<第2回>薬師堂
海はひとつ 真下を覗くと、思わず目がくらんだ。やはり飛び降りて助かるとはとても思えない。
そのとき初めて気づいたのだが、このテラスの真下に、砂浜より二、三メートルほど高くなった一角があり、崖にはめ込まれたようなコンクリートの小さな屋根と、その脇のわずかな草むらにいくつかの石像らしきものが見えた。 「あれ、なんだろう」 私は欄干から身を乗り出して、崖下を指した。彼女は見て見ぬふりをしたようにも、まるで拘泥していないようにも見えた。そして一拍置いてから、こう言った。 「昔からある薬師なんです」 前の週、唐突に“アマ”と言われてピンと来なかったように、今度も“ヤクシ”と言われて戸惑った。が、それも一瞬で理解した。薬師以外の言葉は思い当たらなかった。 「へえ、こんなところに。レストランにのしかかられて、なんだか気の毒だな」 「そうですね。確かに窮屈そう」 彼女はほとんど表情を変えずにそう応じた。 プロローグを除く2番目の章「海はひとつ」の一節。崖上のレストラン「潮騒亭」で隆志と陽子が1週間後に再会する場面で、テラスに出ての情景。 前回紹介した廃レストランの下には、写真のような薬師堂が実在する。「堂の上薬師堂(岩山薬師堂)」といい、崖に彫られた磨崖仏で、その由緒などはほぼ本書の中に出てくるとおり。この薬師については、また「霧の薬師」の章で再度触れてみたい。 この薬師の存在は、私の目を過去へと向けさせ、物語に数十年あるいは数百年に及ぶ奥行きを与えた。廃レストランの下の薬師――偶然とはいえ、因縁めいたものを感じもする。 この薬師に下りるには、物語の中に再三出てくる“陰気な階段”を経なければならない。「廃レストラン」「階段」「薬師」の3点は、私にとって実在する1セットだった。この3点1セットがなければ、物語はまったく別物になっていただろう。 一昨年に廃レストランが取り壊されるまでは、この薬師へも自由に下りられたが、現在は階段の入り口に錠がかかり、立ち入り禁止になっている。薬師は近くの最明寺(御宿町)の管轄にあると聞く。 長編恋愛小説「天国でなく、海」、パロル舎より好評発売中!⇒お求めはこちら |
