釈迦仏教の根本思想について

歴史の中に埋もれてしまったゴータマ・ブッダの悟りの核心に迫る

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 涅槃寂静の境地に至った沈黙の聖者たるブッダ(釈尊)は、自らが死んだ後、どのようになると捉えていたのでしょうか?
 
 本ブログ第15章の中で既に詳しく述べたように、仏教最古の経典パーラーヤナ・ヴァッガの中に、これらの問いに対してブッダの明確なる解答が語られています。
 
 バラモンの尊者ウパシーヴァは、ブッダに次のような質問しました。

 あなた(ブッダ)は死んだ後に、意識が持続するのですか、しないのですか?

そして、
あなた(ブッダ)は死んだ後に、永久に存在し続けるのですか、あるいは断滅して消えて無になってしまうのですか?

ー と。

それに対してブッダは、質問者に対して、何とも、意外な答えを明かします。

想いからの解脱において解脱してしまった「沈黙の聖者」には、それ(死後に意識が持続するか否か、永久不滅か断滅か、などといったものそれ自体)を測る基準がない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれ(輪廻から解脱した人)には存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである。
 
―ということを。
 
 ブッダの返答は、実にウパシーヴァ尊者の大いなる期待と願望とを見事に裏切る解答であっただろうと思います。
 
 なぜなら、バラモンの尊者ウパシーヴァは、永久不滅断滅かのいずれかの解答を期待していたに違いないからです。
 
 そもそも、人間には、脱することの難しい二つの根源的な欲求があると思います。

その一つとは、常住(永久不変なもの)に対する潜在的な願望です。

そして、もう一つは、断滅(虚無、消えて無くなること、消滅してしまうこと)に対しての潜在的な願望です。

分かりやすいように具体的に言います。

パーラーヤナ・ヴァッガに登場するブッダ(釈尊)が語っているように、悟った人は、常住(永久不変なもの)に対する潜在的な願望と、断滅(虚無、消えて無くなること、消滅してしまうこと)に対しての潜在的な願望とから解き放たれ(離脱し)てしまっている、ということです。

そして、単刀直入に言えば、最終的には、死んだらどうなるのか、という「想い」から解き放たれている境地が、まさに「輪廻からの解脱」と呼ばれるものだと思います。
 
 
『かれはここで、両極端に対して、種々の生存に対して、この世についても、来世についても願うことはない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。』 (Sn.801)

「種々の生存」とは「輪廻転生」を意味する言葉ですよね。「輪廻転生」に対しても「来世」についても願うことはない、というこれらのブッダの言葉は、最初期の仏教の核心(真髄)を伝えるものである、ということは、疑い得ないと思います。(そのことは、繰り返し語られています。)そして、最初期の仏教では、信仰さえも捨て去り、何も信じないこと(想いからの解脱=無所有)が称賛されていたことは、古い経典も語っているように間違いないのでしょうね。本ブログの第5章、第14章 参照)

もちろん、そのことは、「アートマン」(霊魂)や「死後の世界」の存在を否定している、ということではありません。
 
 何度も言いますが、「アートマン」(霊魂)や「死後の世界」の存在を否定することは、ブッダの悟りではありません。

仏教の初心者や中級者向けに、分かりやすく言いましょう。

それを否定することは、そういったものを信じている人たちと対立します。

そして、それを信じていない人に対して、それらの肯定を押しつけることは、それらを信じていない人たちと対立を引き起こします。

具体的に言えば、あらゆる肯定は、その内に否定を含み、あらゆる否定は、その内にその肯定に対する否定を含むのです。

ブッダが説く真理とは、極めてシンプルなことなんです。

ちなみに、興味がある方向けに、この記事で紹介したブッダの言葉のオリジナルの箇所(Sn.1073〜1076)の3種類の翻訳を引用しておきます。
 
 
 まず最初は中村元先生の訳です。
 
 以下 中村元訳 『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫 P.225〜226)

『Sn.1073 「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、浄涼となるのでしょうか?またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」

Sn.1074 師が答えた、「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである。」

Sn.1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか?あるいはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか?聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

Sn.1076 師は答えた、「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる議論の道はすっかり絶えてしまったのである。」
 
 (結論を先に知りたい方は、または仏教を専門とされていない方は、以下の赤字の部分をすべて飛ばして読んで下さい。)
 
 あと、参考までに荒牧典俊先生の訳と宮坂宥勝先生の訳も引用しておきます。
 
 (以下 荒牧典俊先生訳 『スッタニパータ [釈尊のことば] 講談社学術文庫 P.285〜286)

Sn.1073 ウパシーヴァ尊者が申し上げる。「あらゆるところを見そなわす眼あるひとよ、もしもそのようなひとが久しい年月にわたってそこに静止してじっとしていて、もはやどこへも行こうとすることがないとするならば、そのようなひとは、いったいそこにじっとしているままに解脱して自由であり清涼になっているのであるか、あるいはそのような真実なるひとにも意識の流れは存在するのではないか」
 
 Sn.1074 世尊が説かれる。「ウパシーヴァよ、たとえばランプの火焔が燃え上がっているとき、突然強風が吹きつけてくるならば、消滅してしまい、一つ二つと数えられる存在とは無関係になってしまう。まさしくそのように沈黙の聖者は、それまで存続しつづけてきた主体的存在からも解脱して自由になるとき、すでに消滅してしまっているのであり、一つ二つと数えられる存在とは無関係になってしまう」

Sn.1075 ウパシーヴァ尊者が申し上げる。「そのようなひとが、もしも、消滅してしまっているのであるならば、それはそのようなひとは、あるいはまったく存在することなく虚無になってしまうのであるか。それともあるいは恒常不変な実有(じつう)であることによって変壊(へんね)することなく不老不死であるのか」

Sn.1076 世尊が説かれる。「ウパシーヴァよ、かように消滅してしまっているひとには、ああだこうだと理論的に規定できるような存在は存在しない。そのようなひとをめぐって、ひとびとがさまざまに議論して決定するような概念規定は、そのようなひとには存在しない。あらゆる存在を完全に徹底的に除去していることによって、あらゆる議論や言語表現の対象領域にある諸存在を除去してしまっているのである。」
 
(以下、宮坂宥勝先生訳 『ブッダの教え スッタニパータ』 法蔵社 P.243〜244)

Sn.1073 「もしも彼があと戻りすることなく、いつまでもそこにとどまるならば、普き眼あるお方よ。そこにおいてまさに彼は解脱して、清涼となるのでしょうか。そういった人に意識作用はあるのでしょうか。」

Sn.1074 世尊はお答えになった。
「あたかも炎が風の勢いに煽られて消えてしまい、〔火と〕呼ばれないように、そのように聖者は名称の集まり(=個体的存在)から解き放たれて消えてしまい、〔その者として〕呼ばれない。」

Sn.1075 「彼は消えてしまったのですか。それとも彼は存在しないのですか。さもなければ、実際に常住なものとして無病(=変化しないもの)なのですか。聖者よ。どうぞ、わたくしにそれを説いてください。なぜならば、あなたはこの道理をそのとおりにご存じだからです。」

Sn.1076 世尊はお答えになった。
「ウパシーヴァよ。消えてしまった者については知る手だてはない。彼については何によっても〔それによって〕彼を言い表す〔手だて〕がない。あらゆるものが根絶されたとき、あらゆる言語の道もまた根絶されている」と。
 
 三者の翻訳は、基本的に同じだと思います。
 
 こういった中で、中村元氏が次のような解説をされる根拠の一つは、まさに、パーラーヤナ・ヴァッガの先に引用した箇所(Sn.1073〜1076)にあるのだろうと感じました。
 
 『・・・・ゴータマ・ブッダは、当時の諸哲学説と対立する何らかの特殊な哲学説の立場に立って新たな宗教を創設したものでもなく、また新しい形而上学を唱導していたのではない。かれは二律背反に陥るような形而上学説を能う限り排除して、真実の実践的認識を教示したのである。それは「法を観る」立場である。それは人生の如実相を教えるとともに、人間の実践すべき真実の道であることを標榜している。』 (『中村元選集・第13巻・P.46)

つまり、仏教最古の経典で語られる「輪廻から解脱」している(沈黙の聖者たる)人とは、その究極においては、真実としての「輪廻転生の輪からの解脱する」ということ(輪廻思想という見解)からも離脱している(解き放たれている、捨て去っている)人でもある、ということになるのでしょうね。

もちろん、そこにはアートマン(霊魂)に対する見解さえもない、ということ。(ブラフマンに対する見解も然り。)

なぜなら、「輪廻から解脱」(想いからの解脱において解脱)している人には、固定された特殊な教義や絶対視する見解は何もないのですから。

いずれにしも、ブッダの時代、あるいはブッダの時代に限りなく近い時代に説かれていたブッダの究極の理法とは、現代の大多数の仏教で常識のように語られているものとはかなり違っている、ということになりそうですね。

それと、もし「輪廻転生」や「アートマン」や「死後の世界」がなかったら、「輪廻からの解脱」も確認しようがなく、仏教は意味がない、と主張する人もいるかもしれませんが、パーラーヤナの究極から言えば、「輪廻転生」や「アートマン」(それ以外の永久不滅なる何ものか、あるいは死後においての業の別の世界への瞬間移動など)や「死後の世界」があってもなくても、仏教者としてのやるべきことには何ら変わりはない、本来の仏教者の目指すべきものとは、安心立命たる涅槃寂静の境地を今ここに体現することにある、ということになるのだと思います。

結局のところ、仏教の教理は、時代の経過とともに非常に複雑化し、さらには呪術的・形而上学的な宗教的な色彩を増していったのでしょうが(それはそれとしても)、本来のブッダの時代の仏教は、多くの仏教者が想像(または期待)しているものよりも、いたってシンプルであり、極めて合理的なものあった、ということなのでしょうね。

それは、昔に生きた賢者(ブッダ)たちが、ストレスのない穏やかな人生を送るための人の道(way of life)を示したものである、ということなのでしょうね。

この記事に

 
 今日はブッダの涅槃寂静の境地についてその核心に触れる部分をできるだけ簡単な言葉で話してみようと思います。

まず最初に、ブッダの理法について最も重要なことを言います。

ブッダの究極の境地には、実は、仏教という見解はありません。

もちろん、そこには仏教哲学や宗教的ドグマもありません。

仏教と称した「これのみが絶対に正しいという見解」もありません。

究極に言えば、八正道も四諦説も十二支縁起説もありません。

そして、「これのみが絶対に正しいという見解」だけではなく、「悪しき見解」(邪見)もありません。

よく考えてみてください。

「これのみが絶対に正しいという見解」や「悪しき見解」(邪見)は、対立を引き起こす根源でしょう。

邪見や外道という概念は、実は、争いと対立の極みなのです。

ブッダの究極の境地には、そこには何もないんです。

それは、空(くう)なんです。

空とは、有でも無でもないんです。

空っぽなんです。

ここまで詳しく言っても、おそらくはほとんどの人は分からないと思います。

もっと具体的に言います。

ブッダの理法には、かなり後代の仏教で説かれるような実体論を否定するような論はないのです。

実体論の否定は、実体論の論者と対立します。

魂の否定は、魂を信じる人と対立します。

自我の存在を否定する人は、自我の存在を信じる人と対立します。

輪廻の否定は、輪廻を信じる人と対立します。

唯物論を否定する人は、唯物論の論者と対立します。

断滅論を否定する人は、断滅論の論者と対立します。

神の存在を否定する人は、神を信じる人と対立します。

キリスト教を否定する人は、キリスト教徒と対立します。

イスラム教を否定する人は、イスラム教徒と対立します。

(重要なことは、それだけではありません。

これらの否定論者に対する肯定の押しつけ、つまり否定論者に対する否定もまた、争いや論争を引き起こします。)

そして、それらの宗教や見解はすべて邪見でも外道でもないんです。

それらの宗教や見解を邪見または外道と見做すことは、見解や論に対する執著であり、それは、ブッダの悟りではありません。

さらに、ブッダの究極とは、永遠論(半永久論)と断滅論などとの中間の論を想定し打ち立てるような中道ではないのです。

そこには、論そのものがないのです。

見解そのものがないのです。

空っぽなんです。

何もないんです。

もちろん、そこには仏教という見解もありません。

知らない人には意外に感じられるかもしれませんが、ブッダの時代には、「仏教」という呼び名もありませんでした。

ブッダの時代には、「仏教という見解」も「仏教という宗教」もなかったからです。

つまり、その究極の境地(=空であると感じること)の体現が、涅槃寂静の境地なのです。

そして、それと同時に、寛容の精神に満ちている〈道の人〉は、様々な諸説を承認さえもしているのです。

ブッダの理法とは、意外にも多くの仏教徒たちの想像と期待とを裏切るものだと思います。

それを理解し難くさせている最大の理由は、まさにそこにあると思います。

そして、ブッダの理法とは、きわめて実践的なものです。

繰り返し言います。

ブッダの究極の境地には、見解や論はありません。

形而上学説も宗教的ドグマもありません。

何もないんです。

一切の見解のないところには、争いや確執は起こらないのです。

私は、ただ、そのこと(ブッダの理法)を分かりやすく説明するために、ああだこうだ言っているだけなのです。

それ(ここで語っていること)は、論ではないのです。

そこには、何もない、ということなのです。

そこには、何もない、ということを、どのように何もないか、ということを、私は語っているだけなのです。

ブッダには、説かれるべき見解は何もありません。

見解や論に対して執着するものが何もないところには、対立や確執はないのです。

何もないところには、争いはありません。

そこにあるのは、安らぎの平安だけです。

この記事に

ブッダの根本とは

 
 
 
 釈迦仏教において、苦の終滅(=涅槃寂静の体現)のために最も重要なことは何でしょうか?

それは、他者との対立や争いを回避することだと思います。

なぜなら、人の苦しみの大部分は、他者との関係によって生じるものであり、人は、他者との関係を完全に断ち切って生きていくことは難しいと思うからです。

この原因が何なのかが本当にはっきりと分かったなら、他者との対立や争いはなくなるだろうと思います。

そこで、他者との争いや対立を回避するためには、一体どうすればいいでしょうか?

仏教を実践する人の中で、一生のうちで、そのことを真剣に考えてみたことがあるでしょうか?

そして、そもそも人と人との争いの原因は、一体何なのでしょうか?

それは、「否定すること」です。

否定は、争いの根源です。

否定のないところには争いはないと思います。

大事なことは、ただこれだけだと思います。

シンプルです。
 
 

そもそも悟りとは、何でしょうか?

それは、一種の直観知のようなものだと思います。

すべての多くの点と線とが繋がって、ビビビビっとくるようなものだと思います。

それが本物なら、渇愛は、そのときすでに消滅しているでしょう。

誰かが答えを言って、そのことによって、すべての人が簡単に理解できる、ということは稀だと思います。

そして、大抵の人は、そんなのは当たり前だ、とか、あるいはその話はウソだ、うちの宗派ではそんなことは教えていない、などと言って、それで終わりなのでしょう。

だから、答えは、誰かから根掘り葉掘り教えてもらう、というよりは、大事なことは、何かのいくつものヒントをもとに、自らが発見し閃(ひらめ)くことだと思います。

それと、そういったことを話すこと自体もまた何らかの別のものを否定しいている、という人もいるかもしれません。

言葉は、あくまで世俗諦だと思います。

真理とは、言葉を超えたところにあると思います

この記事に

 
 
  苦を終滅させるために最も重要なことの一つを話しましょう。

 それは、正覚に導くために「ブッダが説いたこと」と「ブッダが説かなかったこと」の違いとその何たるかを明確に知ることです。

 「ブッダが説いたこと」、つまり苦が滅尽した涅槃寂静の境地を今ここに具現させるための方法は、実はアッタカ・ヴァッガとパーラーヤナ・ヴァッガという経典の中にすべて語られています。

 そして、「ブッダが説かなかったこと」が何なのか、ということもまたそれらの経典の中にすべて説かれています。

 アーガマの中にも、多くの真理が説かれています。

 しかし、残念ながら、それと同時に涅槃寂静に至ることを妨げる不純物もたくさん含まれてます。

 ちょっと言いにくいことではありますが、これは誰かがはっきりと言わなければならないことだと思います。

 仏教の真の目標が、苦の終滅であるとすれば、実は、その不純物がブッダの理法の理解を大きく妨げています。

 人間の執著の中で、最も脱し難い執著とは、まさに「ブッダが説かなかったこと」に対する執著だと思います。

 「ブッダが説かなかったこと」に対する執着は、人間の執著の中でも最も脱し難い執著です。

 その内容については、具体的なことは言わないでおきます。

 それを知りたい人は、自分の手で探し、自分の目で見て、直に掴み取ってください。

 その答えは、アッタカ・ヴァッガとパーラーヤナ・ヴァッガという経典の中にあります。

 はっきり言います。

 瞑想だけでは、よほどの天才でない限り、ブッダの理法を目の当たりに体現することは難しいだろうと思います。

 重要なことは、パーラーヤナの真理で語られているように「真理に対する思索」です。

 ブッダの手法とは、他の宗教のそれとはかなり違っています。

 正し道理をもった智慧によって解脱するのです。

 もちろん瞑想は、その段階において不可欠なものだと思います。

 とにかく、「真理に対する思索」を実践してみてください。

 「真理に対する思索」に対する強い欲求は、真理が目の前に現れた時点で消滅するでしょう。

 人は、訪れたことのない国のことは、イメージするしかありませんが、それは、実際に行ってみた人には分かります。

 生きているうちに本気で真理を見たい人は、既存の宗派などから得た先入観を一度完全に捨て去ってみてください。

 これは真実です。

 とにかく「ブッダが説かなかったこと」を捨て去ってください。

 ナーガールジュナやブッダゴーサを乗り越えたところに、ブッダの真理は目の当たりに現われてくるでしょう。

権威やセクトに屈せず、歴史の中に埋れてしまったブッダの理法を白日のもとに曝(さら)すのが私の仕事なのです。

この記事に

第18章 違いを認める

 
 ブッダの理法の核心とは、それを敢えて一言で言い表すとするなら、それは、見解や主張から解き放たれることである、ということだと思う。

実を言うと、仏教というものに対して、既存の先入観を持った読者たちに、私が一言「ブッダの理法の核心とは、見解や主張から解き放たれることである」と言っただけで、その内容を理解すること(あるいは信じること)は難しいと思うので、私は、敢えてその詳細を経典の言葉を引用しながら、本稿の中で、ただああだこうだと言っているだけにすぎないのである。

つまり、ブッダの理法とは、最終的には、仏教とはこうである、ああである、といったような見解や主張からさえも解き放たれなければならないのだ。(もちろん、そこに至るまでには様々な模索があるのだろうが。)

禅が、自分は鍬(くわ)を持っているが持っていない、と言うのも、これと同じ意味だと思う。

分かりやすく具体的に言おう。

ブッダの理法を真に理解し、その境地を体現するなら、その時点で、ブッダの真理への探求(思索)に対する執著は、根が断たれ根無しにされたターラ樹のよう絶滅されてしまうのである。

世の中には、実に多くの見解や捉え方があると思う。

世界のすべてを、何からの一つの思想や見解にとりまとめようとするのは、おそらくは不可能だと思う。

そういったことを踏まえながらも、何らかの特殊な形而上学や思想・宗教を一切打ち立てることもなく、すべての想いや見解から解き放たれることによって、心穏やかなる平安の境地に絶対なる価値を見出したのが、まさに歴史的人物としてのゴータマ・ブッダなのであると思う。

見解や主張がない、ということは、実を言うと、そのことは同時に、違いを認める、ということであると思う。
 
 そのことは、寛容の精神をもって、多くの諸説を承認している、ということを意味する。
 
 だからこそ、ゴータマ・ブッダは、他者との対立や確執を起こすことなく、心穏やかなる平安の境地を持ったまま、死んでいったのだと思う。

ブッダの理法とは、それに共感する人は、稀だと思う。

そして、それ以前に、それを理解することもまた、稀なのかもしれない。

事実、ブッダの理法は、日の目を見ることなく、歴史の中に埋れてしまったままであると思う。

ブッダの理法を欲する人は、あらかじめ決められた、あるいは、自分が固く信じている特殊な見解という網から抜け出ることによって、入り口のドアは開かれてくるのだと思う。

もちろん、あらかじめ決められた特殊な見解を固く信じる人は、それを信じればいいだけの話なのである。

他者を変革するのではなく、己自身が変革するのが、釈迦仏教の根本思想なのだと私は思う。

私がこうだから、あなたもこうしなければならない。

そんなことは、どうでもいいのである。

Sn.837 世尊が説かれる。「マーガンディヤよ、『わたくしはかくかくのことを主張する』というように、このわたくしには宗教的真理について判断したうえで確信していることがない。さまざまな宗教的ドグマについてすら輪廻の根本であることをあきらめ知って、いかなるドグマをも信奉することなく、真理なるままに思惟しつつ、わたくしは内的なる静寂の涅槃をさとったであった。」(荒牧典俊先生訳 『スッタニパータ』釈尊のことば 講談社学術文庫 P.224)

釈迦は、本当は、何も説かなかった。

そこには、主張するものが何もない。

ブッダの時代には、おそらくは、四諦説も八正道も中道も十二支縁起説も仏教という呼称さえもなかったのである。

そこには、「無立場の立場、という立場」さえも無かったのである

私は、ふと感じた。
私が本稿で語った内容の真意を本当に理解する人は、一人か二人か、いるだろうか。

三人いるだろうか。

今では、どうでもいい、という心境になった。

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