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「韓国語を勉強しています」というと、すぐに「話せますか?」と聞かれる。
しかし、話せるか、話せないかのどちらかではない。「話せません」と答える。
日本人にとって「どの国の言葉がやさしくて、どこの言葉が難しいか」とそう簡単に言えるものでもない。
電車、バス、駅、リンゴ、行く、来るなど簡単な言葉はともかく、「気持」を表現する言葉にはその国の文化的な背景がある。辞書に書いてある意味をそのまま日本語的感覚でわかったつもりでいても、韓国の人が感じていることとはちがう。
辞書で単語の意味を調べて単語の置き替えただけではほんとうに理解できたとは言えない。直訳はほとんど意味をなさない。韓国ドラマの下に字幕が出ます。しかし画面の中の人物が言っていることと字幕は合わない。
字幕の長さには制限があるから、短い訳にしなくてはならないという事情だけではない。登場人物の気持に最もぴったりの日本語訳にしなくてはならない。そのためには直訳とは似ても似つかない表現が必要になるからです。
言葉は現実世界を細切れにしてその一つ一つに言葉を対応させた抽象の産物でしかない。電車、バス、駅、リンゴ、行く、来る、それから数量などの場合はいい。しかし、色を表す「赤」などは目の前にある現実の「赤」を表すことはできない。言葉そのものが抽象の産物だからおおまかである。
或る言葉を聞いたときに、何を思うかは人によっておなじではない。外国語ならば外国人とネイティブでは文化的背景がまるでちがうから尚更である。
日本語の「涼しい」を辞書で調べると、「시원하다」(シウォナダ)と「선선하다」(ソンソナダ)の二つが出てくる。
例文1 涼しい秋風:시원한 가울 바람.(シウォナン カウル パラム)
例文2 めっきり涼しくなった:부쩍 선선해졌다.(ソンソネジョッタ)
と書いてある。同じ「涼しい」なのに、この二つはちがう。
前者の韓国語をもう一度日本語に訳すとすれば、「さわやかな秋風」となり、「さわやか」という自分の感覚を表している。
日本語では「涼しい」でも、韓国語では感覚を表す시원하다を使わなくてはいけない。
だから、逆に「시원하다」を調べてみると、1、涼しい。2、清々する。すっきりする。3、明快だ。ハキハキしている。4、気持がいい。5、見晴らしがいい。6、味があっさりしている、など、感覚的なものである。
後者は空気そのものの温度低さを表している。
「선선하다」を調べてみると、1、(空気が)涼しい。2、(性質が)サパリしていて快活だ。など、自分の感覚ではなくて、対象となる物や人の性質や属性が話し手から見てどうだということだ。
日本語の「涼しい」を韓国語に直す場合、涼しいにもいろいろあるから使う言葉を使い分けなくては真意は通じない。
そういう微妙なところまで知ってしまうと、やさしい外国語だとか、難しい外国語などと区別はできなくなる。すべての言葉には文化的色合いが存在するからそれを理解しなくては話せるようにはならない。
それぞれの語のニュアンスは辞書に書いてある訳語と、例文のすべてを見渡して、全体的に把握するようにすれば幾らかは真に迫ることができるかもしれない。これは先を急いではできないことであって、一語一語の徹底した言葉研究をしなくてはならない。気が遠くなる話である。
だからこそ、日本語のニュアンスを熟知した韓国人の先生に教わらない限りまともな会話はできるようにはならないと思います。そうでなければ、韓国に1年でもいいから留学するしかない。おそらく留学すれば1年で修得できるものを、特に語才が長けているということでもなければ、国内にいては10年15年はかかるのではないかと思う。
しかし、私は話せるようになるかどうかも大切だが、言葉について考えることを楽しんでいる。
言葉は現実の抽象の産物だから、言葉によって作り上げる世界は仮想世界です。しかし、その仮想世界を言葉を選び、尽くして如何に真意に近づけるかにかかっている。
それは日本語でさえも難しいのに、韓国語でもしなくてはならないのですから、定型文を覚えて読み上げれば済むというような単純な話ではありません。気が遠くなるような話です。
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