自由ネコ通信

冤罪乱発の警察から強制捜査権を剥奪し、職業裁判官から市民の手に刑事裁判権を取り戻そう。予審制度と陪審制度の復活を求めます

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刑事裁判批判の圧殺を許さないため

裁判員制度はひとまず実施させるしかない

− 書評『えん罪を生む裁判員制度』 −

裁判員制度批判の3つの潮流

 裁判員制度の批判は、おそらく次の3つの潮流に整理できるでしょう。
 第1の潮流は、現行の刑事裁判は健全であり、えん罪は存在しないとして制度改革の必要性を否定して裁判員制度に反対するものです。
 高山俊吉弁護士や西野喜一元判事に代表される「裁判員制度はいらない!大運動」がこれにあたります。
 第2の潮流は、現行の刑事裁判がえん罪を多発させ、被告人の人権を否定していると弾劾して改革の必要性を強調しますが、裁判員制度はそのためには不十分か役に立たないと批判する潮流です。
 この潮流には、裁判員制度を刑事裁判制度改革のきっかけにすべきとして裁判員制度の改善を求める立場と裁判員制度は改革の動きをそらすものとしてその実施に反対する立場があります。
 前者の立場に立つ者としては、沢登佳人教授や五十嵐二葉弁護士がいます。
 第3は、第2の潮流と同じく現行の刑事裁判の人権破壊的状況を認めますが、裁判員制度は制度をより悪くするものとして、現行制度への批判よりも裁判員制度批判を優先する潮流です。

現行制度弾劾を軸として展開

 では、石松竹雄・土屋公献・伊佐千尋編著『えん罪を生む裁判員制度』は、どの潮流なのでしょうか。
 第1と第3の潮流は、裁判員制度より現行制度の方がよりましというものですから、批判は現行制度ではなく、もっぱら裁判員制度自体に向けられます。
 しかし、市民参加という新形式をとりつつ現行制度の内実を維持することを目的とする裁判員制度の特徴はその内容的空虚さです。それゆえ、裁判員制度に対する批判は、実際には制度ではなく新たな要素としての「市民」に向かわざるをえません。第1の潮流の高山弁護士らが、市民運動を標榜しながら「義務教育を終了しただけ」などと市民への不信をあおる一方、負担を強調することで市民へ取り入ろうとする矛盾、裁判員制度も口実に導入された公判前整理手続に批判をそらす根拠はここにあります。
 ところで、本書『えん罪を生む…』では、まず現行刑事手続に対する批判から始められ、全5部中の1部を割いて現行手続への批判を行っています。その論理展開は、第2の潮流に属するものの特徴を示しているのです。

刑事裁判の目的はえん罪防止

 本書では、まず「刑事裁判は、なんのためにあるか」と問題設定されています(第1部第1章)。これは非常に重要な設定であり、裁判員制度をきちんと論じるために可能な唯一の出発点です。
 なぜなら、制度の目的を離れてその正当性は論じられないだけでなく、日本では刑事裁判の目的についての共通の認識が法曹界でもいまだ実現しておらず、最高裁などによってこの目的は意図的にあいまい化され、詭弁とウソで歪められているからです。
 そして、本書は結論として「刑事裁判において、第一に重要なことは、有罪・無罪の決定において、えん罪者を一人も出さない」ことと述べています。
 この結論に本書の非常に優れた価値とその限界が示されています。
 まず、刑事裁判の目的を「えん罪者を生まないこと」とすることで、国家刑罰権発動を規制するためという刑事裁判の本質が端的に述べられています。
 さらにその目的を実現するために刑事裁判はどのように構成されないかという視点から、「予断排除の原則」「黙秘権」「無罪推定」「疑わしきは罰せず」などの原則の重要性が強調され、2部以降の現行刑事裁判がそうした原則を踏みにじり、規制の目的をいささかも実現していないという弾劾へと展開されていきます。
 まさにこの点に、現行刑事裁判批判を進めるあらゆる市民に読まれるべき本書の価値が存在しているのです。
 しかし同時に、この刑罰権発動への規制という性格は、著者らには十分に意識化されていません。そこに本書の限界も存在します。

刑事手続全体と裁判との混同

 そうした限界を生み出している根拠の一つは、本書が、捜査から刑罰執行にいたる刑事手続全体と裁判所が行う刑事裁判とを厳密に区別していないことにあります。その結果、「刑事裁判の目的は、治安の維持=社会の安全か、無罪の発見か」と最初の問いが発せられ、「どちらも正しい」が「両立しない」問題を「どう解決」するかという政策判断の問題にされてしまいます。
 しかし、治安の維持は刑事手続全体の目的であっても刑事裁判の直接の目的ではありません。主体を見ても治安維持は行政権としての検察官によって担われるのであり、裁判所はまさにその検察官を規制する存在なのです。
 そこに、司法権は行政権から独立し、個々の裁判所(職業裁判官や陪審員など)が司法権全体から独立していなければならない理由があります。それをあいまいにすることが、現行制度のような職業裁判官と検察官の癒着による有罪前提裁判を生み出しているのです。

歴史的認識の希薄さ

 第2の根拠は、現在の刑事裁判が、市民革命によって専制を倒した近代市民社会の下での裁判であるという歴史認識の弱さです。
 市民革命の成果の一つは、裁判権を国王とその下僕から市民の手に取り戻したことでした。陪審制度はその結果ですし、裁判官と検察官の分離など職業裁判官の性格も大きく変化したのです。
 本書では「刑事裁判の起源が復讐にある」というそれ自体誤った俗論から刑事裁判を論じることで、刑事裁判を個人対個人の対立に歪め、裁判の歴史的、共同体的性格を欠落させてしまいました。その結果、市民を代理して国家を規制するという司法と刑事裁判の最も重要な性格も見失われてしまったのです。
 ちなみに、刑事裁判の起源は共同体内部において共同体の秩序から逸脱したメンバーを共同体の中に再び包含するため共同体が行う教育的行為と、私は考えています。

えん罪を生む現行刑事裁判

 本書は第1部2章以下で現行刑事裁判に対する全面批判を展開しています。
 まず2章では、無罪率の異常な低さを取り上げ、第2部では宇和島事件など個別の事件を取り上げて、現行刑事裁判がいかに日常的にえん罪を生み出し続けているか具体的かつ詳細に論じています。まさに現実の状況から出発して論じていることに、他の法律書などにはない本書の優れた特徴が示されています。
 そしてそうした具体的ケースの検討に踏まえて、第2部第2章でえん罪の原因が12点にわたり、第3章ではそれを支える独立を放棄し腐敗した裁判官の姿が4点に整理されて、説得力豊かに展開されています。
 以下の小見出しを眺めるだけで、現行刑事裁判の絶望的人権破壊状況を感じることができるでしょう。この部分を読むためだけでも、本書はひもとく価値のある著作です。
第2章えん罪を生む捜査と裁判のしくみ
1)自白獲得中心の取調べ
2)人質司法
3)密室の取調べ
4)日本では黙秘権はないに等しい
5)証拠開示の不徹底
6)客観的捜査構造になっていない
7)捜査分担による相互チェックの必要性
8)裁判官の有罪指向
9)自白の任意性審理のセレモニー化
10)検面調書の特信性のセレモニー化
11)犯罪報道に影響される裁判
12)被疑者国選弁護制度の危うさ
第3章「ヒラメ裁判官の誕生」
1)統制される裁判官
2)日本では「裁判官の独立」はないに等しい
3)自ら統制される裁判官
4)転勤による自立的統制

官僚裁判を強化する裁判員裁判

 本書は第4部で裁判員法を全面的に批判する出発点として、「裁判員裁判の本当の狙い」は「官僚裁判を強化する」ことにあると言い切っています。
 精密司法の崩壊と相次ぐえん罪の表面化に示される現行刑事手続の危機と行き詰まりの下で、裁判員制度は市民の動員という新たな形式をとることで現行刑事裁判の実質と本質を維持し続けようとする反動的現状維持政策です。そのことを、刑事裁判はどうあるべきか、それに比して現行刑事裁判はどうなっているかという原則的検討を踏まえているからこそ、本書は解明することができたのです。
 そして、本書は刑事裁判改革のために陪審制度の導入を提言します。本書を真剣に読んできた人はこの提言の正当性を否定することはできないでしょう。

陪審制・予審制の復活を

 とくに、巻末の佐伯千仭教授の「陪審裁判の復活のために」は、現在のえん罪多発裁判の主要な原因が戦後改悪された現行刑訴法そのものにあることを明らかにし、根底的改革の必要性を訴えている点で、刑事裁判を考えるすべての人にぜひ読んでほしい論考です。
 私自身が戦前の刑訴法の解説書などを研究する中でようやくたどり着いた結論を、佐伯教授ははるか以前にいっそう深く明らかにしていました。ただ残念なのは、そこから当然にでてくる陪審制度だけでなく予審制度の復活の要求を佐伯教授は明言していません。現行の反動刑訴法の改革には陪審制度とともに,捜査を当事者主義化する予審制度の復活が不可避なのです。

いったん実施させるしかない

 以上の批判と弾劾の上で、本書は次のような見通しを述べて裁判員制度反対を訴えています。
 「裁判員裁判を実施するうちに、その欠陥が明らかになり…陪審員制度復活への道が開けるであろう」「そして、えん罪の防止という刑事裁判の本来の目的を追究する立場に立つ市民や弁護士を中心とする法曹の間からも、陪審制度復活への要求が高まるであろう」
私もこの見通しにまったく同感であるだけでなく、なんとしてもそうしなければならないと考えています。
 とりわけ、「刑事裁判は健全」「市民は刑事裁判に口を出すな」と主張する現行刑事裁判制度への翼賛運動の台頭は、裁判員制度の実施前の停止が、「やはり市民は刑事裁判への関与を望んでいないし、その能力もない」として、現行制度への信認とされかねない危機的状況を生み出しています。
 そうした状況では、刑事裁判に対する市民の批判運動や救援運動の圧殺を許さないためにも、裁判員制度は一度実施させた上で、新たに根本的改革を目指すしかありません。

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一般市民が裁判に参加することに大賛成です。
国政選挙の時に最高裁の裁判官にXをつけるだけの司法参加では、国民が主権者として、司法に参画する道が少なすぎます。
問題はマスコミに国民の意識が流されない方策をどのようにするかです。裁判員がマスコミに操作される危険性を心配します。

2008/4/26(土) 午後 5:21 [ - ] 返信する

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こんにちは
光市事件をめぐる報道は、マスコミによるリンチ(カメガルーコート/かんべむさし氏の小説)の危険を実感させました。弁護士会が弁護士の職務が遂行できないと弁護士を引き揚げ、国選弁護人の推薦も断れば、裁判は停止し、マスコミも少しは反省したかもしれません。が、弁護士会にはそうした気概は期待できないようです。法的規制には原則反対ですが、残念ながらそれも考えなければならなくなるかもしれませんね。

2008/4/27(日) 午後 9:43 自由ネコ 返信する

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裁判員制度に反対します。
市民に裁判を参加させても改善には繋がりません。
裁判は法令に基づいて審査しなければならないのに、市民の主観で人を裁くのは公平でしょうか?
誤判を下した時の責任はどうなさるのでしょう?
専門家の裁判官に誘導される可能性だって否定できない。
なによりも、憲法違反であることが致命的でしょう。
拒否を許さないって……国民には自由権がないのでようか?

2008/12/13(土) 午後 5:32 [ - ] 返信する

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tya*un*ei さんコメントありがとうございます。年末の忙しさに追われ、返事が遅れてすみません。
tya*un*eiさんの論点についてはすべてすでにこのブログで論じているので、他の記事も覗いてみてください。そして刑事裁判はなんのためにあるのか、考えてみてください。
私は刑事裁判とは,被告人とされた市民の人権を守るために国家の刑罰権発動を規制するためにあると考えています。だから、裁判を受けるのは被告人の義務ではなく権利なのです。そして国家・政府の行動を規制するのに、同じ国家機関である司法官僚と市民とどちらが有効なのでしょうか。
確かに、市民はお上を信頼してまかせていけばいい、余計な口出しをすべきではないという、民主主義を愚民政治とみなす考え方も根強く存在しています。特に刑事裁判は自分たちには関係ないからお上にまかせてかかわりたくないという人は多いようです。でも、連続する冤罪事件が示すように、あなたが運悪く身に覚えのない犯罪容疑で被告席に立たされてからでは遅いのです。

2008/12/20(土) 午後 9:49 自由ネコ 返信する

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