祇園カトリック教会のブログ

主日(日曜日)ミサでの司祭の話<要約>

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5月20日 ヴァルス神父

5月20日 主の昇天

■マルコによる福音書 16:15-20

 (そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、)言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

■ヴァルス神父さまのお話

 今日は「主の昇天」の大祝日です。
 福音書に書かれてあることのすべてが事実であるとは言えません。福音書は教えを伝える目的で書かれた(※歴史書ではない)からです。語弊があるかも知れませんが、紙芝居にたとえてみます。紙芝居には興味深い話が絵で表現されています。しかし紙芝居が伝える「意味」は、絵だけでは分かりません。その「意味」を語る人が必要です。今日の聖書の朗読箇所に書かれたことも、ありのままではなく、大切な教えを示しています。そこには色々な教えが込められていますが、それを理解にするには語る人の意図を知る必要があります。
 第一朗読では、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねル弟子たちに、イエスが「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とおっしゃいます。今、弟子たちがなすべきは「その時」をあれこれ推し量ることではなく、福音の宣べ伝えることだ、とイエスは言っておられます。大切なのは、イエス・キリストは、弟子たちだけに話されたのではなく、私たち一人ひとりに話しておられるということです。私たちも弟子たちと同じように、福音を宣べ伝えるために派遣されているのです。
 また福音朗読には、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」というイエスの言葉が記されています。とても厳しいお言葉です。しかし一方で、イエスはこうも言っておられます。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3章16-17)。
 これが神さまの思いです。信じない者は、すでに裁かれている。光より闇を好むこと自体が、すでに裁きとなっているのです。滅びる者は、光を拒むことによって、自分から滅びの道を選んでいるのです。しかし神の御心は、すべての人が救いに至り、永遠の命を得ることにあります。
 洗礼者ヨハネの水による洗礼とは異なり、イエスは聖霊によって洗礼を授けられます。弟子たちも、そして私たちも、額に水を注がれた者はすべて、聖霊によって新たな命を得ます。冒頭にお話ししたように、今日の福音朗読にも「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」と、不思議なことが書かれていますが、これは「聖霊によって私たちを強めてください」という信仰の表明なのです。
 また第一朗読にある「白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」という記述は、イエスが天にあげられ、父の右の座につき、私たちのためにとりなしてくださる、そして栄光のうちに、再び私たちのもとにおいでになる、という信仰を伝えるために「語り手」が用いた表現です。ここでも大切なのは、弟子たちだけではなく、私たち自身も再臨されるイエスをお迎えする者だということです。キリストとともに復活にあずかる者たなった私たちは、キリストのように生き、キリストとの一致を求めなければなりません。
 来週は聖霊降臨の大祝日です。聖霊の恵みを大きく受け、主の道を歩めるよう、共に祈り、準備しましょう。

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5月13日 山根敏身神父

5月13日 復活節第6主日

■ヨハネによる福音書 15:9-17

 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

■山根神父さまのお話

 今日の福音朗読で、イエスさまは「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいます。神への愛、他者への愛はキリストに帰依する者の特長です。このキリスト教の特長は、今日の福音朗読に端的に示されています。
 しかし一方で、イエスさまが「互いに愛し合うこと」を「掟」「命令」と言われることに疑問を感じる人もいるのではないでしょうか。義務によって愛の好意を実行するとしたら、それは本当に愛と言えるのか、と。その疑問に対する答えのヒントが、第2朗読、ヨハネの手紙にあります。ヨハネは言います。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです」。
 私たちが何事も自分の力で成し遂げよう、成し遂げられると思っていれば、神は不要です。しかし実際には病気、天災、事故をはじめ、人間の力ではいかんともしがたい出来事があります。そうした出来事に遭遇する時、人は初めて、自分が人間の力を越えた偉大な力によって生かされていることを知ります。しかし普段の平穏な生活の中では、私たちはなかなかそのことに気づけないものです。自分が生かされていること、すなわち神の愛によって自分が生かされていることを、常に心に留めておきたいものです。なぜなら、愛を知らない者は神を知らないからです。
 適切なたとえではないかも知れないが、私にはこんな経験があります。山口にいた時、一人の猫が大好きな信者さんがおられました。その方はある日、棄て猫を拾って育てはじめました。その方の家に私が訪ねていくと、その猫が私のスネを引っ掻いて攻撃するのです。棄てられ、虐待され続けてきたその猫にとって、知らない者は攻撃の対象なのです。時には自分を拾い、育ててくれている飼い主に対してさえ、その猫は攻撃を仕掛けました。愛された経験のない猫にとって、愛を受け入れるのはとても難しいことだったのです。愛されているからこそ、私たちは自然に愛の行動をとれるのです。
 今日の第1朗読も、そのことを教えてくれます。異邦人である百人隊長コルネリウスの上に聖霊が降り、神の恵みが与えられたのを見て、ユダヤ人たちは大いに驚きます。また第2朗読には「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」とあります。独り子イエスがこの世に与えられた。これが神の愛の証です。私たちの罪を償ういけにえとしてイエスが十字架につけられた。ここに愛があります。つまり、神さまは私たちの思いに先だって、私たちを愛し、赦してくださいます。私たちはそのことを信じ、神に帰依して洗礼を受けたのです。このことを信じなければ、洗礼も意味を持ちません。神さまが私たちの内にあって本当の喜びを与えてくださること、これが愛のしるしです。
 今日の福音朗読でイエスさまは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」と言われます。私たちより先に、イエスさまの方から私たちを愛し、大切にするとおっしゃているのです。神がどれほど私たちを愛して下さっているか、と言われても、なかなかピンとこないかも知れない。しかし、イエスさまの十字架の愛、愛の中の愛を知るならば、それに応えざるを得ないはずです。これこそまさに「命令」「掟」の意味するところです。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」。この言葉を胸に、愛に感謝しながら日々を過ごしていきたいものです。
 最後に聖アウグスティヌスの言葉をご紹介します。
「愛しなさい。そしてあなたが望むことを行いなさい。沈黙するときは、愛のゆえに沈黙しなさい。語るときは、愛のゆえに語りなさい。罰するときは、愛のゆえに罰しなさい。ゆるすときは、愛のゆえにゆるしなさい。愛に根ざしなさい。愛という根からは、善のほかは何も生まれないからです」。

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5月6日 近藤信神父

5月6日 復活節第5主日

■ヨハネによる福音書 15:1-8

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

■近藤神父さまのお話

 今読んだのは、ヨハネ15章の冒頭の部分、有名な「ブドウの木」の喩えです。この箇所を読むと、特に深く心に響く言葉があります。それは「わたしの父は農夫である」という言葉です。私たちが豊かな、良い実を結ぶように、父である神さまは一生懸命世話をして下さるのです。根元に肥料をやり、邪魔な枝を刈り取り、日を遮る葉を取り除き、私たちのために汗だくで働いておられます。私たちは養われている。イエスさまというブドウの木につながっていれば、豊かに樹液を受け、豊かな実を結ぶことができるのです。
 ところで私は数年前、あるご婦人に聖書の通読をすすめました。毎日少しずつでいいから、聖書を創世記から黙示録まで全部読みなさい、と言いました。人にそうすすめるからには、自分もやらなければ、と私も聖書の通読を始めました。それから2・3年かかって、そのご婦人は聖書を2回通読しました、と私に言いました。しかし彼女は「3回目を始めようと思ったのですが、力尽きました」と言うのです。「旧約聖書に登場する厳しい神、掟、戦の数々にゲンナリしてしまいました。神父さま、どうしたらいいでしょう」と言うのです。
 通読は、聖書を開くところから始まります。聖書というものは、聖霊の神感によって書かれた書物ですから、聖書を開くだけで聖霊が満ちあふれ、その力をいただくことができます。もちろん、読むことも大切ですよ。聖書を読んで神を賛美し、感謝し、それから何がしかのお願いをするのもいいでしょう。しかし、かのご婦人は聖書を読むのが苦痛になったと言う。親の介護もある。教会の奉仕も一杯ある。その中で時間を割いて聖書を読まねばならないことも、苦痛の一因だったかも知れません。私は彼女に言いました。「(読むのが苦痛な箇所は)飛ばしなさい」。読んでも何だかよく分からない。それでもどこか心に響くものかあれば、それでいい。しかし聖書を読むのが苦痛であってはいけません。
 ちなみに私も1回、通読しましたが、2回目を始めようと聖書を開くと、目がチラチラするのです。通読の前に、まず眼科に行かなきゃなりません。
 聖書の通読は、愛徳を生む力になるものですが、時には良くない結果を招くことにもつながりかねません。たとえば仕事などでとても忙しい人にとって、「読まねばならない」という強迫観念でもって通読することは苦痛に感じられるかも知れません。心配いりません。読めるようになるまで待てばいいのです。神さまは私たちに無理を押し付けたりなさいません。
 忙しくて聖書をじっくり読めない時期があったとしても、その間もキリスト、すなわち「ブドウの木」につながっていさえすれば、「農夫」である神さまが、すべてをいいようにして下さいます。自分を責める必要はないのです。神に感謝し、賛美し、そして一人でも多くの人に御父のすばらしさを語り伝えられる力をいただけるよう願いましょう。

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4月29日 ヴァルス神父

4月29日 復活節第4主日

■ヨハネによる福音書 10:11-18

 (そのとき、イエスは言われた。)わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

■ヴァルス神父さまのお話(子どもたちに向けて)

 今日の福音朗読の中心は、イエス様ご自身の言葉です。「私は良い羊飼いである」と主は言われます。どういう意味でしょう。
 イエス様は、ご自分と信者との関係を説明するために、しばしば似たものを喩えとされます。たとえば「木と枝」。木についている枝は美味しい実を結んだり、美しい花を咲かせたりします。しかし切り離された枝は枯れてしまいます。もしあなたが、イエス様という「木」につながれた生活を送っていれば、あなたはいい「実」を結びます。それを見て、まわりの人たちも「いいなぁ」と言います。
 羊飼いと羊。これもイエス様がしばしば用いられる喩えです
 日本では羊の群れを見ることは、ほとんどありません。しかし地中海周辺やイスラエルでは、羊の群れが沢山見られます。だからイエス様が羊飼いと羊を喩えに用いられた時、それを聞いた人たちは「なるほど」と思ったことでしょう。
 では羊飼いと羊との関係とは、どのようなものでしょう。
 第一に、羊飼いと羊は、お互いをよく知っています。羊飼いは朝になると口笛や呼び声で羊に合図をします。すると羊は門の外の牧場に向います。羊たちは羊飼いの声を聞き分けます。他の人が呼んでも、羊たちは動きません。
 イエス様も羊飼いと同じように、私たち(=羊)の一人ひとりのすべてを知っておられます。私たちも羊飼い(イエス様)を知っているならば、それに従います。
 第二に、羊飼いは羊たちは牧場に連れていき、美味しい草を食べさ、羊が健やかに育つよう大切にします。イエス様は、司祭の手を通し私たちに聖体を与え、心を強め、清くしてくださいます。
 第三に、羊飼いは羊一匹一匹を知っています。ルカ福音書の「一匹の羊を探す羊飼い」の喩えのとおり、羊飼いは見失った一匹の羊のことを一生懸命探します。そして羊が見つかると、羊を叱るのではなく、大いに喜びます。
 イエス様も、私たちが道に迷うと、一生懸命探し、見つけ、喜ばれます。。ルカによる福音書には、見失った一匹の羊を探し求める羊飼いの喩え話があります(ルカ15:1〜7)。羊を見つけた羊飼いは、「友だちや近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」とイエス様はおっしゃいます。それと同じように、私たちが悔い改める時、イエス様はお喜びになり、天使たちも喜びます。
 大切なのは、「羊飼い」であるイエス様を知ることです。私たちが道に迷わないように導いてくださり、もし過ちをおかしても心から悔い改めるならば許してくださり、命の糧(かて)を与えてくださるイエス様の優しさを知るために、みなさん、イエス様のことを学びましょう。そのために聖書を読みましょう。分からないことがあれば、お父さんやお母さん、神父やシスターに教えてもらいましょう。そうして、みなんさがイエス様の声に従えば、天使たちも大いに喜ぶことでしょう。

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4月22日 山根敏身神父

4月22日 復活節第3主日

■ルカによる福音書 24:35-48

 (そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、)道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」

■山根神父さまのお話(子どもたちに向けて)

 今日は復活節第3主日です。イエスさまのお弟子たちは、イエスさまが十字架につけられて亡くなってしまったので、自分たちも弟子であることが知られ、ひどいめに遭うのではないかと恐れて隠れていました。そこにイエスさまが現れます。弟子たちは喜びましたが、同時にイエスさまが幽霊ではないかと恐れました。そこでイエスさまは魚を食べ、ご自分が復活されたことを示されました。弟子たちは心から喜びました。
 イエスさまは、弟子たちに何とおっしゃったでしょう。今日の福音に書いてあります。
「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」
 イエスさまは弟子たちに、全世界に行ってイエスさまの復活の証人となり、福音を宣べ伝えるよう命じされました。
 そこで今日、紹介したいお話があります。もうすぐゴールデンウイークです。5月3日、島根県津和野の乙女峠に行く人もいることでしょう。1867年、長崎に「フランス寺」が建てられました。それまでキリスト教の信仰を隠していた人たちが、その教会に集まりました。その信者たちを明治新政府は迫害し、信仰を棄てるよう迫りました。信徒たちは西日本一帯に送られ、拷問によって棄教を迫られたのです。津和野にも136人の信徒が流され、そのうち36人が殉教しました。
 その殉教者の中にいた子どもたちのお話です。
 5歳のモリ。役人たちは親たちがなかなか信仰を棄てないのを見て、子どもたちを責めました。子どもを苦しい目にあわせれば、親が棄教するのではないかと考えたのです。
 役人は、モリにお菓子を見せて言いました。「これをあげるから、教えを棄てなさい」。ところがモリは「キリシタンをやめません」と答えました。「お菓子をもらえば、パライソ(天国)に行けなくなる。天国に行けば、どんなお菓子でもいただけます」。
 食べ物もろくに与えられず、秋から冬にかけて、着るものもろくになく、飢えと寒さにさいなまれていたにもかかわらず、モリはお菓子の誘惑を退けたのです。
 14歳の少年、ユージローも信仰を棄てませんでした。鞭で打たれ、苦しみの極地にあった時、ユージローは、親雀が子雀に餌を与える光景を目にします。その時、ユージローはイエスさまのお言葉を思い出します。雀でさえ、子に餌を与える。天の父が私を見捨てるはずがない。この苦しみに耐えれば、きっと天で大きなご褒美を下さるに違いない…。
 乙女峠に建つ小聖堂のステンドグラスには、こうした子どもたちの物語が記されています。また、「三尺牢」と呼ばれる小さな箱もあります。皆さんが津和野に行ったら、そうしたものを見て、皆さんの先輩たちの信仰を思い起こしてほしいと思います。
 ところで、今話したのは明治の初めの話です。今、この時を生きる私たちはどのようにして、イエスさまの「証人」になればいいのでしょう。
 それは、イエスさまが教えて下さったことを実行することです。
 全世界の人は神の子である。だから困っている人がいれば助けよう。お父さん、お母さんを大切にしよう。ウソをつかない。盗まない。イエスさまがおっしゃったことを守る。その教えを守って生きること、それがイエスさまを「証(あかし)」することです。
 一日一日を、イエスさまの教えに従って生きることによって、皆さんは「証人(あかしびと)」となれるのです。ただそれは自分の力だけではかないません。神さまに「力をお与えください」と祈ることが大切です。そうして皆さんががんばってくれたら、イエスさまもお喜びになります。
 さらに今はこの世にいない人にも、「神さまが私に力を与えてくださるよう、お祈りください」と取り次ぎをお願いしましょう。皆さんに信仰を伝えてくれたのは、皆さんの両親です。その両親も、その両親から信仰を伝えられたのです。こうして信仰を継承していくことの素晴らしさを思い、亡くなられた人たちに感謝しながら、ごミサを捧げましょう。
 

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