GivingTreeの雑記帳

seeking for my another sky─それは、この世界そのものだと気付いた

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    主人公ポールを乗せた車は、道ならぬ凸凹道を走っている筈だった。だがそれは・・。

およそ「娯楽」と呼べるシロモノではなかった。だがこの映画の製作者は、より多くの人々にこの1つの事実を知ってもらうため、敢えて娯楽の要素を残した。しかし、娯楽部分を際立たせることなく、そして一人のヒーローの物語としてでもなく、史実を伝えることに徹した。

製作者は、「不快な映画にはしたくなかった」と言っているが、残念ながら俺には十分不快だった。だが俺にとって不快だったのは、映画の娯楽部分が強調されすぎているからではなく、映画になるまでこの事実がほとんど知れ渡っていなかったことだ。ニュース性に乏しかったのか、ジャーナリストの安全が確保されなかったからなのか、単に無関心だったのか、それはわからない。

俺自身、国際刑事裁判所に関する運動に関わり始めてから知った。だが、詳しいことをまったく知らなかった。多くの人が初めて歴史上の「大虐殺」を知るように、「○○が○○を○○万人虐殺した」という風に、初めてルワンダでの虐殺の事実を知った。そして歴史的背景を知り、「民族対立」という使い古された言葉で対立関係があることを知った積もりになり、それで「ジェノサイド」という重大な犯罪が行われたのだと勝手に解釈する。

事実のデフォルメ。いや、事実の矮小化が、そこで行われていることに気付かなかった。

歴史的なコンテクストや、「民族対立」、「武力紛争」などというキーワードに囚われていては、ルワンダで起きたことを“生の目”で見ることはできない。ルワンダで起きたことは、「人類史上に残る大虐殺」などと題することができることではない。ルワンダで起きたのは、人間の暴走だ。人間が、一人の人間(隣人)を憎み、その人間が束になって多くの人間を憎み、その憎しみに駆られるまま、人間を殺していった。ある大学では、4万人の人々が一箇所に集められて皆殺しにされた。ある牧師は、一人で150人殺した。ある妊婦たちは、生きたまま殺され、胎児も引きずり出されて殺された。子どもたちは、育たないようその芽を摘まれた。その数は100万人に達した。

100万─大きな数字である。大きな犠牲である。この100万人の人間を殺すのに、何人の人間が参加したのだろうか。1人当たり1人を殺したのなら、同じ100万人の殺戮者が必要になる。だが実際は、1人の人間が、牧師のような聖職にある人間が、150人も殺している。1人の人間が、戦時とはいえ、軍人でもないのに、隣の人間、その隣の人間、その隣の子ども、その隣の女性、その隣の老人、その隣の母親、その隣の家族を、まとめて殺してしまった。それが、ルワンダで起きたことなのだ。1人1人の人殺しが、多くの人を殺し、その返り血を浴び、死人を犯し、子どもの頭蓋骨をかち割り、そしてもっと人を殺すために、そのためだけに毎日を生きたのだ。少なくとも8万人の人々が、人を殺すために、次の日を生きたのだ。

歴史的な虐殺?国連の怠慢?西洋の欺瞞?そんなことは問題じゃない。

問題は人間が狂うと、何をできてしまう存在かということだ。
そして本当の狂気を前にしたとき、人間に出来ることといえば─逃げることくらいしかないということだ。

俺はいち人間として、この事実を知らなかったことを恥じた。
何ができるわけでもない。何ができたわけでもないだろう。

だが、この事実を時事風の文句で飾って「ニュース」としては捉えたくない。

いち人間として、こうした事実があることをかみ締め、何もできない自分を苛みながら、毎日を過ごしたかった。もちろん、それすら、現場にいた当人たちからすれば欺瞞でしかない。

ただこれだけはハッキリしている。後になって裁けばよい話ではなかった。

ルワンダの二の舞だけは、もう人間として、看過してはならない。

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