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秘密

秘密


著者 東野 圭吾
発行 文芸春秋 文春文庫 

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 妻・直子と小学5年生の娘・藻奈美を乗せたバスが崖から転落。妻の葬儀の夜、意識を取り戻した娘の体に宿っていたのは、死んだはずの妻だった。その日から杉田家の切なく奇妙な“秘密”の生活が始まった。映画「秘密」の原作であり、98年度のベストミステリーとして話題をさらった長篇、ついに文庫化。---データベース---
 
 積極的に読むことは無かったのですが、子供がテレビドラマに感化されて購入して来たのか我が家に合ったのでちょいと読んでみました。たしかに、ベストセラーになる要素を備えた作品で、快調なテンポでファンタジーなストーリーが展開していきます。さこに、現実問題としてのバスの転落事故が絡むという形でサスペンス性も加味され、それが最後に収斂するのは目に見えていますが、この結末に向かっての収斂は作者の温かい視線がなせる技でしょう。なかなか良い構成です。

 主人公の平介は平凡なサラリーマン。妻と小学生の娘の三人暮らしです。平助が夜勤の時、妻と娘を乗せたスキーバスが崖から転落し、二人は重傷を負います。病院に駆けつけた平介の手を握りながら、娘を庇いながら全身傷だらけだった妻は息を引き取ります。しばらくして、植物状態と思われた娘の藻奈美が奇跡的に覚醒します。しかし、覚醒してから数日間一言もしゃべらなかった彼女は、ある日平介にだけ打ち明けます。それは藻奈美ではなく、妻の直子だったのです。真実を話しても誰にも理解してもらえないと考えた平介と直子は、対外的には直子を藻奈美として押し通すことにします。心は妻でも、外見はどう見ても小学生の女の子なのだから、それ以外に方法はなかったのでしょう。こうして、二人の家族の秘密の生活が始まります。たしかにミステリーなんでしょうが、作者はミステリーの部分はぼかし気味にして、ファンタジーとしての要素を前面に押し出しています。

 これ以降の展開は、コミカルに展開していきます。本来的には多重人格を扱った小説としてもっとシリアスになるべきなんでしょうが、このコミカルさがストーリーを最後にどんでん返しにと導くカモフラージュの役目を果たしています。小学校から中学への進学は、直子に別の人生を選択させています。つまり、小学校と同じ延長では藻奈美の友達とのしがらみが続くことになってしまうのを避けたのでしょう。それが証拠に高校受験は医大進学を目指して私立のエスカレートを避けています。ストーリーを煩雑にしない上手い設定です。現実問題としては頻繁に発生するであろう、妻を亡くした平助の親族との関わりも極力排しています。それなのに、この小説ではバス転落事故を起こした運転手の家族に積極的に関わっていきます。ま、最後に、その関係者たる遺児と藻奈美=直子が結婚してしまうのですから、これはこれで致し方の無いストーリー展開なのでしょう。

 さて、小学生だった肉体はやがて初潮を迎え大人の女へと成長を続けていきます。父親でありながら、妻がまた新しい人生をやり直しているのを目の当たりにするのはどういう心持ちでいられるのでしょう。娘としての直子はやが手父親と一緒に風呂に入るのを避けていきます。平助は娘が妻であると意識しつつも、思春期としての若々しい肉体にとまどいます。ここら辺の描写はさらりと流しているところがあります。まあ、一つ間違えば近親相姦になってしまいますからね。

 ただ、奇妙な関係のその生活はいつまでも続くとは思われません。やがて高校に進むようになると、直子には彼女なりのつきあいが生まれ、また彼女なりの世界が出来上がっていきます。先の人生では、大学受験のためにはクラブ活動をしておくことがプラスになるという経験則からテニス部に入ります。しかし、そこから男の存在がちらちらし出します。娘に電話を掛けてくる男のことはどんな父親でも気になって仕方がないものですが、平介の場合それが妻であることから、ことさら深刻です。娘の姿をした妻を抱くことはできず、かと言ってこのまま彼の手を離れてどこかへ行ってしまうかも知れないという不安が彼を捉えて離しません。

 ついに、平介は盗聴という手段に出てしまい、直子と男の前に現れて公然と交際の拒絶を宣言しなければならなくなります。決定的に衝突した平介と直子は、やがてそれぞれにそれぞれの決心をします。

 不意に藻奈美が直子に変わって戻ってきます。ある朝目覚めた直子は、直子ではなく藻奈美でした。ストーリーの流れは自然で、元の体に穂並みが戻って来ても不思議ではありません。こういう現象が現実の世界にはあることを作者はそれとなく文中で示唆しています。事故から5年がたっていましたが、その間藻奈美はずっと眠っていたのだと解釈させます。次に目覚めた時藻奈美はまた直子に戻っていましたが、それ以来藻奈美と直子は交互に現れるようになります。お互いに起きている間の出来事を事細かにメモっておくことで、直子と藻奈美は奇妙な共同生活を送るようになります。しかし、現実の多重人格の中ではお互いの知識を共有することは出来ません。この辺りは作者のテクニックの上手いところで、読者は術中に嵌まってしまいます。ありえない話だと言ってしまえばそれまでだが、B級すれすれのこの題材を、作者は見事に身につまされる話に仕上げています。こういうところが東野圭吾の才能なんでしょう。

 ミステリー作家らしく、最後にはきっちりとどんでん返しも用意されています。なるほど、これが「秘密」なのかといこれ以上ないほど絶妙な種明かしになっています。しかし、それは直子にとっては計算され尽くしたものでした。一人、哀れなのは直子を愛しつつも、その肉体には操を通した夫平介の心情でした。それが新婦の父親としての鉄拳であり、妻を盗られた夫の鉄拳でしょう。しかし、平介はその鉄拳を振るえず泣き崩れてしまいます。

 このシーンで小説は終わってしまいます。見方を変えれば、ひたすら平介の視点で描かれるこの小説は、交通事故で妻を失った寂しさはありません。ファンタジーな家族関係の中での幻想の様な月日でした。そして、最後の9年間は、直子が自分の人生に決別して藻奈美として生きてきた第2の人生でした。続編が書かれることは無いでしょうが、この後、この家族は崩壊していく様な気がして仕方がありません。平介は藻奈美の結婚で彼の夫としての生き甲斐を無くしてしまう様な気がします。男としては複雑な気持に読後襲われました。2度の人生を歩むことが出来る直子と共感出来るのは女性だけでしょう。

 この作品は、ベストセラーだけあって映画化もドラマ化もされています。映画化はかなり人物の設定が変えられてしまっていて、小説と印象が異なります。

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写楽を追え―天才絵師はなぜ消えたのか

写楽を追え―天才絵師はなぜ消えたのか


著者 内田 千鶴子
発行 イーストプレス 

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 彗星のごとく現われ、わずか一〇カ月で一四〇枚以上の役者絵などを残した写楽だが、「なぜ忽然と姿を消したのか?」の謎はいまだ解かれていない。版元・蔦屋重三郎との関係、時代背景などから浮上してきた浮世絵師・豊国との壮絶な闘いとは…。写楽研究の第一人者が、新たな「写楽の謎」に挑み徹底検証。--データベース---

 先に読破した「写楽殺人事件」では歯牙にも掛かっていなかった写楽=斎藤十郎兵衛説を検証していくポルタージュです。著者は、映画監督の故内田吐夢氏の次男、勇作氏の妻である内田千鶴子氏です。内田吐夢氏が残した写楽に関するメモがきっかけで写楽研究に没頭します。1979年のことです。そして、1981年に著者は、幕府の公式名簿である『猿楽分限帖』と、能役者の伝記『重修猿楽伝記』に、喜多流に属する能役者として斎藤十郎兵衛が記載されていることを見つけます。この史料から、斎藤十郎兵衛の父の名は与右衛門であり、斎藤家は、代々、与右衛門と十郎兵衛の名を交互に名乗っていることが、さらに、斎藤十郎兵衛が、1761年(宝暦11年)の生まれで、写楽が浮世絵師として活躍していたことがわかります。著者は、その成果を1983年「歴史と人物9月号」に「写楽=能役者説の新資料」として発表しています。そう、1983年といえば故池田満寿夫氏がNHKの番組を通して中村此蔵説を発表した年でもあります。実はこの番組に当初内田氏も関わっていたということですが、エンターティメント性を求めた方針の変更で能役者説は無視されてしまったのです。高橋氏の「写楽殺人事件」の風潮が主力だったんでしょうな。

 しかし、時代は真実を浮き彫りにしていきます。やがて、徳島「写楽の会」メンバーの斎藤十郎兵衛の菩提寺と過去帳の発見によって、実在が完璧に証明されることになります。「写楽の会」メンバーが、1997年、江戸期には築地にあった法光寺という寺が現在は埼玉県越谷に移転していることを突き止め、その寺の調査から過去帳に斎藤十郎兵衛の没年月日を発見し、報告しました。没年は「辰(文政3(1820)年)3月7日」、死亡年齢は「58歳」、俗称等は「八丁堀地蔵橋 阿州殿内 斎藤十郎兵衛事」でした。これによって没年が初めて明らかにされたのです。こういう、研究者の地道な調査の様子が第2章で淡々と語られていきます。

 その斎藤十郎兵衛は、阿波藩お抱えの能役者でありながら、なぜ10カ月も江戸の芝居小屋に入り浸って、役者に生き写しの、役者の欠点を強調するかのような毒を秘めた強烈な絵を大量に描くことができたのか?当時、彼は江戸藩邸勤めのため八丁堀地蔵橋(現在の中央区日本橋茅場町)に住んでおり、大名お抱えの能役者の勤めは当番と非番が半年か1年交替のため、その非番期間を利用して絵を描くことが可能だったことが明らかになります。この時、写楽33歳。しかし、身分は現役の武士です。とても、本名で作品を発表するわけにはいきません。版元の蔦屋重三郎は、このとき絵師の歌麿と袂を分っています。時代のエアポケットの中で蔦屋のてに依って写楽が誕生します。

 「東洲斎」という画号は、東の川の中島にある居室という意味である。過去帳によると、斎藤十郎兵衛が八丁堀地蔵橋に住むようになったのは、1799年(寛政11年)からで、写楽がデビューした1794年には、南八丁堀阿波藩屋敷内に住んでいました。南八丁堀の阿波藩屋敷は、現在の中央区湊一丁目あたりに位置し、八丁堀のすぐ南です。どちらも、江戸城から見て東に位置する中州の土地でした。よって、東洲斎は、名前を明らかに出来なかった斎藤十郎兵衛の住所を暗示していると解釈できるでしょう。

 第3部では、著者が写楽を斎藤十郎兵衛であると判断するまでの過程を描く前半以外に、なぜ斎藤十郎兵衛が写楽となったか、そしてなぜ突然消えてしまったのか、ということを物語仕立てにした後半があるのですが、こちらではなぜ後期になって写楽作品に精彩が欠けてきているのか、ということを感覚で理解できるようになっています。当時の時代背景を関連する年表に時系列的に纏めてみました。

1761年(宝暦11年)斎藤十郎兵衛、生まれる(過去帳による)。
1733年(安永02年)蔦屋重三郎、吉原大門の前に書店を開き、はじめは吉原細見(店ごとに遊女の名を記した案内書)の販売、出版を始める。
1783年(天明03年)蔦屋、一流版元がひしめく日本橋通油町に進出。
1787年(天明07年)6月、松平定信が筆頭老中となり、寛政の改革が始まる。 
1789年(寛政元年)江戸三座の一つ、森田座が破産。
1790年(寛政02年)5月、寛政異学の禁。書籍出版取締令。寛政の改革による風紀の取締りが厳しくなる。
1791年(寛政03年)3月、山東京伝の洒落本と黄表紙が摘発され、京伝は手鎖50日となり、版元の蔦屋は身代半減のとなる。蔦屋重三郎は、喜多川歌麿に、比較的取締りが緩かった美人大首絵を描かせる。
1792年(寛政04年)斎藤十郎兵衛、南八丁堀阿波藩屋敷内(現在の中央区湊一丁目あたり)に住む(過去帳による)。
1793年(寛政05年)江戸三座の市村座と中村座が破産。7月、松平定信が老中を退き、寛政の改革が終わる。12月、喜多川歌麿、蔦屋と袂を分かつ。蔦屋重三郎は、代わりとなる看板絵師を探す。風俗取締令がきびしくなる。
1794年(寛政06年)1月、控櫓による江戸三座で芝居興行が再開される。和泉屋が、豊国による役者舞台之姿絵のシリーズを始める。5月、斎藤十郎兵衛が所属する宝生座が非番となる。蔦屋、写楽作の28枚の役者大首絵を出版。7月、蔦屋、写楽画27枚出版。8月、蔦屋、写楽画11枚を出版。11月、蔦屋、写楽画58枚を出版。閏11月、蔦屋、写楽画3枚を出版。 
1795年(寛政07年)1月、蔦屋、写楽画12枚を出版。蔦屋による写楽画出版が終わる。4月、斎藤十郎兵衛が所属する宝生座が詰番となる。
1796年(寛政08年)蔦屋の財務状況が悪化し、蔵版の狂歌絵本などの版権を大阪の版元に譲渡。蔦屋の関係者による写楽への言及:栄松斎長喜が、『高島屋おひさ』で、写楽の絵をあしらった団扇を描く。また、十返舎一九が『初登山手習方帖』で、凧に写楽の役者絵を書き込む。
1797年(寛政09年)5月6日、蔦屋重三郎が脚気で死去。
1799年(寛政11年)斎藤十郎兵衛、南八丁堀阿波藩屋敷内から八丁堀地蔵橋へ転居(過去帳による)。
1820年(文政03年)埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派今日山法光寺の過去帳に「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良(郎)兵衛」が58歳で亡くなり、千住にて火葬にしたとの記録がある。
1833年(天保04年)池田義信(渓斎英泉)著『無名翁随筆』に、東洲斎写楽の住所が記載される。

 写楽がプロの絵師ではなく、アマチュアレベルであったことはよく知られています。デフォルメ技法を駆使して描かれていますが、刷り上がった絵には出版までの日数節約のためか、摺り残し部分や縁取りがいい加減なものが多々あります。初期の作品なんかは黒雲母刷りのためかバックと人物の際の処理がいい加減です。他の絵師の作品にはこういうところはあまりありませんので、蔦屋の仕事が突貫作業であったことが伺われます。構図や描写は一級品ですが、作品としては当時の豊国と比較したら一段落ちるのではないでしょうか。それでも、諸外国で高い評価を受けたために写楽作品は法外な価値を得ます。明治期以降に贋作が多数出回ったことでもそれが分ります。この本でも、口絵の10ページに掲載された「市川男女蔵の奴一平」の図版は明らかに贋作が採用されています。写楽の画号は冩樂画の画の字の中央が田になっているのが普通ですが、よく見るとこの作品だけ色も鮮やかですが画の字の上が突き抜けて普通の画の字になっています。

 本の内容はそれなりに研究者の真摯な内容になっているのに、こういうところが雑になってしまっているのは出版社にも責任はあるようです。

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写楽殺人事件

写楽殺人事件


著者 高橋克彦
発行 講談社 講談社文庫 

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 謎の絵師といわれた東洲斎写楽は、一体何者だったか。後世の美術史家はこの謎に没頭する。大学助手の津田も、ふとしたことからヒントを得て写楽の実体に肉迫する。そして或る結論にたどりつくのだが、現実の世界では彼の周辺に連続殺人が起きていて―。浮世絵への見識を豊富に盛りこんだ、第29回江戸川乱歩賞受賞の本格推理作。--データベース---

 遂に3部作の第1作に辿り着きました。本書は、写楽とはいったい誰なのかという謎、そしてそれを取り巻く現代の殺人、さらに派閥争いと利己的かつ弟子の研究を横取りする研究者を陥れる罠という3つのミステリーを巧みに組み合わせた秀逸な作品です。歴史小説として読んでも、浮世絵の世界や当時の政情に関する専門的な解説がていねいに加えられており十分に面白いと思います。1983年の作品とは思えないほど古さを感じさせません。それは、今も写楽が誰なのかということが判然としていないこともあるでしょうし、登場人物が生き生きと描かれているからでしょう。物理的に考えても、携帯電話は無くコミュニケーションは固定電話でのやり取りだし、主人公が写楽の足跡を追って大館から小坂乗るシーンで登場する同和鉱業小坂線は1994年に旅客営業(貨物営業は2008年まで続いていました)を終了しています。

 「プロローグ」では、本書の最大の謎となる一枚の絵についての説明があります。
一本の掛軸がある。表装だけを見ると、かなり古いもののようだが、あまり開かれたことがないのか、絵の状態は良い。絵具の剥落や虫喰いの跡もほとんど見られない。軸の標木から下方に二本垂れ下がっている風帯と、絵の上下の縁どりに用いられている裂地(きれじ)は、共に銀襴の錦である。当時としては高価な材料である。絵の色調は茶色が主体となっている。横三十センチ、縦九十センチばかりの絹地の画面には一頭の巨大な獅子が描かれている。獅子は頭を低く構えて、その眉間から鼻にかけては深く狂暴な皺が刻まれている。太く鋭い爪は地面にい込み、背中まで続くたてがみは一本一本が大きく波うっている。見ている者に、獅子の荒い呼吸までが伝わってくる。今にも画面から躍り出て、襲いかかってでもきそうに、その姿態は美しい。もちろん、古くから画題に取り扱われている唐獅子ではない。江戸時代のものとしては珍しく写実的なライオン図である。絵具は日本絵具であるようだ。だが油絵具のような光沢と厚みが、この絵には感じられる。なお仔細に眺めてみると、全面にニスのようなものが塗られていて、それが光沢と厚みを創り出しているのが分かる。油絵具のない時代に、西洋画の雰囲気を何とか伝えようとして考案された技法である。背景には東洋的な風景が配されている。獅子はオランダ渡りの銅版画あたりを粉本として描かれたものなのだろうが、それには背景がなくて、作者が新たに足し加えたものに違いない。日本的な松の木や中国的な奇山を背にして、攻撃的に身構えるライオン。まったく不思議な取り合わせと言うほかはない。しかし筆使いは達者である。アンバランスという点を抜きにすれば、かなり優れた才能の持主と言っても良い。絵師の名は、画面の左上部に小さく書きこまれている。<寛政戊午如月 東洲斎写楽改近松昌栄画> 寛政の戊午とは十年のことである。つまり寛政十年二月の何日かに、もと東洲斎写楽と名乗っていた絵師が、近松昌栄と名を改めてこの獅子図を描いたということになろう。

 このプロローグで作者の仕掛けに嵌まってしまいます。勿論こんな作品などあるはずも無いのですが、こうも具体的に描写されるとこれが事実である様な錯覚になってしまいます。昌栄=写楽説というのは結局、嵯峨が西島失脚を目論んだ末に計画した偽計で、津田は嵯峨の手の上で踊っていた過ぎなかったわけです。しかし、小説の中とはいえこの切には説得力があります。小説の中で、浮世絵研究で有名な団体は2つあります。在野の研究家、嵯峨を中心としている「浮世絵愛好会」と武蔵野大学の西島を中心とした「江戸美術ゼミナール」です。そして、嵯峨は西島が理事をしている「江戸美術協会」に反旗を翻しており、嵯峨と西島の対立は二十年来になっていました。で、ある日、嵯峨が遺体で見つかります。西島の助手をしている津田は、嵯峨の義弟の水野が売りに出した、嵯峨の蔵書の古本を安くで手に入れます。その時、津田は水野からある画集をもらい、その画集を見ているうちに、写楽とは誰かという新しい説を考えつきます。それがプロローグに繋がっています。

 さて、写楽の正体を巡っては諸説があります。作中でも、有名な絵師―円山応挙、葛飾北斎、歌麿、谷文晁など―だったとか、阿波の能役者だったとか、実は蔦屋重三郎自身であったとか、又は写楽工房説なんかも発表されています。この作品が出版された翌年には池田満寿夫氏が写楽は自画像を残しているはずだとの推理で「中村此蔵」説を発表していました。

 小説ですから登場人物が、事件に関わっていることは定石ですが、仕掛けの中で津田の理解者である国府が、事件の真相を追ってあっけなく死んでしまうのがちょっと残念です。それでも、きっちり3部作を見据えてヒロイン役の国府の妹の冴子を登場させているのは良い配置です。写楽に興味の無い人も、この津田と冴子の東北旅行のシーンは旅情小説としても楽しめるのではないでしょうか。個人的には推理小説そっちのけで、写楽ー昌栄説の可能性の方が面白く読めました。今まで、いろいろな説を目にして来ましたが、時代背景をここまで推敲して書かれた写楽説はにかったように思います。ただ、活動期間が僅か10ヶ月という短期間の写楽がなぜ筆を折らねばならなかったのか推理されていますが、大首絵は初期だけで何故後期は藩が小さくなったのか、更には相撲絵を最後に残したのは何故か、などという疑問はこの小説の中では明らかにされていません。

 小説として成り立たせるために、ここでも贋作が登場し、それがもとで殺人事件が起こってしまいます。それが、この作品が推理小説として存在する理由ですが、それを抜きにしても、高橋氏が展開する写楽昌栄説は興味深いものがあります。作中で登場する秋田藩と江戸文化の結びつき、そこには解体新書で図版を描いた小田野直武も登場し、秋田蘭画の線が必ずしも的を外していないことが伺いしれます。この時代の時代背景には田沼意次がいて、その周りには数々の文化人が関係しています。田沼意次が失脚したことで、狂歌本を出して身上を大きくしていった蔦屋にも陰りが見え始めます。そういうところに写楽が登場するのですが、秋田藩繋がりで、江戸詰藩士の近松昌栄が国元へ帰るまでの期間だけ写楽の名で作品を発表したというのはあり得るべきことです。個人的には、そういう写楽像の追求の方が興味を持てました。

 ただ、純粋に推理小説として読む人にとってはこの作品の前半はつまらないものでしょうな。歴史推理小説として読むと、後半の現実の世界の方がお決まりパターンで白けてしまいます。小生でも、前半の登場人物の展開から犯人の当たりがついてしまいましたからね。ま、サザビーのオークションが登場するのにはいささか驚きはしましたが、最後に大きなどんでん返しがあるわけではないので、いささか単調な結末になっています。それでも、これを処女作として文壇にデビューを果たし、いきなり第29回江戸川乱歩賞を受賞するのですから大したものです。

 写楽の作品は総数は144点です。しかし、それ以外にも相撲版下絵や肉筆の扇絵などが残されています。こうなってくると写楽の実像に迫りたくなるというものです。下は近年発見された写楽の肉筆画です。上は2008年にギリシアの国立コルフ・アジア美術館が収蔵する肉筆の扇面画が真筆だと判定されたもの、下は三重県は津市の石水博物館に収蔵されている肉筆扇画です。こういう新発見があると、「続写楽殺人事件」なんてものが登場して来そうですなぁ。

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北斎殺人事件

北斎殺人事件


著者 高橋克彦
発行 双葉社 双葉文庫 

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 北斎隠密説を追いかけて―義兄の遺稿集の出版話が思わぬ方向にすすみ、津田は戸惑う。たしかに、転居と改号を繰り返し、九十歳で亡くなった北斎は謎めいていた。隠密説の証拠を津田はつぎつぎと見つけるけれど…。一方、ボストン美術館では日本人の他殺死体が発見された。---データベース---

 この作品はあくまで小説なので最初にボストン美術館が登場します。言わずもがな、ボストン美術館は北斎のコレクションでも世界で有数の美術館です。まあ、ここは随分研究されていますから新発見はあまり無いと思いますが、今時なら多分イスラエルのハイファにある「ティコティン日本美術館」が舞台になった方がリアリティがあるでしょうね。ここで日本の老人が殺されます。まさしく北斎絡みの殺人事件の発生です。この作品は1987年第40回の推理作家協会賞(長編)を受賞しています。

ティコティン美術館所収の北斎作品

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 さて、被害者は戦前から米国に滞在する日本人で画家であること以外に全く手掛かりはなく、陽気な米国人捜査官二人は途方に暮れます。 いっぽう日では、写楽の事件で津田は大学には残れず、冴子と結婚し、盛岡の私立中学で日本史を教えています。その彼に義兄の国府が残した遺稿を元に浮世絵師北斎についての本を出版する話が舞い込ん持ち上がり、「美術現代」の杉原から呼び出され、待ち合わせ場所に行くと、杉原と一緒に美しい女性がいました。彼女は執印画廊の社長の執印摩衣子でした。高名な日本画家の娘で画廊を経営する執印摩衣子がこの話を聞きつけ、自社からの出版に変更するかわり、津田を大いにバックアップするというのです。その義兄が提唱した「北斎隠密説」は津田の補足により益々現実性を帯びてきます。出版をセンセーショナルにすべく北斎の新発見の画を求めていた摩衣子は、業者から発見の報を受け取ります。写真でその絵を見せられた津田は、天国と地獄を表現したその迫力に圧倒されます。絵には岡倉天心、そしてフェロノサの箱書きがついていました。しかし、その絵は移送途中に事故で燃えてしまいます。まあ粗筋はそんな物ですが、ここにさらに殺人事件が絡んでくるというのがタイトルの由来です。

 ですが、本作の魅力の多くは、そのまま「北斎は実は幕府の隠密だった!」という一見荒唐無稽の仮説の実証部分にあります。

 葛飾北斎。江戸時代を代表する浮世絵師のひとりですから、誰でもその名前くらいは聞いたことがあるでしょう。長生きをした絵師としても有名で、90歳以上まで生きていました。また、改号30回、転居93回、作品数3万点以上を残し、こちらは日本諸国を実際に歩き回っています。有名な「北斎漫画」何かは名古屋に旅をした折りに著述した大作です。また、有名絵師の割には赤貧の生活をしていたという記述が残されていることで貧困であったとされています。しかし、その状況は最晩年の老境で娘のお栄とともに暮らしていた頃の描写で全盛期の北斎の様子を必ずしも伝えているとはいえません。この小説の中では、北斎が当時いくら稼いでいたかが詳細に検証されています。それに拠ると、北斎は生涯に10億程度の収入が合ったと計算出来ます。これでは貧困というイメージは覆されてしまいます。そして、なぜにこんなにも北斎は名前を、居所を変えたのだろうか。或いは変える必要があったのだろうか。そういう視点に立って津田は北斎の行動とその背後関係を洗うことで、北斎隠密説を提唱していくことになります。広重暗殺説もそうでしたが、この北斎隠密説もなかなか面白い発想です。

 ここでも、ルポルタージュ風に長野は小布施の「北斎美術館」に出かけて、そのパトロンであった高井鴻山との関係に迫っていきます。そして、彼との繋がりから当時の人物相関関係が浮かび上がります。安藤広重が定火消同心だったことは知られていますが、北斎もその出自を辿っていくと武士であったことが明らかになります。北斎は御用鏡師中島伊勢の養子になりますが、ここは名家です。遡って、北斎の父親は川村仏清で商家の主人ということになっていますが、この川村家は当時の「江戸買物独案内」にも紹介されていません。つまりは商家というのは表向きのダミーであった可能性があります。そして、この川村家というのは幕府のお庭番17家に含まれているのです。果たして、北斎の息子の次男崎十郎はは武士となり徒目付となっています。そして、この崎十郎の上司には時の権力者鳥居耀蔵がいるのです。ここまで、辿ってくると北斎がただの絵師であっただけとは考えられません。

 この小説も骨子は贋作事件です。そのヒントが北斎の改号にあります。北斎は生涯に30回改号していますが整理すると以下のようになります。
春朗期
 勝川春朗
 叢 春朗
 春朗改め群馬亭
 群馬亭春朗
宗理期
 宗理
 百琳宗理
 北斎宗理
 北斎宗理辰政
北斎期
 宗理改め北斎
 前の宗理北斎
 北斎辰政
 葛飾北斎
 北斎戴斗
戴斗期
 前の北斎戴斗
 北斎改め葛飾戴斗
為一期
 前の北斎為一
卍期
 卍
 このように分類出来ますが、北斎期はその前後にも北斎が登場しますからかなりの時代使用していたことが分かります。で、贋作はこの分類には入らない号を用いていたことから発覚します。分かってみれば単純なことですが、これを細工したが為に事件は思いがけない展開になっていきます。ただ、殺人事件に関しては早い段階で面が割れていきます。ですから、この小説の楽しみ方は北斎がどのように隠密と結びついていくかの解明が大きな魅力となっています。錦絵といえども出版に際しては幕府の検閲が入る仕組みで、政治性の強いことは絵に描くことは出来ません。しかし、その人となりの行動には根本の部分で時代の動きとシンクロしているはずです。北斎が活躍した時代は、まさに黒船が現れた時代です。そして、天保13年(1842年) 秋、初めて、信濃国高井郡小布施の高井鴻山邸を訪ねていますが、時は尊王攘夷で大きく揺れ動いています。そういう点を考えあわせると隠密説もさもありなんという気がして来てしまいます。

 さて、この小説でのもう一つのポイントは塔馬双太郎の登場です。短編では既に顔を出していましたが、長編の中で主役を喰う様な形で颯爽と登場しているのは本作が初めてです。そして、これ以降も様々な事件の解決に顔を出して来ます。彼をヘッドに据えた探偵シリーズは注目です。

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広重殺人事件

広重殺人事件


著者 高橋克彦
発行 講談社 講談社文庫 

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 広重は幕府に暗殺された?若い浮世絵学者津田良平が“天童広重”発見をもとに立てた説は、ある画商を通して世に出た。だが津田は、愛妻冴子のあとを追って崖下に身を投げてしまう。彼の死に謎を感じた塔馬双太郎が、調べてたどりついた意外な哀しい真相とは?深い感動の中で浮世絵推理3部作ついに完結!---データベース---

 高橋克彦氏の浮世絵三部作、「写楽殺人事件」「北斎殺人事件」に続く完結編だそうです。「写楽」、「北斎」、そして「広重」ですが、著名な「歌麿」が抜けています。でも、この「歌麿」にしいては別ら「歌麿殺贋事件」としてちゃんとした作品が発表されています。ただ、殺人事件ではないのでこの3部作には含まれないようです。時系列で捉えると下記のようになります。
写楽殺人事件(1983年9月 講談社 / 1986年7月 講談社文庫)
北斎殺人事件(1986年12月 講談社 / 1990年7月 講談社文庫 / 2002年2月 双葉文庫)
歌麿殺贋事件」講談社ノベルス(1988年4月 講談社 / 1991年3月 講談社文庫)
広重殺人事件(1989年6月 講談社 / 1992年7月 講談社文庫)

 個人的にもこのブログで広重に付いては度々取り上げています。本来は第1作から順序立て手読むのが筋なんでしょうが、天の邪鬼の性格も災いして、読み始めたのは第3作の「広重」からでした。まあ、三部作といってもそれぞれが独立していますから何処から読んでも支障はないのですが、前2作で主人公として活躍して来た津田良平ですが、この広重では冒頭いきなりその妻の冴子が自殺してしまうのですからびっくりしてしまいます。この作品から読み始めた人はちょっと戸惑うのではないでしょうか。この妻の自殺は、最終的には津田本人を自殺させることへの舞台作りの様な気がしてなりません。

 この小説で描かれる広重の実像は中々興味深いものがあります。他の2作品では、関係者が殺されますが、この作品では何と広重自身が殺されることになるという点でもユニークです。そして、取り上げられるのは「東海道五十三次」で代表される版画の世界の広重ではなく、肉筆画の広重を扱っています。つまりは「天童広重」と呼ばれるものです。実際に天童市には「広重美術館」なるものがあり、そこには数々の肉筆画が展示されています。面白いことにこの天童の広重美術館は1996年に完成しているのですが、この小説が執筆された1989年にはまだありません。作者は作品中で美術館の必要性を説いていますから、この小説がきっかけで建設されたのかもしれません。

広重の肉筆画
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 さて、小説を読むまで、天童と広重は結びつかなかってのですが、天童市が織田家と関係があったとは全く知りませんでした。天童織田家は信長の直系次男の信雄が藩祖なんですな。でもって、天童織田藩の江戸屋敷は広重の住んだ八代洲河岸(やよすがし)定火消屋敷の近くにありました。そして、広重の養子に入った安藤家は旧姓田中といいました。出身は津軽藩です。広重は晩年狂歌に没頭し東海道歌重と号していました。ここからも、天童藩の吉田專左衛門との繋がりがあります。同じ武士でありながら狂歌を通じて故知となりさらには天童藩という東北にありながら急進的な勤王思想を持っていたことで知られる藩です。天童藩にはその昔、山県大弐という人物もいました。この人物が尊王論者で明和事件に連座して小畑尾張藩はのちに天童に移封になっているのです。そんな経緯のある天童藩ですから、広重もそういう思想に触れる機会が多かったのでしょう。

 ここでも、広重の贋作が登場し、それについての論文を発表したことの責任から津田は自殺してしまいますが、津田の研究をついだ塔馬は、広重の絵日記、更には天童で新たに発見された広重の贋作を巡る謎を突き止めることで、津田が残した「広重は殺された」という言葉の真相に迫っていきます。後半は、その塔馬が広重が山梨へ旅行した日記を手がかりに、真相に肉薄していきます。まるでルポルタージュの手法ですが、読者はこの謎解きに魅せられます。

 小生も広重の年表で彼がコレラで死んだと書かれていることに疑問を持っていました。確かに広重が亡くなった安政年間にはコレラが大流行していますが、不思議なことに広重は2通の遺言書を残しています。当時コレラに罹れば3日ともたずに亡くなっています。それなのに広重は9月6日に死んでいますが、9月2日、3日付けの遺言書を残しているのです。如何にもタイムラグがありすぎます。近親者の証言には床に付く十日ほど前から体調がすぐれなかったといいます。コレラのことを勘案しても広重がコレラで死んだというのは怪しいものです。その遺書にはこういう短歌が書きされています。

 死んでゆく 地ごくの沙汰は ともかくも あとのしまつが 金しだいなれ 

 とても、コレラで死んでいく人間の言葉ではありません。

 この作品が面白いのは、現実の事件と歴史上の事件がうまく絡み合い、なおかつ歴史解釈が斬新なのにも関わらずみっちりと考証された、説得力あるものであるというところでしょう。山梨の甲府行きは日記の中で確かに酒折の宮に参拝しています。こは連歌発祥の地ともされますが大和王権の東方の進出拠点ともなった場所です。ここでは当時の勤王思想のメッカでもあったこの地を訪れていることに注目し、広重がそういう思想を持っていたことに言及します。さて、広重の前職は定火消し同心です。ところがこの役職町火消しではありません。要は消防警察で組織としては鉄砲組と弓組とに別れていて広重は鉄砲組でした。つまりは江戸城の弱点を知り尽くしている男だったのです。広重は東北地方では唯一「百目木」だけ描いています。そこは現代では見向きもされないところです。これも、天童との結びつきを隠すための方策だったのでしょう。広重は天童藩の軍資金稼ぎのために肉筆画を書いていたのです。

 さてさて、安政5年は井伊直弼が大老になった年です。勤王派の弾圧が始まります。時あたかも「安政の大獄」が始まったのは9月6日です。それは広重が亡くなった日です。翌7日には京都で梅田雲浜が逮捕され、ほどなく頼三樹三郎も捕縛されています。もう一人、梁川星巌は9月2日にコレラで亡くなっています。そう、広重が最初に遺書を書いた日です。うーん、広重暗殺説。ありそうに思えるではありませんか。これだから歴史は面白いんですよね。

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