ワンダバ 仕事人

久々に日本ハム戦観たが、こんなに打てないナカタはなぜはずされないのか?

昭和 プロ野球列伝

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

プロファイリング…

 

最初 当然 本人かと思ったが、年齢的にそれはなし。
 
 
考えられることは一つ…
 
 
 
お父さんが   熱狂的な 難解…いや   南海ファンだったとしか … 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
どうでもいいが 尾張出張仕置きの帰り、いつも ざくろ坂でタクシー拾っている。
 
後二回しか 尾張には行かんが、今度の月曜日 ソフトクリーム買ってこよう。 
 
 
 
 
 
 

再起の出店 福島のアイスクリーム店 きょうオープン

オープンを前に「ここで成功したい」と意気込みを語る片平社長(左)=港区で
写真
 
 福島第一原発事故以来、厳しい経営を強いられてきた福島県伊達市のアイスクリーム専門店「まきばのジャージー」が、再起をかけて14日、港区高輪のホテル内に姉妹店をオープンさせる。福島県産農産物への消費者の不安を考えて同県内の自社牧場の牛乳を使うことは断念せざるを得なかったが、社長の片平晋作さん(34)は「福島で培ってきた味を伝えたい」を意気込んでいる。 (柏崎智子)
 
 
 姉妹店がオープンするのは、品川プリンスホテル内の水族館一階で空き店舗だった飲食店スペース。店名は月の女神を意味する「セレーネ」にした。ソフトクリームや約二十種のジェラートなどを販売する。
 
 「まきばのジャージー」は、同県相馬市でジャージー牛の牧場を経営する片平さんの両親が一九九三年に開いた。濃厚なジャージー乳と自然食材で作るアイスの味が受け、夏のピーク時は一日四千個売れる人気店だった。東京で働いていた片平さんと弟雄作さん(28)も三年前にUターンして家業を継いだ。
 
 大震災後の停電は手搾りの搾乳で乗り切ったが、三月二十一日から約一カ月、同県産牛乳に出荷制限がかかり、打撃を受けた。「全頭処分して勤め人に戻ることも考えた」という。制限が解かれても客足は激減。子ども連れの家族は来なくなり、代わりに震災復旧の関係者らが客になったが、売り上げは三分の一に落ち込んだ。
 
 追い詰められた昨年八月、東日本大震災被災者の復興を助ける「ざくろ坂プロジェクト」の支援で、港区のグランドプリンスホテル新高輪の一角で臨時出店。九日間で約四千四百人が来店し行列もできた。手応えを感じ、東京で活路を見いだそうと決意した。金融機関からなかなか融資されず苦労したが、さまざまな人の助けでオープンにこぎ着けた。
 
 自社牧場の牛は放射性物質の影響を受けないよう屋外には出さず、牧場の草も食べさせていない。搾った牛乳は、八ベクレルが検出限界値の放射性物質検査で「検出なし」。安全性に自信はあるが、東京で消費者の理解を得るのは難しいと判断し、他県の牧場からジャージー乳を購入する。
 
 それでも、母がレシピを考え、家族で培ってきたジェラートの味は伝えられる。「出店まで支えてくれたたくさんの人たちに報いるには、ここで成功するしかない。福島にも希望があることを発信していきたい」と片平さんは話している。
 
 
 

閉じる コメント(2) ※投稿されたコメントはブログ開設者の承認後に公開されます。

閉じる トラックバック

どっちなんだよ ケータイ投稿記事

イメージ 1

ユニは阪急ブレーブス
ブーマーのテーマに 福本・松永のテーマが流れる中

 
グラウンドにも Braves のロゴ。

なのに 実況は「三回裏 バッファローズの攻撃は…」


だいたい H帽 をオカダがかぶっている時点で…
 
 

閉じる コメント(2) ※投稿されたコメントはブログ開設者の承認後に公開されます。

閉じる トラックバック(0) ※トラックバックはブログ開設者の承認後に公開されます。

何を今さら…

 
そんな殊勝な気があるなら 「ブレーブス」に もどしてみやがれ。
 
 
 
 
 
 

“阪急ブレーブス”復活で何かが起こる!
オリックス戦士が伝説のユニホームを着用

2011年4月28日(木)
阪急ブレーブスのユニホームを身にまとった後藤光尊
阪急ブレーブスのユニホームを身にまとった後藤光尊【オリックス野球クラブ株式会社】
 2011年シーズン、バファローズが掲げたスローガンは“新・黄金時代へ”。それなら、球団の歴史の中に輝く、“最強”と呼ばれたあの時代を忠実に再現しようと、オリックス球団は考えた。
“LEGEND OF Bs〜蘇る黄金の70's”と題したイベントが催される。まさに、温故知新。過去の歴史を懐かしむだけではなく、輝かしい伝統を積み上げた先達の功績をあらためて称えることによって、次なる黄金時代への決意を新たにしようというものだ。

 この“LEGEND OF Bs”なるイベント、今季は3つのシリーズで構成され、5月は阪急ブレーブス、8月には近鉄バファローズ、それぞれの1970年代の栄光をたどり、9月には番外編として、阪神淡路大震災直後の、1995年のブルーウェーブを振り返ることになっている。イベントでは当時のユニホームが復活するだけではなく、スタジアムでの演出やグッズやフードなども当時のものが再現される。

■福本、山田…“実力のパ”を印象づけた最強勇者

 5月に振り返るLEGENDは、1970年代の阪急ブレーブス。西本幸雄監督から指揮官の座を受け継いだ上田利治監督が、見事にチームを最強軍団へと導いたのだ。1975年には、近鉄とのプレーオフを制し、リーグ優勝。日本シリーズでは広島を下し、球団創設40年目で初の日本一に輝いた。続く、1976年、1977年には、昭和40年代に5度も、日本シリーズで退けられた巨人を下して、日本シリーズ3連覇を成し遂げた。まさに、絶頂期を迎えていたのだ。

 世界の盗塁王・福本豊がダイヤモンドを駆け巡り、加藤秀司、長池徳二が打点を挙げ、投げては山田久志、足立光宏の個性の違うアンダースロー投手が華麗に相手打線を翻弄(ほんろう)、そして、記録よりも記憶に残る速球王・山口高志が仁王の如く立ちはだかった。

 二、三塁のチャンスでのスクイズでは、三塁ランナーのみならず、二塁ランナーまでがホームを狙う“2ランスクイズ”を常に目指していた。強肩の遊撃手・大橋穣はその守備位置が通常よりもかなり深く、彼のポジションに合わせて、西宮球場の外野の芝が削られたというエピソードも面白い。
 そんな、個性派集団が見せた成熟した野球は、まさに当時の日本球界をリードし、“実力のパ”という言葉は、阪急ブレーブスが黄金時代を築き上げた頃、完全に定着していったのだ。

■木佐貫「“珍プレー&好プレー”的な番組で見た…」

今季の開幕投手を務めた木佐貫洋
今季の開幕投手を務めた木佐貫洋【オリックス野球クラブ株式会社】
 
 1970年代、プロ野球のユニホームは劇的な変化を遂げていた。ポリエステルが混じったニット素材へとかわり、発色が容易になったことで、ユニホームのカラー化が一気に進んでいった。阪急ブレーブスもこのトレンドに乗り、1973年になってカラーへ。赤を随所に配したユニホームへの変更は当時としては衝撃的であったようで、「こんなのホンマに着るんかいな!」という声がチームからも上がったと、当時の捕手・中沢伸二は振り返る。

 木佐貫洋は「中学生の頃、“珍プレー&好プレー”的な番組で見たユニホームですね」と笑う。そんな“昔のユニホーム”が今に時代にはどう映るのだろうか? 体型も着こなしも“今風”の選手が身にまとうオールドユニホーム。もちろん、当時とはテイストは違うだろう。それでも、リードオフマンでセンターの坂口智隆は、あの不世出の盗塁王の流れをくんでいるし、ベネズエラからの真面目な助っ人、バルディリスにとって、陽気なB・マルカーノは祖国の大先輩だ。そして、若き主砲のT−岡田はいったい誰の後継者と考えるのが妥当なのか――。今のプレーヤーと当時の選手を自分なりの視点で結びつけるのも、ファンにとっては楽しい作業だろう。
 

■伝説のOBもスタジアムに登場

 
 イベント当日、当時の最強軍団の中核選手で名球界に名を連ねる3人が、評論家としてではなく、OBとしてスタジアムに登場する。山田久志、福本豊、加藤秀司の3氏が、当時を振り返りながらも、後輩であるオリックス・バファローズのメンバーにエールを送る。
 過ぎたあの頃を知る人にも、そうでないファンにも、きっと有意義な時間となるはずだ。よみがえる阪急ブレーブス。新しい黄金時代へ向けて歩みを進めるために、伝統の中で、黄金色に輝くあの頃に、大いなる敬意を払いながら思いをはせることも、実は大切な儀式なのかもしれない。

 
 
 
 

閉じる コメント(2) ※投稿されたコメントはブログ開設者の承認後に公開されます。

閉じる トラックバック(0) ※トラックバックはブログ開設者の承認後に公開されます。

訃報…

ウォーリー与那嶺氏  
 
世間的には、讀賣のV10阻止した74年のドラ優勝の監督(こっちもそうだが…)
 
「侍ジャイアンツ」にもたびたび登場し   「ボク …ネ」 
 
 
※思い出した   王さんが入った時のウォーリーのセリフ 
 
 
       「ボク もうファーストミットいらないネ」    (爆)
 
 
 
ハム的には 高田政権での ヘッドコーチ。
 
 
後楽園で 出待ちしていた時  よくお見かけした。
 
周りのガキ少年は 誰だかわかっていないし、 ほとんど高田監督に群がっている中、横を静かに通り過ぎていくだけ。
 
 
誰も ウォーリーには声をかけないので ある時 仲間数人と 
 
 
    「♪それは一言優勝だ ♪ヨナミネ監督の胴上げだ♪」 と歌ってみた。
 
 
 
      完全にスルーされた (爆)
 
 
 
 
その日は勝ったはずなのに…
 
 
なにはともあれ ご冥福を…
 

与那嶺要氏死去、85歳=元巨人外野手、中日監督―プロ野球

時事通信 3月1日(火)19時56分配信
 プロ野球の巨人で首位打者を3回獲得するなど活躍し、中日監督としても巨人の10連覇を阻んでリーグ優勝を果たした与那嶺要(よなみね・かなめ=本名ウォレス・カナメ・ヨナミネ)氏が2月28日(日本時間1日)、前立腺がんのため米ハワイ州ホノルルのシニアホームで死去した。85歳だった。葬儀は今週末にホノルルで行われる予定で、後日、東京でお別れの会を開く予定。喪主は長男のポール氏。 

 
 
 

閉じる コメント(4) ※投稿されたコメントはブログ開設者の承認後に公開されます。

閉じる トラックバック(0) ※トラックバックはブログ開設者の承認後に公開されます。

さよなら ブレービー…

 
 
 
 
イメージ 1
 
 
 
体調を崩されているという話は 何かで耳にしたことがありますが、それにしても まだお若いのに…
 
 
ほんとうに 今年に入ってから、多すぎるような気がしてなりません。
 
 
ブレービーとギョロタンは  ハシリですから。
 
 
 
 長嶋第一次政権の一年目、 ベロビーチキャンプの時、オープン戦で 大リーグ相手に完封かなんかして 一面になったことがありました (当時 なぜか トウチュウがサービスで宅配してくれたことがあり、最初に届いた新聞だったので よく記憶に残っています。) 
 
 その年 つまり 讀賣史上初の最下位の年ですが、序盤戦 ローテに入り、確か 神宮のヤクルト戦で 好投しながら 後続が打たれて 白星を逃した試合を 見ていた記憶がありますが、なげるたび ロージンつけてから 帽子を触るので ツバの部分が真っ白になりながら 初々しく投げていた 姿がなぜか 印象的でした…
 
 
 
本当に 謹んで ご冥福を お祈りするばかりです。
 
 
 

島野修氏死去(元プロ野球巨人投手。阪急、オリックス球団職員)

2010/5/11 11:09 配信 時事通信
 島野 修氏(しまの・おさむ=元プロ野球巨人投手。阪急、オリックス球団職員)8日午前、脳出血のため兵庫県西宮市の病院で死去、59歳。長く糖尿病を患っていた。神奈川県出身。10日に密葬を行った。自宅は非公表。
 神奈川・武相高からドラフト1位で69年に巨人入団。71年からの4年間で24試合に登板し、1勝4敗、防御率5.05で、阪急(現オリックス)に移籍したが、1軍での出場はなかった。
 78年に現役を引退した後、阪急の球団職員として、チームの着ぐるみマスコット「ブレービー」、オリックスになってからは「ネッピー」の中に入り活躍。日本スポーツ界のマスコットとして草分け的な存在となり、81年から98年までの1175試合でファンを楽しませた。 

閉じる コメント(8)

閉じる トラックバック(0)

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.

ワンダバ
人気度

ヘルプ

Yahoo Image

ブログバナー

  今日 全体
訪問者 11 77307
ブログリンク 0 27
コメント 0 7081
トラックバック 0 131
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
検索 検索

開設日: 2006/2/22(水)


プライバシーポリシー -  利用規約 -  ガイドライン -  順守事項 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2012 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.