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天樟院シリーズ第3弾。
今回は大奥年寄 瀧山です。
大河ドラマでは稲森いずみさんが熱演し、滝山人気も急上昇中。
そこで今回は瀧山のお墓を納めているという錫杖寺(しゃくじょうじ)へ行ってまいりました。
しかしこちらでも特に大河熱は入っておらず、
特に瀧山に関しての説明書きもありませんでした。
やはりブームに乗せられて騒がれるのを嫌っているのだと思います。
関係者の気持ちになれば、それは至極当然と言えるでしょう。
というわけで今回もおしゃべりと画像が伴いませんが、ご了承ください。
なお、大河ドラマでは「滝山」となっていますが、史書には「瀧山」と記されていますので、
ここでも「瀧山」で通したいと思います。
合わせてご了承ください。
早朝のJR川口駅。ここから錫杖寺(しゃくじょうじ)までは徒歩約10分
さて瀧山についてですが、
またまた一夜漬けで調べてみました。
困った時のウィキペディアです(笑)
文政元年(1818年)、14歳で大奥に上がる。
その後、才覚が認められて将軍付御年寄に任じられた。
14代将軍継嗣問題の際には南紀派(慶福派)に属しており、
上臈御年寄・歌橋や13代家定の母・本寿院らと共に一橋派と対立。
家定御台所・篤姫周辺らが推す慶喜の将軍就任に反対した。
とありました。
徳川家定・家茂・慶喜の3代にわたり仕え、大奥をまとめた、
事実上大奥のコントロールタワー的存在だったのです。
朝6時とあって人影もまばらだった。
天樟院とは「一橋派」「南紀派」として対立、とありますが、
これは一般説ですね。
しかし天樟院は一橋慶喜を嫌っていたことは前回の「幾島」の時の調べでわかっており、
また、つい先日、京都(?)で発見された、天樟院直筆の歌を記した古文書の内容にも
「嫁ぐからには徳川のために」とあったことから、
天樟院自身は一橋に片寄ってはいなかったことが見て取れるのです。
錫杖寺。養老元年(717年)本堂建立、天平12年(740年)開基という歴史あるお寺である。
とすればこの瀧山と天樟院が不仲だった原因は、
やはり型破りな天樟院に対し、大奥のしきたりを守ろうとする瀧山。
その対立が浮き彫りになったのだと思います。
実際瀧山は、家茂の実母実成院が大奥に入った時、
派手好きで毎晩女中らと酒を飲み騒いでいた実成院に対し、
「大奥の風紀が乱れるため、毎晩の御酒を控えるように」
と厳重注意をした、という記述もあります。
さらにはこれにより逆恨みをした実成院に毒を盛られ、一時期体調を崩した、
という話も存在するのです。
江戸時代には日光参拝の際の休息所となっていたとのことだった。
14歳で大奥に入り、長年苦労して掴んだ年寄の地位。
言ってみれば叩き上げ、の瀧山からすれば、
いくら御台所とはいえ、自分が全てをかけて守ってきた大奥を荒らすことは許さない、
という気持ちだったのでしょう。
いずれにしても、天樟院、本寿院など、ひとくせもふたくせもある連中の間に入り、
それをさばいてきたわけですから、ある意味大奥NO1はこの瀧山ということになるのでしょう。
天保9年(1838年)本堂焼失。天保12年(1841年)本堂再建。嘉永5年(1852年)川口の大火により堂宇類焼。安政2年(1855年)家定より江戸城の別館、品川御殿を賜り、本堂、庫裡として使用する。現在の本堂は昭和50年(1975年)に新築された。
それと、ちょっと面白いのは、
大河ドラマでは幾島を松坂慶子さん、瀧山を稲森いずみさんが演じておられますが、
実際にはこの瀧山、幾島より11歳も年上だったんですね。
役者さんのイメージとは、恐ろしい(笑)
見上げると瓦には三つ葉葵と、その上には菊のご紋が。
瀧山が大奥を去るのは慶応2年(1866年)。
家茂が亡くなった直後だったといいます。
その後は自分に仕えていた局の生家を頼り、
現在の埼玉県川口市に移り過ごし、
晩年夫婦養子を迎えて「瀧山」の苗字を名乗らせ、瀧山家を興した、
とウィキには記載されていました。
明治9年(1876年)72歳で没、ということでした。
自分に仕えていた局、という人は、いろいろ資料をあさってみましたが、
その後は夫婦養子を取り、これらに「瀧山」を名乗らせた、
ということ意外は結局分からずしまいでした。
また、瀧山自身もそれ以外の資料は皆無で、
歴史の表舞台から去っていったのです。
中央が滝山(瀧山)の墓。特に案内板などはなかったが、戒名が資料と一致したため断定できた。
最後に、こんな資料を見つけました。
これまで、江戸城無血開城に伴い、瀧山は奥女中たちにその功労に合わせて拝領物を与え、大奥の最後の幕引きをしたと言われていた。これに関して、「七宝後右筆間御日記」に慶応3年正月より瀧山の名前が登場しなくなった事や、徳川慶喜正室美賀子が慶応3年に「下宿(永の暇)」した瀧山に対して白銀30枚を送ったとされる事を根拠に、これまでの定説が覆された、と紹介する書籍が見られている。
法名は瀧音院殿響誉松月祐山法尼。明治9年1月14日と記されていた。
今までの一般説では、
瀧山は、一橋屋敷に移る天樟院たちを見送って、最後、彼女自身が大奥の幕引きを行った、
というものでしたが、この資料からすると、
江戸城無血開城を待たず、彼女は大奥を去ったことになります。
14代将軍家茂の死が、ひとつのきっかけになったのでしょうか。
周りは住宅、マンション街。閑静な場所だった。
60年余に渡り大奥を守ってきた瀧山。
清閑な川口の地で、余生を静かに送ったのでしょう。
大河ブームで最近は参拝者が増えたというこの錫杖寺ですが、
やはり静かにしておくことが一番の供養になるのかな・・・
そんなことを考えながら駅への道をのんびり歩いて帰るしぃさぁでありました。
川口駅名プレート。なかなかユニーク。
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しぃさあさん、今回も奥深い内容で楽しませていただきました。
しかし、調べてみると、へ〜って言うことが多いですね。改めて歴史の重みを感じずにはいられません。また、それぞれの派閥争いも見逃せないとこですね。
2008/8/17(日) 午後 1:38 [ レトロマン ]
しぃさぁさん、早朝からのリポート、お疲れ様でした。
大変勉強になりました。
瀧山さんは(さんって・・・^^)大奥のドラマではあまり良いイメージが無かったのですが、実際はとても幕府思いの誠実な女性だったようですね。ちょっと好きになってきました。「篤姫」もそういう目線で観ていこうと思います。
2008/8/17(日) 午後 5:33
すばらしい!!
以外でした。
大奥最後に去った中の一人ではなかったんですね。
それにしても、やはり大奥に長年つかえてきたからなのか、葵の紋。
最後の川口駅の看板、かわいいですね〜。
2008/8/18(月) 午後 9:56
レトロマン兄貴
大奥は派閥の歴史ですよね。
もし今大奥があったら、ちょっと近寄りたくないです(笑)
でも大河のおかげで思わぬ勉強ができました(^_^)v
2008/8/19(火) 午後 10:11
お茶犬さん
瀧山さんは(笑)大河では主役の天樟院と対立してますから、
やはりドラマ上でのイメージは良くないですよね。
でもやはり大奥を守った一人と言っていいでしょう。
ちなみに稲森の瀧山、結構人気あるそうですよ。
2008/8/19(火) 午後 10:14
さんごちゃん
私もちょっと意外でした。
ちなみにこのお寺には、当時瀧山がここまで乗ってきた駕籠が今でも保存されているそうです。
非公開でしたが(>_<)
あの看板、ユニークですよね(^_^)/
2008/8/19(火) 午後 10:17
歴史の裏には二人の女性の力があったからこそ今の東京が存在し、また西郷どんの企みから徳川家を守る事が出来たのだと思います。いつの時代も女性はたくましく思います。
2008/8/22(金) 午前 4:58 [ evolution! ]
過去は今につながっていますからね。
特に天樟院は歴史を左右する動きをした重要な女性です。
しかし、女性はたくましい。
北京五輪を見てそれは実感してます(笑)
男も、もっとがんばらないといけませんね(*^^)v
2008/8/22(金) 午後 11:13
初めまして、非常に分かりやすいレポートを有難うございます、参考になりました。凸
2008/8/24(日) 午前 8:24 [ keiwaxx ]
はじめまして。
こんなのが参考になれば幸いです。
またいらしてくださいね。
2008/8/24(日) 午後 0:47
はじめまして
凄いです!!歴史の探索は凄い!
2008/11/30(日) 午後 8:34 [ toyo-hawaii ]
toyo-hawaiiさんこんにちは。
歴史って面白いですよね。
また遊びにきてくださいね。
2008/11/30(日) 午後 9:36