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「ネズミの耳のような・・」


Princess Princess - Diamonds・・・・・・


福井県北部の山間部に在住する坂本松男さん(仮名・当時41歳)は、法事のために帰省した西の宮に住んでいる弟と2人、弟の好物で有る「山女」(ヤマメ)を釣りに行こうと言う事になり、自宅から1kmほどの山を流れる川に向かった。

兄弟と言えどお互い家庭を持つとそうそうめったに会えるものでもなく、また子供のころはこうして2人で良く釣りに出かけたものだが、おそらく兄弟で釣りに出かけるなど何十年ぶりだろう、懐しい景色と共にしばし子供の時間に返った2人は梅雨の晴れ間の蒸し暑さの中、触るとかぶれる蛾の幼虫を餌に山女釣りに興じていた。

だが山女は中々釣れず、かろうじて弟が20cm程のものを2匹釣り上げただけで、坂本さんの竿にはどれだけ深みに浮きを投げようと、一向に山女は食いついては来なかった
「昔を思いだすな・・・」坂本さんは弟に話しかける。
「兄貴は昔から釣りが下手だったからな・・・」
「そう言うな、ウグイはお前より大きなやつを釣ったじゃないか」

「兄貴、ウグイは誰でも・・・」
そう言おうとして坂本をさんを振り返った坂本さんの弟、だが彼の言葉は何故かそこで途切れてしまう。
「ウグイがどうしたって・・・」
「兄貴、上、上を見ろ」
「んっ、何だどうした」
「でっかい蛇だ、上から落ちてくるぞ」
坂本さんの弟は早く逃げろとばかりに坂本さんの上の方にかかっている栗の木を指さした。

慌てて上を見上げる坂本さん。
何とそこには体長2mは有ろうかと思われる大きな青大将が、今しも木の枝から落ちそうになっていたのである。
そして坂本さんが間一髪で身をかわした直後、その水道パイプ程も太さが有ろうかと思われる青大将は、ドスっと鈍い音を立ててさっきまで坂本さんがいた場所に落ちてきたのだった。

ウロコの一枚々々がはっきり目で見える程見事な青大将、普通青大将はめったに木に登らないものだが、何か獲物を追って登ってしまったのだろうか、地面に落ちてひっくり返り、体勢を立て直そうと必死の様子だったが、坂本さんたちにも気づいていたのか、体勢を立て直すとさほど慌てる事もなく、近くの岩肌を逃げていこうとしていた。

だが、この時また坂本さんの弟が何か大きな声を上げたかと思うと、次の瞬間彼は青大将を追って坂本さんの近くまで急ぎ足でやって来て、その青大将の尻尾をつかんで引きずり降ろしたのである。
「おい、何をやってるんだ、そんなもの捕まえてもどうにもならんぞ」
蛇の苦手な坂本さんは呆れたように弟に話しかける。

そしてこれに慌てたのは青大将だった。
まさか尻尾をつかまれるとは思ってもいなかったに違いない。
力を入れて逃げようとしたが坂本さんの弟が中々手を離さないものだから、今度は鎌首をもたげて威嚇して来た。

その姿を間近に見ることになった坂本さんと弟、だが彼らはその瞬間、完全に言葉を失った。
「何だこれは・・・」
笑って良いものか、いや笑いでは無い、何かしら得体の知れない恐怖かも知れない。
坂本さんと弟は顔を見合わせると、思わず身震いが走ったような気がしたが、無理もない、何とその青大将の頭には丸い耳が付いていたのである。

それもまるでネズミの耳のような小さな可愛らしい耳で、何かゴミが着いているのでは無く、ちょうどネズミの耳から毛が抜けたような綺麗な耳だったのである。
「捕まえて持っていこう」、そう言う弟、しかしこの山の中でこの青大将である、後で何か障りが有るといけないし、それに明日は祖父の33回忌法要だ、「放してやろう」と坂本さんは弟を諭す。

渋々とつかんでいる青大将の尻尾を放す坂本さんさんの弟、それから急いで家路に向かった2人は、家に帰ると早速件の青大将の話をするが、意外にも坂本さんの父親(当時76歳)も子供の頃、やはり耳の付いた蛇を見たことが有ると言う。
しかもやはり坂本さん兄弟が見た耳と同じように、その耳はネズミの耳にそっくりだったと言うのである。

何とも不思議な話だが、蛇の耳に関する話は山形県、新潟県、愛知県、静岡県、栃木県、富山県、石川県、福井県、鳥取県、岡山県、山口県にも目撃例が有り、ここに挙げた地域には今だに証言者が存命である。
しかも蛇の耳はその地域によって青大将のの場合もあれば、カラスヘビと言う青大将よりは小型の蛇の場合も有り、シマヘビの場合もあるのだが、その耳の形は一様に「ネズミの耳」のようだったと証言されている。

世界中で蛇を神や悪魔の使いとする神話や伝説は数知れず存在する。
その意味では良くも悪くも蛇は人間と接点の大きな生物なのかも知れない。
だが、如何に多くの神話や伝説に登場しようと、耳の有る蛇に関する記述や伝説はこの日本の地方の目撃例と、グアテマラの古代神「グクマッツ」、つまりマヤ文明の至高神「ククルカン」しかない。

さて今夜の話の結文だが、それは記事を読まれた方々の各々の思いとさせて頂こうかな・・・。

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「制限される権力」


HOTEL CALIFORNIA - EAGLES / ホテル・カリフォルニア - イーグルス・・・・・・


「マニフェスト」と言う言葉の発祥はイギリスである。
1830年、中流階級にまで選挙権を拡大した改正選挙法案が議会を通過し、ここに改正後の状況に対応した次世代保守党の政権構想を示す必要が有った、保守党指導者「ロバート・ピール」は、1832年、「タムスワース・マニフェスト」と言う政権構想を打ち出し、これを元にして当時選挙権の資格が自己申告だったことから、有権者を組織的に増やそうとしたのが、おそらく世界初のマニフェストと、その目的だったのではないかと思う。

従ってマニフェストとは「政権公約」と同義だが、日本で最初にこの言葉を使ったのは2003年春の統一地方選挙で、「北川正恭」当時三重県知事が、知事選立候補者に対しマニフェストを作成し、それを発表して県民に信を問おうと提唱したのが始まりではなかったかと記憶している。

では何故日本でマニフェストと言う言葉が使われるようになったかと言うと、その理由は明快だ。
それまで使われていた「政権公約」と言う言葉が余りにも守られず、この言葉自体が国民に緩い拒絶反応、若しくは「政権公約」と言う言葉がイコール「信用できない」と同義的印象を与えるようになった為だ。

言葉と言うものはそれを担保する行動や現実が有って始めて成立し、その行動や現実の意味を代表する。
例えば「私はバカだ」と言いながら、しかし現実の行動では約束を忠実に守り、礼儀正しく、社会の規範となるもので有れば、「バカ」は良い意味を持ってくる。

だが言葉で上品であっても、如何に美しい言葉を口にしようと、それに対する行動が担保されなければ、やがてはその上品な言葉や美しい言葉は全く逆の意味を与えるようになっていくものであり、民主党が政権政党になった直後の日本の国民は「マニフェスト」と言う言葉に何か新しい風を見たように思ったかも知れないが、その後の在り様を鑑みるに、今に至っては「マニフェスト」など「政権公約」よりも信を失っているのではないだろうか。

一般的に集中した権力は強く効率的であり、分散された権力は弱く効力がないが、日本の中で最も大きな権力を持つ者は「内閣総理大臣」であり、本来こうした権力の集中が存在すれば、少なくとも「選挙公約」も「マニフェスト」もここまで国民の「信」を失うはずはないのだが、日本の内閣総理大臣の権力には阻害要因が存在している。

議会制民主主義の老舗であるイギリスの選挙制度は、日本のそれと大した差がないように思われるかも知れないが、有権者は各々の小選挙区で1人の候補者に1票を投じ、この際有権者の関心は小選挙区の候補者にあるのではなく、その候補者を党として指名している政党、その政党の党首に関心がある。

つまり政党は党首を立てて選挙を戦うのであり、政党の党首は選挙で選ばれれば間違いなく首相になる事から、制度上イギリスの国家元首は間接選挙で選ばれているように見えて、その実、国民から直接選ばれていて、選挙も全て政党が運営して公約(マニフェスト)を掲げて戦う訳であり、このようにして選ばれたイギリスの首相は、国民に対して直接の責任を負っていると自覚せざるを得ない。

しかし日本の議会制民主主義は中途半端さが漂う。
政党政治の政党の概念がぬるい。
日本の政党の候補者は自分で集めた資金と、やはり自分が集めた後援会などの組織を使って選挙を戦う為、選挙公約はどちらかと言えば候補者個人の解釈による公約であり、党の公約など自分の都合が悪ければ平気で無視されたり、捻じ曲げられたりする。

それゆえ日本の政党の候補者は「個人」として選ばれ、党への帰属意識よりも派閥やグループへの帰属意識が強く、この意味では政党助成金なども、結局は現職議員の自立性を高める事にはなっても、基本的には政党が捻出する資金ではない事から、政党としての結束を弱める効果しか上げておらず、党首も派閥の合従連衡によって選出され、全く安定していない。

イギリスの首相は国民に対して直接責任を負っているが、この意味では日本の内閣総理大臣と国民の関係は3重、4重にも間接的であり、直接国民に対して責任を負っていない分、内閣総理大臣の権限は分散された状態と言える。
イギリスの議会制民主主義と日本の議会制民主主義は同じように見えていながら、その入口が全く逆なのである。

またこうして「個人」が選挙で選ばれる選挙制度は、一人一人の議員の意識の中に「地元と中央のパイプ役」と言う言葉を唱えさせる下地を作ってしまい、ここでも利益誘導主体の環境が出現し、大義で一致団結する事は難しくなるばかりか、同じ傾向は政府予算に付いても言えることで、予算が地元や特定の財界に流れる道が作られ、これをして選挙資金や組織が作られ、これがいわゆる政財官の三角関係を形成し、どこかでは内閣総理大臣よりも大きな政策決定能力を持つ、若しくは内閣の政策に制限を加える能力を獲得していくのである。

日本の政党は首相決定の要綱を、イギリスのように首相が国民に対して直接責任を持つ方策にすれば、政策決定が現在よりは迅速になり、更には首相の権限も制限を受けずに済むことを理解していない。

或いは首相が権限を持つを事を恐れているのかも知れないが、そのような事では初めから自分達には能力が有りませんと言っているようなものであり、せめて政権政党の党首が首相を辞めた時は必ず総選挙する法案でも通してくれれば、現在よりは首相の国民に対する直接責任が重くなり、しいては首相も権限の制限を受けずに済むのではないだろうか・・・。

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「月明かりにてプラトンを・・・」・2


Rihanna - Unfaithful・・・・・・


第二次世界大戦中、特に東南アジア戦線ではイギリス軍はさしたる戦果をあげていない。
その中で第七十七旅団の活躍は唯一の戦果と呼べるものであった。
ゆえにイギリス国内ではこの第七十七旅団の活躍を大きく賞賛する動きが起こってくるが、新聞各紙はこの第七十七旅団を指揮したウィンゲート少将を「英雄」と書き連ねていく。

しかしこうした英国本土のウィンゲート少将に対する人気は、その一方でイギリス軍インド司令部の反感をかい、その理由はおそらく自身等の怠惰からくる僻みだったのだろうが、第七十七旅団将兵の作戦損耗率が30%を超えた事を理由に、ウィンゲート少将にインパール基地での待機を命じたまま、作戦活動には参加させない方針が取られてしまう。

周囲の雰囲気を微妙に感じ取ったウィンゲート少将、彼はここで軍からの退役を考え、七十七旅団の作戦報告書を書く。
だがこの頃、どうにもビルマに展開する日本軍に比して積極性にかけるインド英国軍司令部に対し、不満を持っていたイギリス・チャーチル首相は、英国軍の非積極的展開に対しての関係書類を集めているうちに、偶然にもこのウィンゲート少将の報告書を目にすることになる。

そして少将の報告書を読んだチャーチル首相は一言・・・。
「この男は天才だ・・・」
そう言うと秘書に命令してウィンゲートを英国本国に召還し、昭和18年8月4日、食事を取りながら話をするが、その時のチャーチル首相のウィンゲートに対する印象は次のようなものだった。

「私は最高の能力を持つ男に出会った・・・」
「彼には国家の運命を担う自負心などない、しかし宗教に対する激しい信仰心と、それに支えられた過酷なまでの使命感、冷静な責任感に裏打ちされた自信がある」
「危機に人生の意義を認め、自身の判断力と決断だけを信じている、戦時に措いて、戦場の指揮官として彼ほどの適任者は存在しようが無い・・・」

チャーチルはこの直後に予定されていた、カナダでのアメリカ大統領ルーズベルト大統領との会談にウィンゲートにも同行するするよう求め、これに同意したウィンゲートは客船「クィーン・メリー号」に乗り込み、チャーチルとともに一路カナダへ向かうことになる。

カナダ・ケベックのでの会談にはイギリス、アメリカの両作戦参謀本部首脳も出席する。
今一つ冴えないイギリス軍の作戦に何か打開策はないか、そう考えたチャーチルだったが、クィーン・メリー号の船上でそうしたチャーチルの意図を感じたウィンゲート少将、彼はもしかしたらチャーチルが自分を本国に召還した時から、チャーチルの意図が分かっていたのかも知れない。

クィーン・メリー号が出航して間もなく、ウィンゲート少将は船内でチャーチル首相とイギリス参謀本部長「サー・アラン・ブルック」大将に、ビルマ制圧作戦プランを解説するのだった。
「兵力は2万6千500人、6個旅団を戦闘、補給、それぞれ半分づつ分け3つの軍に編成し、第1軍は蒋介石と共に中国雲南から、第2軍は北西部から、そして第3軍はその南部からビルマに進行し、ビルマ北部を制圧する・・・」

この計画は確かに画期的では有る。
やはりゲリラ戦であり、敵中に有って敵を分断し補給を絶つ作戦だが、その分リスクも大きく冒険的なプランだ。
穏当なブルック大将の顔色を思わず伺うウィンゲート、しかしブルック大将は「良い作戦だ」と簡単にこれを了承する。
「決まった、これでイギリス軍の展開は決まった」

プランもないまま参加しなければならなかったケベックでの会談に光を見つけたチャーチル、おそらくこの夜は少しは眠れたのではないだろうか。

ケベックではチャーチルの紹介でルーズベルト大統領に直接作戦を説明したウィンゲートだったが、彼は大きな声を出さず、またその話し方は決してカリスマ性のあるものではない。
しかし、ウィンゲートの話し方には独特の魅力が有り、彼は質問されても暫くは黙っていて、やがてそのしばらくの時間がとても待ち遠しい感じになっていくのである。

ルーズベルトもはじめはウィンゲートに質問を浴びせていたが、やがて少しずつ言葉が少なくなり、最後にはウィンゲートの説明に黙って頷いていた。
「将軍、貴下の難局を打開せんとする努力に敬意を表する」
ルーズベルトは大きな拍手を送ると共に、ウィンゲートに握手を求めた。

こうして自身の作戦に英国首相と合衆国大統領のお墨付きを貰ったウィンゲート、しかし華々しい外交の舞台での成功はイギリス軍、とりわけインド司令部には面白くなかった。
司令官である、または参謀本部である、いわゆるウィンゲートの上官を超えてウィンゲートが認められ、自分たちに命令しようと言う訳である、
これで面白い訳が無く、カナダから帰って早速作戦を実行に移そうとした時点から、ウィンゲートに対して組織の嫌がらせが始まって行く。

インド司令部に着任した早々、宿舎やオフィス、自動車などが準備されておらず、副官に聞いても「何も聞いていはおりません」と言われるのである。
参謀本部長通達が有ったにも拘らず、この有様だった。
また作戦そのものしても、「6個旅団も用意できるくらいならゲリラ戦ではなく、正規戦にすべきだろう」とか、「師団なみの兵力でゲリラ戦など聞いたことがない」と言う意見が出て、作戦はようとして進捗しなかった。

このようなインド司令部に対し、ウィンゲートは「分かった、私の命令は参謀本部長の命令でもある、それを実行できないのなら直接チャーチル首相に連絡する」、或いは「私の上官はあなただけでは無い、大英帝国首相、合衆国大統領から問題が有ればいつでも連絡するように言われています」と返し、この事が更にインド司令部の反感を高めて行った。

ウィンゲート少将には大きな目的が有ったし、その作戦には自信が有った。
いずれは兵力10万、20個旅団を率いてバンコク、やがてはハノイ、インドシナを
解放してアメリカ太平洋艦隊と手を結ぶ、そんな壮大な計画をも頭に描いていた。
しかし現実の組織は厳しく、結局ウィンゲートの作戦は投入部隊が当初の6個旅団から3個旅団に縮小され、その代わりに2個旅団をグライダー部隊として、1個旅団を陸路からビルマに潜行させる事で実現した。

そしてこのウィンゲートの作戦を最も恐れたのが、日本軍だった。
日本軍のインパール作戦は、このウィンゲートの動きに対応したものだったのでは無いかと言われていて、事実ウィンゲートの2回目の兵団派遣出発時の3日後、日本軍第15軍の作戦が始まってくるのであり、インパール作戦が始まってくると、ウィンゲートの後方攪乱作戦は日本軍を大いに苦しめ、結果としてこれで補給を絶たれた日本軍第15軍は敗退していく。

ウィンゲート少将はインパールのララガット飛行場から先陣を切って出撃していく、初めて自分が指揮した第七十七旅団のグライダー部隊を見送っていた。
準備、訓練が未熟なため61機のグライダーは操縦ミスから、または過積載によってあっと言う間に28機が山に激突したり、墜落してしまった。

昭和19年3月24日、「オード・C・ウィンゲート」は作戦指揮展開中に搭乗していた飛行機の墜落事故で死亡した。

私は天才では無いが、月明かりでプラトンを読み、命ギリギリのところで、闘うことでしか自身が生きている事を確かめられないこの男の気持ちが少しだけ、ほんの少しだけだがわかるような気がする。

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「月明かりにてプラトンを・・・」・1


宇多田ヒカル - 誰かの願いが叶うころ・・・・・・


「戦争には天才が必要だ。だがその天才が軍の中で如何に生きるかはこの事と同じではない」
イギリス軍第14軍司令官「ウィリアム・スリム」中将はその回想言の最後をこうした言葉で締めくくっているが、イギリス軍の中で間違いなく天才と言われる男がいたとしたら、このウィリアム・スリム中将が回想言で評した男、「オード・C・ウィンゲート」少将ただ一人だろう。

「我々の目標は全ての人間が平和に暮らし、奉仕の共通の機会が与えられる、世界政府機構を実現する事にある」
昭和18年2月、その小柄で痩せた男は薄い唇をしっかり結び、どこまでも青い瞳でイギリス軍特別遊撃隊第七十七旅団将兵達の前に立ったが、少し前かがみな姿勢と静かな声、それに広いひたいと言った具合で、それまでの指揮官のようないかにも軍人らしい感じではなく、どちらかと言えば学者然とした雰囲気に、将兵の多くは拍子抜けしたものだった。

また大英帝国の指揮官であれば必す出てこよう「大英帝国」「国王陛下」「伝統」などの言葉も一切出てこない。
将兵達はこうした言葉を聞き飽きてもいたが、同時に期待もしていたにも拘らず、「オード・C・ウィンゲート准将の口からは最後までこうした言葉の訓示は一回も出てこなかった。

四十歳にしてイギリス陸軍最年少の将官、エチオピア戦争で過酷な戦争を卓越した戦闘能力で切り抜けてきた「恐るべきゲリラ戦の指揮官」、そう言った異名を持つウィンゲート准将はこの七十七旅団を経て少将となるが、第二次世界大戦と言う過酷な戦争の中に有りながら、また自身がその戦争の中で軍を指揮しながら、「何かもっと大きなもの」を見ていたかも知れない。

おそらくそれは彼が持つ「宗教観」であろうし、その宗教観に裏打ちされた絶対的な自信ではなかっただろうか。
それゆえただもの静かと言うだけではなく非社交的で、このような大戦中でありながら、所詮は植民地に出向いて来ている気楽さから、イギリス軍将校達の間では毎晩のように調達した女連とパーティーが行われていたが、ウィンゲート少将はこのようなパーティーには1回も出席したことがなく、上官が命令したした場合のみパーティーに参加すると言った具合だった。

また一方作戦会議でも殆ど発言はしないが、その代わり口を開けば妥協の余地の無い断定的な意見であり、この事が「独善的」と言う影の評価を生み、人付き合いの悪さから「ごますり男」だの「出世至上主義」だの言った評価も出てくるのである。
事実彼の評価は絶対的な信頼か「はなもちならない男」のどちらかであり、「ペテン師」「偏執狂」、アラビアのロレンスの再来」「天才」と言った具合に両極端な評価に別れている。

昭和18年2月に第七十七旅団の指揮官に着任したウィンゲート少将、第七十七旅団の任務は日本軍のインフラを破壊する事にあった。
ビルマ北部に潜んで日本軍基地の糧秣や弾薬を焼き、道路、橋梁、鉄道網を破壊する任務だったのだが、将兵たちに対する訓練は過酷だった。

完全装備でぶっ倒れるまでの行軍を命令し、休息は木陰での小休止のみ、雨が降るのを待っての泥沼訓練に、ジャングルでの訓練ともなれば「蚊」、すなわちマラリア対策も必要だが、マラリア防薬キニーネの服用を厳命しつつも、「蚊帳」の使用は禁止していた。
つまり「蚊」に刺される事に慣れろと言う訳だが、食料も最小限しか持たせず、チューインガムを噛む事も禁止していた。

知っている人は知っているかも知れないが、実はハッカ入のチューインガムを噛んでいると、飢えや喉の乾きが緩和される。
しかしそれすら禁止し、「蚊」に刺されろと言うのだから、旅団にはたちまち病人が増え、将兵の70%が病気にかかったと申告する事態になる。

だがこうした事態にウィンゲート少将は「病気になる事を禁止する」と命令し、ついでに病人の看護は小隊の先任軍曹が担当すると告げる。
小隊の先任軍曹などどれも鬼のような厳しい人である。
一挙に病気の申告は旅団の3%にまで減少したが、その理由はあまりに過酷な訓練を逃れようとする将兵達が、仮病を使ってこれを逃れる事を諦めたからに他ならず、やがて実戦に突入した将兵達はジャングルの中で、ウィンゲート少将に感謝することになる。

すなわち敵に囲まれた状態で病気になると言う事は「死」若しくは「捕虜」になるかのどちらかであり、病気と言えども究極は諦めるか否かの選択である事を思い知るのであり、同じく敵中に有って優雅に「蚊帳」などつって眠れるはずも無く、ただ蚊に刺されることに慣れるしかない現実が眼前に広がっていた。
孤立無援の攪乱部隊であれば、食料の補給も十分では無く、当然食料は不足し飢餓との戦いになり、そこでチューインガムの味など論外だった。

少将の厳しい訓練、その意味は作戦の遂行にあり、しいては将兵を如何にして殺さずに任務を全うできるかである。
実践に即した厳しい訓練こそが将兵の生命を守る唯一の方法だった。
ジャングルで実戦戦闘に入った将兵達は初めてその事に気がつき、それまでは影で少将に対して不満を唱えていた者たちまでもが、少将に対して絶対的な信頼を持つようになっていった。

第七十七旅団の作戦はゲリラ戦である。
従ってこの作戦は2ヶ月で完了し、昭和18年5月前になると、七十七旅団は分散し、日本軍から逃れるようにインドへと撤退した。
敵に追われ、息も絶え絶えになりながら撤退するさなか、ウィンゲート少将は月明かりの下でプラトンの対話集を読みふけっていた。
疲れきっている将兵たちには見向きもしないその態度は、ある種の高慢さ、高下駄な印象があったが、将兵達はこうした少将を囲み、誰も不平をこぼさず次の命令を待っていた。

もはや自分たちの命はこの人にかかっている。
そしてその人は月明かりの下で平静としている。
この高慢さこそが将兵の希望だったのである。

                 「月明かりにてプラトンを・・・」・2に続く。

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「見えるものと見えないもの」


いつまでも変わらぬ愛を(New Version)  織田哲郎・・・・・


missing mass」若しくは「dark matter」とは基本的に「見えない何か」を指しているが、宇宙に存在する銀河の質量は、それを構成している光の明るさから推定される数値より、銀河の運動から求められる質量の方が10倍から100倍大きい。

例えば渦状の銀河でも、そこに存在する星の数から推定される質量より、銀河の回転速度から求められる質量の方が遥かに大きい。
このことから我々が見る宇宙は、少なくとも質量的には目に見えるものと、見えないものとによって構成されている事が分かっている。

つまり暗黒の宇宙の、暗黒の部分は「無」では無いのだが、こうした目には見えない質量のことを「missing mass」または「dark matter」と言い、WMAPなどの観測結果から、こうした「見えない質量」が占めるエネルギーは、全宇宙のエネルギーの23%に及ぶとされ、それは一体何なのかと言うと、まず質量だけが存在し光が無い「ブッラクホール」、それに微小天体、水素ガスに正体不明の粒子などの存在があげられている。

ちなみにこうした中から「銀河」だけを見てみると、「銀河系」の質量は凡そ太陽の2兆倍の質量を有するとされるが、これだと銀河を構成している星の数から推定される質量の10倍近い質量になってしまう。
このことから実に銀河系では全質量の90%が見えない質量で構成されている事になる。

私たちの感覚では、銀河系の星々のその間には空間が広がっているように考えてしまうが、少なくとも質量的な感覚で言うなら、アメーバーのように寒天質のものの中に、光輝く星が埋まっている、そんな感じになるのかも知れない。

そして私たちが宇宙の光、恒星との距離を推し量る単位は「光年」だが、これは光が1年かかって届く距離で、約9兆4600億km。
私たちが夜空を見上げて見ている星の光は、一番近い星でも数年前にその星が発した光であり、これは最も近い恒星である「太陽」でも地球からの距離は1億5000万kmであり、厳密に言えば今見ている太陽の光は今の太陽ではない。

1億5000万kmを光の速度30万kmで割った数値、約8分19秒前の太陽の姿なのであり、更に厳密な事を言えば、こうした恒星の光の元を正せば、太陽などの中心部で起こっている水素核融合反応によって発生した「ガンマ線」である。

この「ガンマ線」は太陽中心部で発生して、太陽表面にまで届くには少なくとも300万年から1000万年かかる。
それゆえ私たちが今見ている太陽の光は、少なくとも数百万年前の「動機」が有って始めて成立している光なのである。

金環食も大変珍しいが、私たちは毎日数百万年前の「動機」が有って今の太陽を見ている。
つまりは、私たちはこの瞬間も奇跡を見ているので有って、今もこの奇跡の中に存在し続けている・・・。

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