屈辱の象徴「三田渡碑」、本来の場所へ
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屈辱の象徴「三田渡碑」、本来の場所へ 丙子胡乱(1636−37年、清による朝鮮侵攻)当時、「朝鮮が清に降伏した」という記録が刻まれた石碑「三田渡碑」(史跡第101号)が、本来の場所である石村湖周辺に移された。 松坡区は22日、「朝鮮・仁祖17年に当たる1639年、清との戦争に敗北し、屈辱的な講和協定を結んで立てた三田渡碑を、位置の考証を経て、今月25日に本来の場所である松坡区蚕室洞47番地、石村湖・西湖の丘に移転し、公開する」と発表した。 石碑の本来の名前は、「三田渡清太宗功徳碑」で、高さは3.95メートル、幅は1.4メートルある。石碑には、清が朝鮮に出兵した理由、朝鮮が降伏した事実、清の太宗が害を及ぼさず軍勢を引き揚げたことなど、屈辱の歴史が刻まれている。本来の位置は、京畿道広州郡中垈面松坡里187番地で、仁祖が降伏の礼を執り行った受降壇があった場所だと考えられていたが、高宗代の1895年に地中に埋められた後、正確な場所が分からなくなっていた。 その後、石碑は日帝強占期に再び建てられたが、1956年にまたも地中に埋められ、63年の洪水で姿を現すなど、受難が続いた。松坡区石村洞内でも、2−3度場所が変わり、1983年に住宅街の真ん中となる石村洞289−3番地に落ち着いた。07年2月には、三田渡碑撤去を主張する市民が赤いスプレーで「撤去せよ」と落書きしたこともあった。 松坡区は、ソウル市立大ソウル学研究所に依頼して位置の考証作業を行い、石碑の本来の場所が石村湖・西湖の北東部水面下(現在のマジック・アイランド横)だと確認、ここに近い石村湖のほとりに移転することとした。この過程で、石碑が雨ざらしにならないよう屋根を付け、石碑に入ったひびを補修するなど、文化財保存作業も展開した。
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