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 ハス(斜)に構えないと批評などはできない。知性ある人なら他人(ひと)に安易に心服などするものではない。世評の定まった奴に群がって、それを一緒に賞賛して見せれば、わが身も昇華したような錯覚に陥るか。そうなのである。それは陥穽に過ぎないのである。知的には迎合そして退廃である。
★三島由紀夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三島 由紀夫(本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)東京市四谷区出身。身長163cm。血液型A型。東京大学法学部(旧制)卒(1947年11月)
 −三島由紀夫は評論が素晴らしいと思う。小林秀雄よりも23年遅れて生まれたこの男は、
 о1902年に生まれていたら、どんな人生を歩んだであろうか?
 −だが、この男は163センチの虚弱な小男に過ぎなかった。陸士・陸大には耐えられなかったであろう。三島由紀夫がどうしても欲しかったものは多分、
 о知性など要らぬから強靭なる肉体&高身長
 −だったに違いなかった。
★福田恆存
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
福田 恆存(ふくだ つねあり、1912年(大正元年)8月25日 - 1994年(平成6年)11月20日)東京市本郷区出身。東京帝国大学文学部英文学科卒(1936年)
 −小林秀雄よりも10年遅れてきた福田恆存こそ巨魁であったと思う。
★小林秀雄ノート001(1999.11.29〜12.16)
http://homepage2.nifty.com/yarimizu2/kobayashinote1.html
1999.11.29 「花」の美しさ
 美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。
 これはまあ、「ごもっとです」としか言いようもない文章ですね。私も「美しい女性」は日夜見ていますが(?)、残念ながら「女性の美しさそのもの」なんて見たことはありません。もちろん、プラトン派ならば「美しい女」はあくまでも「仮象」にすぎなくて、「イデアの世界」にある「美」そのものこそが「真の実在」であり、我々が「美人」に胸をときめかすのは、はるかな「美のイデア」へのあこがれをかきたてられるからだと考えるのでしょう。このあたりの理屈を馬鹿馬鹿しいくらいに体系化していくと「あらゆる学術中の月足らず美学というもの」(「様々なる意匠」)が生まれます。そして、小林秀雄は批評家として出発して以来、このプラトン派の「観念的美学者」は大嫌いなのです。もっともプラトンその人は嫌いではないようなんですね。たとえば「プラトンの『国家』」(『考えるヒント』文春文庫所収)などをご覧ください。
 ところで、研究者の村松定孝氏によれば、この小林秀雄の一句は「『ロダンの言葉』の中にある『美しい自然がある。自然の美しさといふ様なものはない』という言葉の転用」(昭和36年11月『解釈と鑑賞』所収の「小林秀雄名句集」)ではないかということなのですが、「美しい自然」よりも「美しい花」の方がより直截的即物的ですね。それでも「美しい山桜」とまではいかない微妙な象徴性も保持しています。このあたりが、小林秀雄の実に鋭敏なところだと思います。
 まあ、「美しい花がある」というのは、「存在の世界」というより、まずは「(自)意識の世界」の話でしょうね。

 −わたしの友人が学生時代に、
 о“自然的なるものは最も美しい”
 −というようなことを言い書いていた。そもそも惹かれるということは、美しいからだろうか?
 現実存在であれば永遠の美などは存在しまいから、いっときの美が存在し、われわれはそれらに心を掻き立てられるのだろうか?
 『美しい自然』は、摘み取って利休の竹籠に生けるよりは、そのままけばけばしく咲かせておくに限るのではないか?
 つまり利休の人工的美学よりもサル秀吉の黄金の美学のほうが本来は正しいのではないか?
 と言いながら、われわれは里山(人工林)を美しいと思い−
 о心安らかになれる
 −のである。本物の自然は、けっこう恐ろしいのである。恐ろしいから美しいなどと、しゃれているわけには行かぬのである。小林秀雄は骨董屋であるから骨董屋の美とは、その骨董の金銭的価値であろう。安物(駄物)だが美しいということは、まずないし、あっても何の慰めにもならぬ。骨董の美は完全に金銭的価値であろう?
 だが、この金銭的価値の根源も−
 о欲しがる人々が居て金を積んで競合すること
 −その程度のことで生まれる価値なのである。
★小林秀雄ノート002(2000.1.26〜2.5)
http://homepage2.nifty.com/yarimizu2/kobayashinote2.html
2000.1.26 小林秀雄と三島由紀夫
三島 あの小説(引用者註:『金閣寺』)は、小林さんのを盗んだ所があるんです。
小林 どうして。
三島 それは小林さんがいつか書いていらしったんで、美というものは人が思うほど美しいものじゃない、決して美しいものでも何んでもないんだっていう、あれがあの中に入ってるんです。
小林 あ、そうかな。

 美といふものは、現実にある一つの抗し難い力であつて、妙な言ひ方をする様だが、普通一般に考えられてゐるよりも実は遙かに美しくもなく愉快でもないものである。
(小林秀雄「モオツアルト」)

 −骨董は、みんなが欲しがって群がれば価値(価格)は高騰するのである。骨董は価格が高騰すればそれでよいものである。小林秀雄は『実は美しくもなく愉快でもないもの』と両論併記を平気で冒している程度の知能なのである。ものを食べさせると、
 оおいしい
 −と誰もが迎合し怖くて『まずい』などと本当のことが言えない。芸術作品というと誰もが、
 оうつくしい
 −と、さもわかったようなことを言うが、うまいとか、うつくしいとかの主観は、もっと自由な評価表現なのである。だが、そのような形容詞は詩人でもない限りは即興で考えだせるはずがない。山下清の作品もレオナルドの作品もどちらも『うつくしい』と表現するしか語彙はないのである。これは洋の東西に関わらずだ。奇妙なことに音楽やその他の評価表現も人類は多彩なものがないのである。人々の集合的合意が小者がよく言う≪真善美≫に集約するだろうなる都合がよい妄想が成立するとは限らないのである。それどころか、
★斎藤環さんから茂木さんへの手紙
http://mori0309.blog.ocn.ne.jp/mori0309/2009/05/post_448c.html
2009.05.04
小林秀雄は、「金閣焼亡」で
「倫理的でない美はない」
と言ってますから、それとは一見、正反対の意見です。けれども精神に異常をきたしている人やカルト集団を除けば、
「倫理的に正しいとはどういうことか」
について、大方の人の意見は、基本的なところで一致する、というのが私の考えです。だから小林秀雄と斎藤環さんの、両者の本当に言いたい事は、おそらく衝突しない。倫理について違う角度から語っているだけ。心のなかでの思いは同じはず。
つまり、誰も、
「死にたい奴はさっさと死ね。病人の治療なんかしなくていい。社会よ乱れろ。核戦争よ起れ。人類が存在することに意味などないのだから早く滅亡せよ」
のようなことを言わないし、そういう思想が多くの人に受け入れられることもあり得ない。
誰も社会が大混乱に陥ったり、人類が滅亡したりすることを望まない。つねにその逆を望んでいる。それが倫理となる。なぜって、我々は生きている生物であり、人間だから。そう願うのが生きている者の宿命だから。

 −この世で実際に起こっていることは、
 оカルト犯罪
 −であり、
 о自暴自棄による無理心中・無差別通り魔殺人鬼
 −まさに≪鬼(死人)≫の犯罪なのである。
 о1946年(44歳)昭和21年12月 - 青山二郎、石原龍一と『創元』を編集し、「モオツアルト」を発表(http://homepage2.nifty.com/yarimizu2/kobayashinenpu0.html)
 −この小林秀雄の時代状況も現在と同じであった。この批評家小林秀雄の、
 о時代状況に関する鈍感さ
 −には畏れ入るほかはない(嘲笑)。どうして、このような時代状況音痴が勝れた批評家であり得ようか。何かの間違いだと思わざるを得ないのである。それを次稿からも書いて行こう。■<記09年8月15日>

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