで、漸く決したのが、長靴であった。 季節的にも雪もあり梅雨もある日本ならば、ひっそりと目立たぬ長靴が 可いだろうと。この長靴は僕がアメリカの知己の子供に贈る、決まった もので、とかく子供の成長というものは早いものであるから、贈った歳 ぐらいのもので、翌歳にはおそらく履けないものとなろうが、それでも 成長の記念にもなろうと忖度し、カエルのそれと、蜂のそれに、それぞ れの雨合羽に傘をセットにして贈呈している。ただ、日本に贈る場合は それはせず、長靴だけにしている。事由は、大変に可愛いけれども、そ れを親が着せた場合、今時の周囲の親というものの妬みや嫉みも深慮し なければならない。可愛いからというだけで子供に着せても、その子供 も迷惑するやも知れぬし、却って無用な周囲の反応も、今の世の中では 贈る側も考えなければ、それこそ情というものが伝わらぬと考えるから だ。長靴であるなら足下でありそうは目立つこともないだろう。 そういう訳で、今年と来年の子供の足の成長を考えて、カエルと蜂の 双つの長靴をお贈りした。 品物は薄いものであるが、情は籠めた積もりでいる。贈る梱包をしな がら、早く梅雨の季節が来たらん乎と送像う。 −了− 万 俵
West Los Angeles |
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