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ポルトガル8日間の旅

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22.ポルトガル旅行 補遺 その2

ポルトガル8日間の旅 
22.ポルトガル旅行 補遺 その2


6. カーネーション革命  
20世紀で最も長い独裁体制を終わらせた、1974年のポルトガル軍事クーデター。ほとんど無血に
終わり、カーネーションが革命のシンボルとなったので、このように呼ばれる。別名「リスボン
の春」。

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<カーネーション革命の日を祝う人たち>

1974年4月25日早朝オテロ・デ・カルヴァーリョ大尉に指揮されたリスボンの国軍運動は決起
し、市内の要所を占拠した。共和国警備隊本部で包囲されたカエターノ首相はあっさり投降し、
スピノラ将軍に権力を委譲した。流血はほとんどなく、無血革命だった。カエターノ首相、ト
マス大統領は翌日の飛行機でマデイラ島に移された。MFAを中核とする救国軍事評議会が結成
され、スピノラ将軍は近く臨時政府を組織すると発表した。

革命の成功を知ったリスボンの街角は花束で飾られ、市民たちはカーネーションを手に兵士た
ちと交歓した。革命軍兵士たちは銃口にカーネーションの花を挿した。現在ポルトガルでは4月
25日は「自由の日」として国民の祝日となっている。

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<4月25日橋とクリスト・レイ>

またリスボンと対岸のアルマダとを結ぶ橋(当時、独裁者サラザールの名を取ってサラザール
橋と呼んでいた)をこの革命以来「4月25日橋」と呼んでいる。


7.クリスト・レイ

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<リスボン対岸のクリスト・レイ> 

4月25日橋を対岸のアルマダ地区に渡ったところにある高さ110メートルのキリスト像。
ブラジルのリオ・デ・ジャネイロにあるキリスト像を模して1959年に造られた。台座の塔にはエ
レベータがあって、像の足下まで上ることが出来る。

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<リオ・デ・ジャネイロのキリスト像>


8. 日本ポルトガル友好関係樹立450周年                    
1543年にポルトガル人が種子島に漂着して以来、1993年に日本ポルトガル友好関係樹立450周年
を迎えた。

  
9.ポルトガル語諸国共同体
ポルトガルには沢山の植民地があったが、現在全て独立している。しかし、ポルトガル語を母語
とする国々は現在も沢山残っている。                  

ポルトガル語諸国共同体加盟国                     
ポルトガル、ブラジル、 アンゴラ、モザンビーク、カーボベルデ、ギニアビサウ、サントメ・
プリンシペ、東ティモール(2002年加盟)

オブザーバー
赤道ギニア、モーリシャス 、セネガル、ほか17国際組織


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<ポルトガル語諸国共同体加盟国>


参考までにスペイン語を国語(第一公用語)としている国を列挙すると次の通りである。
スペイン、メキシコ、グアテマラ、エル・サルバドール、ホンジュラス、ニカラグア、コスタ
リカ、パナマ、ベネズエラ、コロンビア、エクアドール、ペルー、チリ、ボリビア、パラグア
イ、アルゼンチン、ウルグアイ、ドミニカ共和国、キューバ、赤道ギニア(アフリカ)
20カ国



10.ポルトガルのコルク  

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<コルクの木>

ポルトガルの産業の1つとしてワインの製造があるが、これに欠かせないのがコルクだ。高速道
路の両脇にはコルクの林が延々と続く。このコルクの樹の皮を9年ごとに剥いでワインの栓など
に使うコルク栓を作る。9年毎に剥ぎ、幹には、今年なら04と書き2013年になるとに再び
剥ぐ、ポルトガルの大切な産業である。


11.バターリャについて                             
バターリャとはポルトガル語で「戦い」であり「勝利」という意味だ。英語で言えば「バトル
【battle】」である。ポルトガルを人面に見立てると小鼻の辺りになる街だ。 中世ヨーロッ
パのイベリア半島の中心に起こったカスティーリャ王国が、ポルトガルの王位を巡って難癖を
付けてきて戦いになった。

丁度その頃イギリスとフランスの百年戦争(1338〜1453)の真っ最中で、フランスとうまくい
っていなかったポルトガルがイギリスに支援を求めた結果ポルトガルがカスティーリャ軍を打
ち負かし勝利した。勝ったジョアン1世はイギリスのランカスター公の姫君フィリッパと結婚
し、二人の間に生まれたのがエンリケ航海王子である。勝利を祈願したときの約束通り修道院
を建設したのだがその名がバターリャ修道院である。   


12.アマリア・ロドリゲス 

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アマリア・ロドリゲス

アマリア・ロドリゲスはポルトガルを代表するファド歌手として世界的に有名な歌手だ。1999年
に79歳で死去した際、ポルトガルは3日間の喪に服したという。2001年にはリスボンの17世紀創
立の教会「サンタ・エングラシア教会」に遺体が移送された。サンタ・エングラシア教会は20世
紀に入ってから国立のパンテオン(名士合祀殿)となり、ポルトガルの著名な人物が葬られて
いる。

ルイス・デ・カモンイス、ヴァスコ・ダ・ガマ、エンリケ航海王子らの記念碑もある。


13.その他                                   
ポルトガルの財政が危機的状況にある、国債の金利が急拡大していると伝えられて久しい。EU
の域内ではギリシャやアイスランドに続いてポルトガル、イタリアなどが取りざたされている
のだ。しかし私達が出かけた2011.2頃、現地で感じるほどのことは何もなかった。人々は豊かな
生活をエンジョイしていたし、リスボンの街は賑やかで、観光資源は豊富だから引き続き観光客
も多く出かけているのだろう。

しかし、ポルトガルにはスペインが巨額の財政的投資をしているといわれ、そのスペインにはフ
ランスやドイツが投資しているようだ。即ちEU域内、ユーロ圏は全てがよかれ悪しかれ連携し
ていて、最悪のシナリオで動く場合はドミノ倒しのような危機を連想するエコノミストは多いよ
うだ。

でも私達が旅行してきた美しいポルトガルにはこのままずっと美しいポルトガルのままであって
ほしい。この旅行記を書いていてそんな感想を強く持った。

おわり
 

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21.ポルトガル旅行記 補遺 その1

21.ポルトガル旅行 補遺 その1

1.ポルトガルの歴史                                   ポルトガルは日本にとって文明開化をもたらした先進国だったはずなのに、現在のポルトガルと日本の関係が今ひとつ結びつかない。一度ポルトガルの歴史を確認しておかねばならない。
 
ポルトガルには、紀元前にフェニキア人やケルト人がイベリア半島に進出、その後ローマ人の進出によってキリスト教が伝えられる。ローマ帝国の衰退とともにイスラム勢力の支配が始まる。併せてイスラム教が隆盛を誇るが、レコンキスタ(キリスト教による国土回復運動)が起こり、13世紀半ばにはほぼ現在のポルトガルの領土が確立された。

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<発見のモニュメント>

18世紀末から19世紀初頭における、フランス革命及びナポレオン戦争と続くヨーロッパの混乱はポルトガルにも波及した。ナポレオン1世は大陸封鎖令に従わないポルトガルにフランス軍を侵攻させ、その結果ポルトガル王室はブラジルのリオ・デ・ジャネイロに遷都した。フランス軍はポルトガル占領に成功したが、イギリスの介入と民族主義の高まりによって内戦が勃発し「半島戦争」が展開された。

ナポレオン戦争後、ポルトガルは独立を回復したが、1822年、ポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝ペドロ1世に擁立してブラジル帝国が独立、ポルトガルは最大の植民地を喪失した。一方本土では自由主義、民主主義の思想が高まりを見せ、1832年から1834年にはポルトガル内戦が勃発した。1910年の革命で王制は倒れ、共和国となった。  
       
2. 大航海時代                      
ポルトガルに旅行すると、必ずと言って良いほど「大航海時代」だとか「エンリケ航海王子」などという言葉が出てくる。その大航海時代とはどんな時代で、その時日本はどんな時代だったのだろうか。

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<エンリケ航海王子>

大航海時代とは、西ヨーロッパの15世紀初めから17世紀初めにかけて、イベリア半島の2国(ポルトガル、スペイン)をその先導者とし、それまでの地中海世界から目を地球全域に向け、主として大洋航海によって、それまでヨーロッパでは伝説的・空想的領域にあった世界の各地が、探検航海により次々に現実に確認されていった時代をいう、とウイキペディアなどで説明している。

1385年ジョアン1世がアヴィス朝を開く。ジョアン1世の第5子であるエンリケ航海王子により
  大航海時代が始まり、1438年には、エンリケ航海学校も設立される。     
1415年にエンリケ航海王子がジブラルタルの対岸北西アフリカの「セウタ」を攻略したことが大
  航海時代の始まりと言われる。      
1498年には、ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見する。  
1500年にはカブラルがブラジルを発見する。                  
1519年にはマゼランが世界一周を実現する。                   
  この時期が、交易する世界各地からの富と文化でポルトガルが最も栄えた時代である。

15世紀から17世紀と言えば日本では室町時代から江戸時代初期、ほぼ戦国時代に当たる。

3. トルデシリャス条約                             
15世紀の末、世界はスペインとポルトガルによって分割された。ポルトガルは地球を東回りに、
アフリカ大陸南端の喜望峰を経由し、インドに達した。スペインは地球を西回りに、西インド諸
島に達した。この航海とその後の支配こそが、ヨーロッパの植民地体制の始まりである。                 
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<トリデシリス子午線  紫=トリデシリャス子午線 緑=サラゴサ子午線>

1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれた条約で、当時両国が盛んに船団を送り込ん
でいた「新世界」における紛争を解決するため、教皇アレクサンデル6世の承認によってヨーロ
ッパ以外の新領土の分割方式を取り決めた。  

世界全体をポルトガルとスペインだけで二分しようという条約で、他の国々にしては誠に得手勝
手な条約だ。

本条約において西アフリカのセネガル沖に浮かぶカーボベルデ諸島の西370リーグ(1770km)の
海上において子午線にそった線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペイ
ンに属することが定められた。

名称の由来は、条約が批准されたカスティージャのトルデシリャスの地名からとられている。南
アメリカの大部分がスペインの植民地だったにもかかわらず、この条約の効果としてブラジルだ
けがポルトガルの植民地になっていた。

発見のモニュメント前の複葉飛行機サンタ・クルス号もリスボンからリオ・デ・ジャネイロへ飛
んでいる。

4.サラゴサ条約
地球が丸い、ということが判ってくると当然トリデシリヤス条約だけでは矛盾が出てくる。
マゼラン艦隊の生き残りを引き継いだフアン・セバスティアン・エルカーノが世界一周航海をな
しとげてヨーロッパへ帰還すると、新しい疑問が起こってきた。

それは地図上に南北に線をひいてスペインとポルトガルの境界をさだめていても、地球が丸いな
ら不完全なもので、もう一本線をひかなければ分割の意味をなさないのではないかという当然の
疑問であった。

こうしてアジアにおける線引きのための交渉がおこなわれ、新たに発効されたのが1529年4月22
日に批准されたのが「サラゴサ条約」である


5. ポルトガル人、種子島漂着                          
1543年8月、種子島にポルトガル人が漂着し鉄砲が伝えられたことは日本の歴史でも有名な史
実だ。その鉄砲は驚異的なスピードで日本中に広まり、日本の歴史に大きな影響を与えた。
しかし、ポルトガル人が日本にたどり着くには長い年月がかかっている。

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<種子島>

1415年、エンリケ航海王子が北アフリカのセウタを占領、イスラム教徒から奪ったその町を基
点に、西アフリカ航路の開拓に力を注いだ。そして1488年にアフリカ南端の喜望峰に到達し、
インドやマラッカ、中国南部に進出するようになった。そしてセウタ攻略から130年後、ようや
く日本にたどり着いたのだ。  

それから6年後の1549年8月15日、マラッカを出航したポルトガル船に乗ったフランシスコ・ザ
ビエル(Francisco de Xavier)は、52日目の10月6日鹿児島の浦港に到着し上陸したことから
日本のキリスト教時代が始まった。 

豊臣秀吉の時代になってキリスト教徒への弾圧が始まり、さらに、徳川家康以後は組織的に行わ
れるようになった。このような経緯を辿ったのは、キリスト教の布教がポルトガルの独占貿易と
表裏一体をなし、布教の裏には常に大国ポルトガルの影があったからだと言われている。

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20.帰国の途へ

ポルトガル8日間の旅 
                         第7〜8日目 (2011.2.17〜18)
20.帰国の途へ

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<リスボン・バイシャ地区のグーグル地図>

いよいよポルトガルを後に、日本への帰国の日だ。午前3時45分にモーニングコールが鳴り響きスーツケースに荷物を詰め、ロビーへ持ち込む。午前4時45分にホテルを出て空港に向かう。早朝ではあり、朝食は例によって簡単なパンとジュースの弁当だ。路面は濡れているが雨が落ちているわけではない。ほぼ満月の月が西に傾いていた。ポルトガル旅行中、ずっとこんな天気が続いた。雨が降っても長続きする雨ではなく、すぐ日が射したりして観光にそれ程支障がなかったのが幸いだった。

バスの中には運転手と通訳の他にライセンスを持つガイドも乗り込んでいた。イタリアでもそうだが、ヨーロッパでは日本語が出来なくてもライセンスを持つガイドが乗っていないと違反になる。単に空港への送迎だけでもである。車内の気温は9℃を示していた。

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<ポルトガル国旗> 

飛行機はリスボンからドイツのフランクフルト経由で関空に向かう。
水やジュースは機内に持ち込めないから朝食の弁当は手荷物検査の前に済ましてしまった。
添乗員が機内持ち込みについて色々注意している。タバコの持ち込みは何カートンまで無税だとか言っていたがタバコに無縁の私には関係ない。ワインなどは3本まで無税だと言っていたが、私は2本しか買っていないからこれ又関係ない。

フランクフルトへのフライトは午前6時45分。16番ゲートと伝えられた。ゲート前ではJTBの旅物語のツアー客と一緒になった。何処に出かけても阪急のツアーとJTBはよく出っくわす。空港の免税店で開店している店はそう多くはないが、それでも家内と孫は最後の買い物をと店内を歩き回る。私は付き合えないまま、ゲート前の椅子で時間の来るのを待っていた。      

ほぼ3時間後にフランクフルトに到着、2時間余りの乗り継ぎ時間をあちこち見て歩いたが

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<サンチャゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)にも行ってきた>

何度か乗り継いだことのある空港で多少の記憶もあったので気楽な気分だった。いよいよ午後2時20分、予定通りの出発だ。

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<ポルトガルはアズレージョの国>

機内に誘導され、腕時計を日
本時間にセットしてやっと帰国の気持ちが出てきた。気がつくと機内のフライトインフォメーション画面ではあと33分で関空到着と出ていた。画面の機影が日本上空に近づいている。丁度島根県の隠岐の島から島根半島にさしかかっていた。機内では食事の後片付けが済んだスチュワーデス達が紙袋を配っている。「ヘルプ・アライアンス」という印刷がしてある。アライアンスとは「同盟」とか「強調」などと思うのだが、ルフトハンザ航空の従業員が地球規模で貧しいこども達

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<ワインも美味しかった>


を支援している運動だという。
本来は飛行「マイル数」を寄付してそのマイル相当額を飢餓や貧困の支援に寄付をするものだ。私達がお陰様で海外旅行をすることが出来る幸せを少しでもこれらの寄付に協力することにして、僅かに残った小銭をこの紙袋に入れた。

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<関空を出るとき吹雪だったが帰国の日は晴れていた>

予定通り関空に到着した私達は、まず嫁に電話で無事帰国したことを伝え、孫をバスで自宅に向かわせた。そして私達夫婦も無事帰宅した。

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19.リスボン市内観光 その3 自由行動

ポルトガル8日間の旅 
第6日目 (2011.2.16)

19.リスボン市内観光 その3 自由行動

私達のバスは、ベレン地区から4月25日橋の北のたもとをテージョ川沿いに東に進み、リスボンの街の中心バイシャ地区に入ってきた。バイシャとは「低い土地」という意味だ。リスボンは7つの丘の街と言われるが、バイシャ地区の西側の高台である「バイロ・アルト」と東側のサン・ジョルジェ城などがある「アルファマ」という二つの丘に挟まれた地域だ。バイロ・アルトとは「高い地区」という意でありアルファマはアラビア語が語源の街でかつてイスラム勢力がリスボンを席捲していた頃からのいわゆる「リスボンの下町」である。

因みに土地の名前等の頭に「アル」とついているところは、例えばアルハンブラだとかアルカンタラなど沢山あるが、全てアラブ系人種、ムーア人(北西アフリカのイスラム教教徒)等が住んでいた街に多いと言われる。アルカイダはテロリスト、オサマ・ビン・ラディンの所属する組織であり地名ではないが有名だ。

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<リスボン・ロシオ広場のドン・ペドロ4世像と後方・マリア2世国立劇場>

私達はドン・ペドロ4世(ポルトガル国王=在位:1826年。ブラジル帝国初代皇帝でもある=ドン・ペドロ1世、在位:1822年 - 1831年)の像が立つロシオ広場でバスを降り30分間バイシャ地区を歩いた。ロシオ広場からテージョ川に向かって南に伸びるアウグスタ通りを進む。

真正面に凱旋門があり、その先のコメルシオ広場に立つドン・ジョゼ1世(ポルトガル・ブラガンサ王朝の国王=在位:1750年 - 1777年)の像が額縁にはめた絵のように見える。

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<リスボン・アウグスタ通り 凱旋門(勝利のアーチ)とドン・ジョゼ1世像>

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<サンタ・ジュスタのエレベーター>

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<リスボン・アウグスタ通りの花屋>

この通りは花屋さんが有名だとガイドブックにあったが雨上がりにもかかわらず露店の花屋が営業していた。一つ目の角を西に曲がったところにサンタ・ジュスタのエレベーターが見える。

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<ポンバル侯爵広場 同侯爵の像>

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<エドゥアルド7世公園の一角>

再びバスに乗ってリベルダーデ通りを北上、ボンバル侯爵(=近世ポルトガル王国の政治家)広場を経て「エドゥアルド7世公園=1902年にイギリス王エドワード7世がリスボンを訪問したことを記念して造営されたフランス式庭園」の東側のレストランで昼食を摂った。庭園の池には馬に乗った女神像があり、たくさんの水鳥が群れていた。

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<フィゲイラ広場 「ドン・ジョアン1世像」>

私達は再びロシオ広場にもどり、すぐ東側のフィゲイラ広場から市電に乗った。ドン・ジョアン1世(ポルトガル王 在位:1385年 - 1433年。ペドロ1世の子でエンリケ航海王子の父)の騎馬像が広場の中央に立っている。

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<フィゲイラ広場の市電停留所>

ツアーの仲間と共に市電に乗ったので何処をどう廻ったのか判らないが一回りして自由行動になった。

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<リスボンの市電の軌道>

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<サンタ・ジュスタのエレベーター>


私達が次に行ったのがサンタ・ジュスタのエレベーターだ。自由行動だから各自勝手に歩いたのだが、アウグスタ通りで孫が買い物をしたいということで家内と共にあちこちの店を見て歩く。私は
下半身のしびれが出るなど体調が悪く、その通りでドン・ジョゼ1世像や凱旋門を見ながらしゃがみ込んで休んでいた。

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<アウグスタ通りの敷石>

ポルトガルでは何処の街でもモザイクの敷石が敷き詰められているが、アウグスタ通りもリスボンの象徴のように、小さな石のモザイクが敷き詰められていた。ちょうど私がしゃがみ込んだ所だけ敷石が壊れていたので、その中の白い石と黒い石を拾って来た。あまり行儀のよいことではないと思うのだが、私は海外旅行に行ったときあちこちでこれらの石ころを集めてくる癖がある。

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<サンタ・ジュスタのエレベーター>

さて、サンタ・ジュスタのエレベーターは通りから少し奥まったところに垂直に立っている。正面は階段になってエレベーターの裏を通る道に繋がっている。取りあえずエレベーターに乗ろうということで、写真を撮りながらエレベーターの乗り場を探す。その乗り口は階段の右側を入ったところにあり、反対側が降りてきた人たちの出口だ。

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<エレベーターの説明図>

中々レトロな感じの鉄骨組が露出している。壁に描かれたエレベーターの説明図では「ELEVADOR DO CARMO」とあり、カルモのエレベーターという意味らしい。地図によるとすぐその背後に「カルモ通り」があり、リスボン大地震で壊滅的な被害を受けたと言われる、廃墟のままの「カルモ教会」がある。

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<1755年リスボン大地震で崩壊した「カルモ教会跡」=現考古学博物館>

カルモ教会は14世紀末に建てられた教会で、1755年11月1日に発生したリスボン大地震で倒壊した。現在内部は考古学博物館になっているという。

エレベーターの7階にあたるところから桟橋のように伸びた回廊を伝ってその教会に行ける。私達はエレベーターを降りて、その上の展望台まであがり、この教会を背景に写真を撮った。

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<展望台からの「勝利のアーチ」と家並み>

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<展望台から見た「サン・ジョルジェ城」>

展望台の真下に広がるリスボンの街は、南にテージョ川を控えて凱旋門があり東にバイシャ地区の家並みの向にサン・ジョルジェ城が見える。

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<「ロシオ広場」 と 初代ブラジル国王となったドン・ペドロ4世像>

すぐ目の下にはロシオ広場とドン・ペドロ4世像がドナ・マリア2世(ポルトガル女王=在位:1826年 - 1853年)の国立劇場と共に広がり、更に遠く北側にはボンバル侯爵(ポルトガルの宰相)広場の銅像とその先の「エドゥアルド7世公園」のモザイク型の植え込みがはっきりと見て取れる。

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<展望台から見た北方向 ボンバル侯爵の像 と 「エドゥアルド7世公園」>

さらに展望台からカルモ通りに出るとカルモ教会の前の広場に出た。古い水飲み場のような祠のような建造物が目についた。

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<レスタウラドーレス広場のオベリスク
その先がリベルダーデ大通り 左手前が地下鉄レスタウラドーレス駅>

再び集合場所に戻るとバスでレスタウラドーレス広場に移動。ポルトガルがスペイン支配から独立を勝ちとった記念のオベリスクの写真を撮りながら、グロリア線ケーブルカーに乗ってサン・ペドロ・アルカンタラ展望台を目指す。

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<グロリア線ケーブルカー 上の駅>

ケーブルカーの上の駅近くでは、古都らしい建物の壁面にカラフルな落書きが描かれているがそれが返ってその場面に相応しい雰囲気を醸しているから不思議なものだ。その坂道を子供とその祖母らしい婦人がゆっくり登ってきた。

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<サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台の下の公園>

展望台は沢山の樹木が植えられ、すぐ下に綺麗に整備された公園が広がる。その公園越しにリスボンの市街が一望だ。ここは観光スポットで、若いカップルには絶好のデートスポットなのだろうが、雨上がりでもあり人影は見られなかった。暫くリスボンの街の展望を楽しんだ後再びケーブルカーで下に降りた。レスタウラドーレス広場の南端にある地下鉄の「レスタウラドーレス駅」に移動する。

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<地下鉄・レスタウラドーレス駅>

ポルトガル最大規模を誇るというコロンボ・ショッピングセンターに買い物に行くことになった。バイシャ地区をX型に交わって市の北西方向に伸びる地下鉄「ブルーライン」のコレジオ・ミリタール・ルス駅を目指す。この駅とコロンボ・ショッピングセンターが繋がっているためだ。この駅にはホームの壁面一杯にいろいろなデザインのアズレージョがあり、思わずカメラのシャッターを切った。

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<地下鉄コレジオ・ミリタール駅のアズレージョ>


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<コロンボ・ショッピングセンター>


家内と孫は、ここでポルトガル最後の買い物を・・・、と意気込んで店内に入っていったが、自分は体調が勝れず駅から店内に入ったコーナーで腰掛けて彼女たちの買い物が終わるのを待った。すぐ目の前にポルトガルのサッカーチーム「SLベンフィカ」の本拠地、「ルス・スタジアム=エスタディオ・ダ・ルス」の大屋根が駐車場を挟んで広がっていた。

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<ルス・スタジアム>

この後再び地下鉄に乗りホテルに帰った。

この地下鉄での移動は全て孫の語学力に負うところが多い。見知らぬ土地で不案内な乗り物に乗る場合、ガイドブックを見るにも地図で確かめるにも先ず遠視の眼鏡をはずして老眼鏡に掛け替えねばならないし、細かな横文字を読んで理解できたとしても方向感覚は矢張り若い孫の方が勝る。もし私と家内の二人で行動したらとてもこんなにすいすいとは行かなかっただろうと思った。

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18.リスボン市内観光 その2 「ジェロニモス修道院」

ポルトガル8日間の旅 
第6日目 (2011.2.16)
18.リスボン市内観光 その2 「ジェロニモス修道院」

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<ジェロニモス修道院と噴水>

私達は同じ「ベレン地区」のジェロニモス修道院を訪ねた。発見のモニュメントと共に世界遺産に登録されている建物でマヌエル様式の最高傑作と言われる。その修道院は発見のモニュメントの前の、国鉄の線路と市電の線路を越えたところにあり、白い飛沫があがる前庭の噴水越しに白亜の建物が見えてきた。

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<市電の線路越しのジェロニモス修道院>



この一角にはベレン文化センター、海洋博物館、国立考古学博物館、ヘラルド美術館、少し離れて国立馬車博物館などが立ち並び、是非ひとつひとつ見て回りたいところだがツアーではそんな時間的な余裕はない。ベレン文化センターでは先頃「三島由紀夫展」があったとガイドが説明していた。

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<世界遺産 ジェロニモス修道院>

2011年11月13日に朝日テレビで放送された 『常盤貴子の「本と旅するポルトガル」』でも紹介されたが、ポルトガルと深い関係がある作家がいるという。その一人が三島由紀夫でリスボンなどについてエッセーを書いているという。昨日リスボン入りする前に通過したサンタクルス(ポルトガル王族の避暑地として栄え、今でもリゾート地として栄えている)近郊では長期滞在して執筆活動をした作家・檀一雄の句碑「落日を ひろいにいかむ 海の果て」が番組で紹介されたが、今でも現地の人に愛されて、「kazuo dan通り」という名前の通りまで残っているという。


ジェロニモス修道院は、エンリケ航海王子の偉業を称え、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見を記念して1502年にマヌエル1世が建て始めたたといわれ、完成までに300年もかかったという、ポルトガルが大航海時代の栄華を反映した壮麗な建物だ。

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<ジェロニモス修道院の祭壇壁画>

市電の停留所に向いた南門は中央上部にエンリケ航海王子像があり、周囲の楯型の彫刻はジェロニモス修道院の守護聖人「聖ジェロニモス」の生涯が彫られているのだという。

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<ジェロニモス修道院の南門>

南門は通常閉鎖されているため、私達は西門から入った。男子は脱帽、カメラ撮影はOKだがフラッシュはダメ、教会内部では特にスリに注意と言われた。

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<世界遺産 ジェロニモス修道院 バスコ・ダ・ガマの棺>

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<詩人・ルイス・デ・カモンイスの棺>

この修道院にはマヌエル1世の一族の墓があるといわれるが、西門から内部にはいるとバスコ・ダ・ガマの石造りの墓があり、上部に仰臥した像の彫刻がある。すぐ傍には叙事詩「ウズ・ルジアダス」を書いた詩人、カモンイス(ルイス・ヴァス・デ・カモンイス)の墓もある。

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<ジェロニモス修道院 回廊と中庭>


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<ジェロニモス修道院 の 天井>

高い天井には椰子の木を象った釣り天井のような彫刻があり、船やロープのような航海にちなむ彫刻が彫られている。ほっそりした石の柱が聳え立つ姿は大変優美だ。祭壇にはキリストの昇架、降架などの絵があり、窓にはステンドグラスがはめ込まれている。

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<ジェロニモス修道院の柱>

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<キリストの壁画>


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<ジェロニモス修道院 ステンドガラス>

美しい中庭を囲んで55メートル四方の回廊が巡らされている。2階建てのその回廊は天井部分も石のアーチで飾られていた。

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<回廊の彫刻>

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<中庭のライオンの噴水>

回廊の一部にはアズレージョが壁面を飾り、特に黄色地を囲む藍色が美しい。中庭には対角線に十字の通路が交わり、中央には噴水があがる。

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<ジェロニモス修道院のアズレージョ>

再び西門から外に出て市内電車の走る通りに沿って南門に廻った。改めて南門の写真を写した。
通りかかったポルトガル女性に写真を1枚所望したらポーズを取ってくれた。

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<南門前で出会った女性>

交差点に市電が入ってきた。車体全体に広告が描かれた電車だが、日本では珍しくなっているだけに何だか新鮮な感じだ。

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<ジェロニモス修道院前の交差点>

ガイドがこの先にリスボンで有名な「パス・ティス・デ・ベレン」という名のお菓子屋があるという。ジェロニモス修道院の並びで100メートルほど東に行ったところである。店先の青いテントの日よけが目印と言われ早速出かけた。お菓子の名前は「パステル・デ・ナタ」といいポルトガル伝統のお菓子で、日本で言うエッグ・タルトである。早速家内がそのお菓子を買いたいとツアー仲間とともに買いに行った。

店の前には沢山の人通りがあり、中にはそれと判る物乞いやロマと言われる人たちが屯していて、懐中物に注意と添乗員が言っていた。

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<4月15日橋 と クリスト・レイ>

そのあと私達は昼食会場にバスに乗って4月25日橋の袂を市内中心地に向けて移動した。

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