忌野清志郎と日本のROCK
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お久しぶりの更新です。 仕事の環境が変わってとは言い訳ですが暫く何も書き込む気力が湧きませんでした。 政治の世界の茶番に愛想が尽きたというよりも書き込むほど政治状況が面白くも無く、呆れるほど退屈だたっから。 草薙事件での鳩山の失言は彼の本性を見抜いてれば「いまさら」だし、マスゾエの無能さも「いまさら」だし・・・・なんで彼らが持ち上げられるのか皆目見当付かない状況にも苛立ってましたしね。 鳩山の場合、仮にも法相まで務めた人間しかも行政府側である閣僚が容疑者の段階の人間を断罪したなんて更迭されても仕方ない人権侵害を犯しながら見逃すマスコミ。 まったく・・・・ まぁ、それでも書いておきたいこと書かねばならんことってのは有るんですね・・・ それはこの追悼文です。 彼の音楽が特別好きだったわけでも特別敬愛するアーティストでも有りませんでしたが、私にとって清志郎さんは「アーティスト達に慕われる無視出来ない存在」でした。 どうして彼が「無視出来ない存在」なのか、「日本のロックとはなにか」を彼の死を契機に深く考えさせられました。 wikipediaではrockの定義に関して 「一部のロックは既成概念や体制に対する反抗心や怒りを強く表現することが多く、対抗文化(カウンターカルチャー)としての存在意義を持つ。」と記されている。 rockとpopsに差を見出せない音楽界において、こういう定義を支持する人間は少なくないはずだ。 僕は果たして清志郎はこの概念に当てはまる男だったのだろうかと考えた。 いまの日本に(日本語で)「既成概念や体制に対する反抗心や怒りを強く表現する」音楽がメジャーの中に存在するかと問われれば僕は否としか言えない。 もちろんインディーズの世界まで目を通しきってる訳ではないけど、こういう「対抗文化」は商業的に成功し得ないから存在しない訳だ。 はっきり言えば日本では「愛だの恋だの」で無ければ売れないんである。 商業的に成功しない音楽ってのは文化としての存在意義が限りなく低い。 「聴いて貰わなければ始まらない」のは音楽だけでなく政治演説も同じだ。 だからこそ多くのアーティストが軟派志向になっていく。 軟派を気取りながらもrockの精神を潜り込ませるアーティストも存在するが、清志郎は最後まで自らを演じきった。 結論から先に言ってしまえば日本でロッカーの条件を満たすには「大いなる子供」を演じるしかない。 「既成概念や体制に対する反抗心や怒りを強く表現する」ことは各所との軋轢を覚悟しなければならない。 ここでMADONNAの活動と日本のアーティストの置かれた環境の違いを比べてみる。(我ながら若干の違和感を覚えるがw) マドンナ -ポップスの女王- がROCK界からも評価される理由の一つは「既成概念や体制に対する反抗心や怒りを強く表現する」ROCKの精神を受け継いでいるからである。 キリスト教保守派だけでなくバチカンとも軋轢を起こし、自身が影響を受けているカバラ(ユダヤ教)とさえ揉める。 しかし・・・彼女がどんなにトラブルを起こそうともワーナー(レコード会社ね)は契約を切ることはなかった。 メジャーは彼女から音楽活動・表現の場を些かも奪わなかったのである。 翻って日本はどうか? 清志郎が反原発を歌ったときメジャーは契約を切ったのである。 日本人には「諍いを嫌い和を尊ぶ」心が染み付いているから。 それはROCKを聴く人間達も例外ではない。 彼らROCKを聴く人間達も大人になれば諍い問題を起こすアーティストを「スタンドプレイヤー」とよび見下した態度をとるのである。 でなければ、もっとROCKが市民権を得ていただろう。 でも「和」が大事だから。 清志郎がメジャーでやっていくには問題を起こしても許される「子供」になるしかなかった。 彼が子供を演じていたのか、子供のままだったのかは解らないがね。 ROCKが「和の精神」とは到底相容れないものだと悟った清志郎の心中を察すると胸が痛くなる。 清志郎にも当然ながら混迷期というものがあり足掻き苦しんだ形跡もある。 「解ってくれない大人たち」に最後まで苦しめられた清志郎がファンに対して「愛してます」と言ってしまう気持ちは痛いほど解る。 僕は日本大好き人間だが歪められた「和の精神」に触れるたび何か居心地が悪くなるのも本音である。 「物分りのいい大人」を演じ続けた俺にとって、正直に生きた忌野清志郎のファン達には深い敬意と羨望の気持ちを表さずには居られなかった。 これがこの追悼文を記した第一の理由である。 忌野清志郎さんを応援し続けたファンの皆様、有難う。 清志郎さんを「忌野清志郎」として存在出来る様に応援しつづけたファンに対して些かの嫉妬とともに深い敬意を表します。 ここから先は蛇足である。 清志郎の代わりは居ない。 しかし「大いなる子供」であるアーティストが二人思い浮かんだ。 甲本ヒロトと長淵剛である。 もちろん評価は別としてだが・・・ヒロトは電波メディアから距離を置いている。 長渕は「大人(兄貴)」を演じることに必死なように見える。 やはり「忌野清志郎」は人間として表現者として唯一無二の存在だったってことだろうか・・・ 合掌する。
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