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治安弾圧法

 思想、社会運動を弾圧する法律は治安維持法以前にも露骨な内容で存在していた。
1  まず爆発物取締罰則がある。自由民権運動の加波山事件を契機に太政官布告として制定され、現代にも延命している罰則。公布1884年(明治17年)12月27日太政官布告第32号、「第一条、治安ヲ妨ケ又ハ人ノ身体財産ヲ害セントスルノ目的ヲ以テ爆発物ヲ使用シタル者及ヒ人ヲシテ之ヲ使用セシメタル者ハ死刑又ハ無期若クハ七年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」
 爆弾使用とは無縁だから関係ないと安心することはできない。1970年代には警視総監公舎事件や土田・日赤事件を始めとして多くのフレームアップ弾圧に活用されている。
 

 2 治安警察法。治安維持法制定以前の強固な弾圧法であるが制定以降も従前の集会、結社の自由を制限、弾圧する法律として機能。当初、早期の社会主義運動への弾圧、また労働争議が頻繁に起き労働運動、組合結成が加速化することへの弾圧目的として制定。公布は1900(明治33)年3月10日。

「第1条 政事ニ関スル結社ノ主幹者ハ結社組織ノ日ヨリ3日以内ニ社名、社則、事務所及其ノ主幹者ノ氏名ヲ其ノ事務所所在地ノ管轄警察官署ニ届出ツヘシ…第8条^打秩序ヲ保持スル為必要ナル場合ニ於テハ警察官ハ屋外ノ集会又ハ多衆ノ運動若ハ群集ヲ制限、禁止若ハ解散シ又ハ屋内ノ集会ヲ解散スルコトヲ得」1901年(明治34)年に社会民主党、1921年(大正10)年、日本社会主義同盟が結社禁止の処分を受けている。10条から12条は臨監する警察官による「弁士中止」の根拠。


 3 行政執行法。治警法と同年に制定された「検束」の根拠となる法律。名称は地味だが無茶苦茶な適用がされる。公布、1900(明治33)年6月2日 法律第84号。行政執行法 

「第1条 ‥該行政官庁は泥酔者、瘋癩者自殺を企つる者其の他救護を要すと認むる者に対し必要なる検束を加へ戎器、兇器其の他危険の虞ある物件の仮領置を為すことを得暴行、闘争其の他公安を害するの虞ある者に対し之を予防する為必要なるとき亦同し

◆〜姐爐慮‖は翌日の没後に至ることを得す仮領置は30日以内に於て其の期間を定むへし」。故森長英三郎弁護士によると(『山崎今朝弥』紀伊国屋新書、収載)

「行政執行法で検束、たらい廻し、長期間拘束、拷問自白の強要、警察による一方的検束、警職法の前身である。<公安を害するの処>という抽象的なことばで、社会主義者はつねに故なく検束された。また翌日日没前に警察署の裏口から出して、そこで検束して表口から入れたり、他の警察署へ検束するたらい廻しを頻繁に行うことによって、前述した別件逮捕の代用品として利用せられた。1931年以降さらに活用、乱用。」


4 過激社会運動取締法。これは治安維持法につながる法律。二度、国会への上程策動があったが破綻している。名前からして露骨なもの。1922年3月24日、貴族院で修正可決、衆議院では審議未了。1923年始めにも再上程策動。「労働組合法案」「小作争議調停法案」と共に労働3悪法といわれ制定反対集会とデモが行われる。
 

1923年9月2日には関東大震災で戒厳令が出される。戒厳司令官は集会・新聞・雑誌・広告の停止、兵器・火薬等の検査・押収、郵便・電信の検閲、出入物品の検査、陸海通路の停止、家屋への立入り検査などの権限をもつ。


 5 治安維持法。1925年(大正14年)法律第46号。

「第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」
 
当時刊行されていた『労働運動』紙8号によると(1925年2月1日発行)5面「<犯罪的サンジカリズム法>として加洲(カリフォルニア州)に於ける治安維持法が1919年4月から施行」と内容を紹介、「この例に倣って治安維持法を発布せんとしている」と記事掲載。「往年の過激法案は今護憲三派内閣の手によって装いを新たにして再び吾々に臨まんとしている、政府は各方面の反対者に対してその目的を無政府主義者及び共産主義者のみを圧迫するもの如く説明している、一般社会主義者、労働運動者、労働運動階級の解放運動に従うものはその適用を受けることを覚悟せねばならない」


 治安維持法制定直前だが、これらの一連の弾圧法により拘束が続いたのが不逞社の金子文子と朴烈。弁護人であった布施辰治は『運命の勝利者朴烈』(1946年刊)で弾圧の経過を記述。

<1923年9月3日の逮捕は保護検束という行政執行法第一条の「救護を要すと認むる者に対して必要なる検束を加う」という規定の適用。9月4日には救護検束が24時間過ぎたので警察犯処罰令の

「一定の住居又は生産なくして諸方に徘徊する者」の該当者として「拘留29日」を即決し、検束した世田谷警察署へ留置したのである。家主に対し検束直後「朴烈はもう還らない。永久に還らないかも知れないから、家を引き取って他の人に貸した方がよい」といって朴烈君の住所を失却せしめ、家財道具等を警察官立会の上で勝ってに処分させた、一定の住所無きものとして警察犯処罰令を適用>。

この警察犯処罰令というのも警察署長またはその代理人が判決を出せる人権蹂躙の弾圧法。そして10月20日に治安警察法第14条「秘密ノ結社ハ之ヲ禁ス」で予審起訴、市谷刑務所に収容。翌1924年2月5日に公判に付し、15日には爆発物取締罰則で追起訴。

1925年10月12日、検事総長小山は刑法73条で大審院に付すべきという意見書を提出。まさに有事の際の「保護」から「大逆罪」まで一直線につなげた弾圧であった。刑法73条は1908年10月より実施、1947年現刑法より削除。「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」。「加ヘントシタル者ハ死刑」と未遂でも大日本帝国憲法の核心である天皇(一家)への「危害」意志をも極刑で裁こうとした。故に制定後に適用された四つの事件のうち、幸徳事件、金子文子・朴烈事件の二つは現実には「危害」の行為はなく、大逆罪を拡大解釈したフレームアップ弾圧である。

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