死ぬまで生きよう!

秋の夜長は、長文ブログでも読んで・・・

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桶屋のブログ

hanshirouブログって面白いね。最初に宮沢りえ離婚の話題で始まったのに、フランスの大統領から、ルソーになって、フランス革命に行ったかと思えば民主党の話に変わり、小沢一郎で終わる。何で宮沢が小沢で終わるのか訳が判らんし…。でも、ほとんど毎日書いてるみたいだが、どうしてそんなに話題があるわけ?」
 
批判か賛辞かはともかく、人には人の感じ方がある。しかし話が飛び火していくのは事実だし、何でといわれても自然とそうなるのだ。そうならぬよう歯止めや、自己規制をかければと一度やってみたが、歯止めする理由が見当たらず頓挫した。まあ、文章表現上どういうマイナス面があると指摘されても、所詮は素人のお遊びだ。
 
イメージ 2国民生活に影響するわけでも国家を揺るがすわけでもない。何の制約も設けず真に自由に書けばこうなる。真に自由にすることが如何に楽しいかは、谷岡ヤスジのマンガで学んだ。あそこまで自由に、思うがままに描きこむことができるなら、悲壮感さえ漂う人間にすら見える。やはり人間には、人間の社会には規律と制約がなければイカンのかと。エロチシズムは規制に対する反動であるし、年がら年中全裸で暮らす島に行けば、服を着てる人がエロいことになろう。規律や規則があるからそれを破る楽しみもあるわけだから、谷岡がいかにエロチックな描写をしたところで、彼のマンガにエロチシズムを感じるものはいない。健全な精神こそが不健全であるように、一切の歯止めも規制もないエロスはエロスではない。それはナンセンスと定義される。
 
「愛なんてのを描こうと思ったら、どんどんエスカレートし、自己規制をかけないとスカトロまで行くんだよ」以前平田弘史がこういった。平田には加治一生という偽名で描いた「愛」という作品がある。1965年の「ガロ」12月号に掲載されたが、平田と愛について話していたときの発言だ。なるほど、人間なんて何をしても「愛」、何事もとめどなく「愛」であるを実感する。
 
ナンセンスとは意味がない、バカげている、ということ。谷岡とて人の子、当初は電車で読んだ後に容赦なくホームのゴミ箱にポイされる三流雑誌に、エロマンガを描いて生計を立てていた。ところが、彼も歯止めが利かなくなったのか、エロだけではつまらなく思ったのか、人間の条理への挑戦を始めた。元来秘め事であるエロを表にすること自体不条理であるのだが。
 
時代の変化とともに、富永一郎や小島功が描く「チンコロねえちゃん」、「仙人部落」はエロマンガとしてもはや限界に達していた。富永、小島、谷岡、誰が描こうともエロはエロであり、人間のすることはなにも変わらない。昔ソクラテスというおっさんは、自分が弁論家の大家であることを知りながら、自分は無知で何も知らない、君たちと同様だとすっとぼけていた。
 
それで相手を煙に巻き、油断をさせ、おだてたり、喜ばせたりとタヌキオヤジの限りを尽くし、自分の周りには美少年をはびらせ、秘かに快楽主義を横臥した。美少年大好きのハゲオヤジことソクラテスの弟子がプラトン、その弟子がアリストテレスで、その少し後にストア派、エピクロス派が現れた。前者の道徳を禁欲主義、後者を快楽主義といい、二つは反目しあっていた。
 
イメージ 3「人生の目的は快楽だ」、「違う。快楽を遠ざけ宿命を受け入れよ」などと毎日のようにいい争っていた。ある日ストア派の代表ゼノンとエピクロス派の親分エピクロスが議論対決の場に表れ、弟子たちは固唾を呑んで状況を見守った。ふたりはしばし議論をしたが、たちまち意気投合、にこやかに肩を叩きながら打ち解けてしまったのだ。弟子たちは拍子抜けし、あっけに取られたのだが、親分同士の意見の一致は、実は当然のことであった。まるで正反対と思われた快楽主義と禁欲主義は深い部分で相通じるものだと判ったからだ。それは何か?深い部分とは?一言でいうと、ストア派もエピクロス派も「自然」を共通としていたということ。どちらも自然の一致をモットーに、死や老いの脅威から人間を解放するものであった。
 
スポーツに一身を捧げ、技を磨いて精進するのも、本能の命じるままに衣・食・性の快楽を求めて流されて行くのも、「快楽原則」においては共通する。脇目もふらず猪突猛進するのはストイックのようだが、快楽を先送りしているだけのこと。家が欲しいという欲求を満たすために質素・倹約に生きるのも同じこと。欲望のために人間は如何様にも生きる定義を変えられる。
 
人間の脳は快楽志向であり、度を過ぎた快楽を抑制する理性の支配も受けているが、快楽を満喫するためにさまざまなことを無意識にやっている。例えば、こういう痛〜い経験をしたことがあるだろう。足の小指をどこかの角にぶつけた、向う脛といわれるひざを誤まって打ち付けてしまったときの痛さは、それはもうたまらない。
 
そういう時に無意識に、「この野郎!クソったれが!」とか、お上品な女性でも誰もいなければ、「なによ、もう!コンチクショー!」とまではいわないだろうけど、何がしかの言葉は思わず出てしまう。それって何のため?自分の不甲斐なさ、ドジを叱咤するため?無意識だから問われても困るが、実はこれにはちゃ〜んと理由がある。無意識のようでも立派な生態反応なのだ。
 
イメージ 4イギリスのキール大学(Keele University)の研究グループが以下のような研究成果を公表した。先のような突発的な痛み発生時の場合、汚い言葉を発した人の方が、発さなかった人と比べて痛みを感じる時間が50%近く短かかった。実験によると、ボランティア64名が氷水に手を浸し、1回目は「ある汚い言葉を発しながら」、2回目は「汚い言葉以外の任意の言葉を発しながら」どれだけの時間ガマンできるか調査した。
 
その結果、汚い言葉を発しながらの場合はおよそ2分だったのに対し、汚い言葉を発しなかった場合は1分15秒とかなりの差が出ることが明らかになった。汚い言葉を口にすることによって痛みへの耐久性が上がるだけでなく、痛みを認識する能力を鈍らせる効果があると研究者たちは分析する。ただ、普段から汚い言葉を口にしていると、痛みに対する耐久性をアップさせる効果は下がってしまうとのオマケ付きだが。
 
ところで、くしゃみの後で、「コンチクショー」とか「バカヤローィ」というおっさんを見かけるが、それをいうとスッキリ気持ちがいいという。気風のいい江戸っ子が、「へっくしょ〜い、てやんでぃ、べらぼうめ!」って、大宮デン助みたいでカッコイイ。実はあれもくしゃみというアクシデントを和らげための言葉だろう。くしゃみの苦痛はないが、体裁の悪さを軽減する効果とみる。
 
知り合いの女性はくしゃみの後に必ず「くしゃみ」って一人言をいっていた。「はっくしょーん!くしゃみ…」みたいに。これも無意識の体裁を繕う仕草だろうし、だから少しイジワルっぽくいってみた。「べつにくしゃみをした後で、わざわざ『くしゃみ』と教えてくれなくても、くしゃみをしたのは判るから、いうの止めたら?」イジワルっぽいと感じたのか、彼女は意識して矯正した。
 
 
人間の無意識行動ってのは、自分も含めて注意深く眺めると面白い。くしゃみをコントロールできなかった悔しさか、あまりに勢いのあるくしゃみに感動するような仕草や言葉を発する者もいたりと、痛みはなくとも人前での照れ隠し言葉だろう。まあ、人前でのアクシデントを「イタ〜イ」という言い方もするし。外人は、「へっくしょ〜い、Oh!my god」は、大げさだ。
 
Excuse me sorry というのはありそうだが、bless you が一般的。中には fuck you といいそうな奴もいるかな?想像だが。くしゃみをすると「悪いもの」が入るから、「神の加護があるように」(Bless you !)と唱えて「悪いもの」が入れないようにしたとの語源はどうなんだろう。しかし、くしゃみってのは意外と快感かも知れん。2回続けて出るときは得した気になるね〜。
 
3回出たらルル3錠飲むのか?他人が側でくしゃみをしたときなどは、周りが「よいしょー!」って、囃子立てることはあるが、これも良いコミュニケーションなのかも。以前、「ハックション」ってくしゃみのあとに、「大魔王!」っていわれたことがある。しかし、口の中に何が入っていたとしても手で押さえないとすべて外にでるからね〜。
 
口の中の物を出さないようには無駄な抵抗だ。口を閉じてのくしゃみは何度も挑戦したが一度も成功したことがない。ゲップなら口を閉じてできるが、くしゃみはその風圧からして無理。子どもがご飯粒を散らばる激しいくしゃみは可愛いし、微笑ましいけどね。人に噂話をされている時にくしゃみが出る、との言い伝えがある。どうしてこのようなことになったのか?
 
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しかもくしゃみの回数によって噂の内容も異なる。「一そしり二笑い三惚れ四風邪」といい、一回だったら批判される噂、2回だったら物笑いの種にされている、3 回だったら誰かに惚れられているが、4 回もくしゃみするようだったら風邪をひいているということ。根拠がナイのは判るが、起源や出所は不明。くしゃみの後に必ず、「あっ、誰か噂してる」という女がいたが、誰も噂なんかしとらんよ。
 
せっかく起源や出所が不明というなら、「風が吹いたら桶屋が儲かる」的ブログばかり書いてる人間としては、噂をされるとくしゃみが出るのを「桶屋が儲かる」風にアレンジする。「噂話をする⇒盗み聞きする⇒本人に噂を伝える⇒怒り心頭⇒頭から湯気、体から熱が出る⇒体温上昇⇒汗をかく⇒下着が濡れる⇒乾くときに体温を奪う⇒風邪をひく⇒くしゃみ」
 
イメージ 6なるほどこういうことか。ところでくしゃみそのものの語源は「嚔(くさめ)」という言葉である。中世の日本ではくしゃみをすると鼻から魂が抜け、そのためしゃみをすると寿命が縮まると信じられていた。そこで早死にを避けるため「くさめ」という呪文を唱えるようになり、それが「くしゃみ」という名前となり、行為そのものを指すようになった。ハクションは米英圏では、achooというが、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」じゃないっつうの。ドイツでは、hatschi (ハッチ)、フランスでは、Atchoum(アッ(トゥ)チュウム)おかしいよねー。何でフランス人にはアチュムと聞こえるんだろ?どこの国の人もみんな「ハクション」なはずなのに。日本以外のどこの国も「ハクション」とは聞こえないんだから不思議だよ。
 
各国の擬態語を調べただけで、ものの感じ方、聞き取り方がこんなに違うものかと驚ろかされる。擬態語といえばマンガで、日本のマンガやアニメは今や世界への輸出品だが、このタイトルがまた各国各様で面白い。特にフランスで日本のマンガ人気はジャパニメーションと相当なものらしく、沢山のアニメ、マンガがフランス語に訳されている。所変われば品変わるのも当然でタイトルもまるで変わってしまう。
 
「ハクション大魔王」はフランス語タイトルは、Robert dans la bouteille(ロベール ダン ラ ブテイユ)意味は「瓶の中のロベール」で、確かに壷(びん)の中からでてくるからだ。「ひみつのアッコちゃん」などはまるで別物というくらいの変わりようで、トレードマークの赤と白の洋服もスカートからつなぎジーンズになり、名前もCaroline(カロリーヌ)となっている。
 
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日本のマンガが世界に親しまれる理由はさまざまあると思うが、元を正せば「鳥獣戯画」や、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重らの浮世絵などは、その大胆な構図や新鮮な色遣いからゴッホやモネら印象派の画家に多大なる影響を与えてた。こんにちの日本のマンガの奥深さ、丁寧さ、外国の漫画は絵が荒く、コマ割も簡単で日本のマンガとは格段に違う。
 
外国人は日本のマンガを「映画をみているようだ」という。ここまでになった理由は日本人が大人もマンガを見るからで、外国ではマンガはこどもの楽しむものだが、日本では大人も楽しむから当然市場も拡大する。そこから才能あるマンガ家が沢山輩出されたと考えるべきだろう。日本でマンガは大人の文化というのを喜んでいいのか、恥じるべきか、両論存在する。

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魂というものが「ある」とか「ない」とかいわれるが、魂が「ある」から魂という言葉が生まれたわけで、魂が体のどこにあるとかも判らず、人体を解剖しても特定のある場所にもなければ、Ⅹ線にもCT画像にも映らない。それでも「ある」といわれる魂は、とかく生き人よりも死後における霊魂と表現されること多し。西洋医学を学んだ医師は霊魂の在り処を説明してくれない。

霊魂をいう多くは宗教者で、霊魂とは宗教の得意分野といえる。人は古代から死後の世界に強い関心を抱いてきた。宗教は死後の世界への関心から生まれたし、死後の世界は「魂」の存在抜きには語れない。したがって宗教は死後の魂をいかに救済するかの問いに対する答えから生まれたといえる。人類誕生以後いつ頃から「霊魂」なる概念を持つようになったか判っていない。

記録もないし調べようがない。ホモ・エレクトス以前の古人類には死者を埋葬した証拠が発見されていない。ネアンデルタール人については、一部に否定説はあるが死者を埋葬し花を供えるなどの宗教行為を思わせる遺跡が幾つか知られている。これらから人類が原初的な死生観を持ちえていた可能性があるとする解釈もある。すべては解釈、想像の世界に帰するが、それも学者の研究領域だ。
 
宗教による魂の説明は、その宗教によって異なっている。キリスト教が説くのは、生前の行いに応じて天国行き地獄行きに分かれる。ヒンドゥー教は、霊魂は生前の行いに応じて転生すると説く。仏陀の説いた初期仏教にいう「無我」とは、霊魂を否定したとの解釈もあるし、そうではなくて「非我」という自他平等の境地を目指した思想との解釈もある。いろいろ違うのが宗教で、いずれも自己主張強し。
 
イメージ 2古代中国では、死んだ人間の魂は子孫が祀ることによって救済されると考えられた。祀(まつ)るとは、儀式をととのえて神霊をなぐさめ、祈願することだが、そのためには子孫が繁栄せねばならない。つまり子孫が途絶えたら祀るものがいなくなるし、子孫がいても貧困に喘いでいたりだと祀ることもできない。そもそも魂の救済ってのは何?そこが問題だ。いろいろな考えがあるが、どれも尤もらしく、どれもインチキ臭い。教わる立場からすればどれかを信じることになるのだろうが、どれも信じれんというのもアリだ。霊魂不滅の考え方は、人間の本体は現有する肉体ではなく、魂であるとの考えに立つことだ。それが魂を信じるための初めの一歩だろう。この考えに同意なくして「魂の救済」もクソもないだろう。「あなたは霊魂を信じますか?」だな。
 
信じない自分は何を読んでも嘘に聞こえるが、読み物やフィクションとしては面白く、ただ面白いだけで他人事だし気楽なものよ。魂を救済しなければ、魂がさまようことになるといわれても、それが自分にどう困るという不安や心配が浮かんでこない。それでは困るからと、世の多くの人は魂を救って欲しいと願っているのだろう。実際、救われたかどうかは、死んだ本人にはわかるのだろうか?
 
大好きな父であったが、逝去後に祀り事をしていない自分は、父の魂に迷惑をかけていることになるが、ご安心くだせー、霊魂を信じていないので決してそのようなことはないと思っている。宗教者は時たま人を驚かすことをいう。「自分から発したものは、自分に返ってくる」という天則があります。「他を生かす者は生かされる」「他を殺した者は殺される」などなど。これ業(カルマ)償還の法則らしい。
 
自殺は神様から与えられた進化のための尊い修行を自ら放棄することであり、他人の修行を止める殺人と同等の神に対する罪だという。神に対する罪など誰でも犯してないか?同様に子どもの頃には嘘吐きは地獄で閻魔大王さまに舌を抜かれるとかいわれて怖い気持ちになったが、嘘なら人間誰でもついてないか?神への罪を犯さないで生きてなんか行けないし、嘘つかないで生きて行けるはずがない。
 
イメージ 3宗教はなんと非現実的なつまらん規則を作ったものよ。いいことも書いてあるが、宗教に染まらなくとも、いいことが何かくらいは人から世間から学ぶ。宗教から学びたい人もいるが、それがすべてのわけでもない。それとも人や世間から学ぶ人より、宗教から学ぶ人の方が格上なのか?そんな事に興味もない。いいことを知り、たまに善い行いをすればいいんだから。儒教、道教の他に仏教も含め、中国には幾多の宗教が混在したが、それが中国人や朝鮮人の精神構造の骨格を作った。孔子の儒教は政治の安定に寄与し、子孫繁栄の実現を目指した。儒教は血縁を重視するから、中国・朝鮮では父兄血縁社会を築いてきた。日本人は血縁より地縁を重視した。「お家存続」、「お家断絶」の思考で、「お家存続」のためには裏切りも平然とおこなってきた。

「家」を残すために真田は徳川と豊臣に別れて戦った。一生懸命という言葉は一所懸命から出たもので、「一所」に懸命になるのが日本人の特質だし、一所は「地」であり「家」である。日本社会は近世、近代を通じて家を重視したが、社会生活上家なしには個人が生きていくことが困難だったからだ。欧米人も家族は大切にするけれども、家族といえども個人は個人、やはり「個の優先」だろう。
 
「集団あっての個」の日本、「集団は個の集まり」という欧米の考え方の差異は、「過同調型集団主義」と、「原理連帯型集団主義」という風にいわれる。前者は「和」という行動原理を支えるためには「あいまい」、「ぼかす」などがコミュニケーションの主軸となる。いいことか、悪いことか、「外面のいいご主人」や「対面を重視する奥さま」が多いのはそういうことだ。これを止めろといっても無理だろう。

「たまには本音で語ろうぜ」とかいう言葉で補っている風だが、「無礼講」はやはり言葉だけなのか、日本人ならその辺もわきまえた所作が身についているのだろうし、。自分だって日本人なわけで、異人よりも日本人のことを判っている。むしろ日本に来て躊躇う外人さんに困惑する人が多く、それは善悪というより、異文化体験ということだから仕方あるまい。長く住んで判る以外にない。

イメージ 4安土・桃山時代を日本に生きたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、初めて日本の風呂に入って、フロイス(風呂椅子)があるのに驚いたかどうか知らんが、「ヨーロッパでは言葉の明瞭であること求め、曖昧な言葉は避ける。日本では曖昧な言葉が一番優れた言葉で、もっとも重んぜられている」との記録を残している。自分の意見はハッキリ主張せずにぼかすのが一般的日本人。曖昧にしたいからぼかすのではなく、言葉をぼかすから曖昧な人種となる。「ぼかし」コミュニケーションは「和」の達成に有意義とのこと。これによって集団内部の不協和音は隠匿される。子どもの頃から本音で遣り合っていた自分と母親は、本音で遣り合ったから反目した。本音で遣り合った理由は、どちらも譲らなかったからで、子どもは親に負けたくないし、親も子どもを押さえ込む。
 
人間の脳はもともと感情的になりやすいように出来ている。だからどこのお国でも感情的な罵り言葉が数えきれないほど存在する。誰でも不快なことをいわれれば感情的になるだろう。問題はここから先である。感情のままに動いて思考停止するものと、感情に流されず思考停止しないものと。どうあるべきかの選択・評価は自らがするしかない。他者も評価はするが、それはあくまで他者の評価でしかない。

今月初旬、レンジャースのダルビッシュがツイッターで「韓国料理を食べている」と写真つきで発言したところ、これを見たあるネットユーザー(35)が 「汚い韓国料理なんか食べるから成績が残せないんだよ。反省してください」とコメントした。これに対しダルビッシュは、「あなたもいつも暇ねー35歳にもなるんだから、いい加減大人になりましー」と返したことで、韓国人ユーザーに「さすが大物」などと評価された。
 
韓国人ユーザーの評価はどうでもよく、そんな事で喜ぶダルでもないだろう。ことはそこで終わらず、逆恨みした当事者は「事実を言われて怒る韓国人(笑)日本が嫌いなら出てけよ」、「困ったら無視する。まるで韓国人」とダルを挑発した。それらをダルは一切無視したが、嫌韓ユーザーの書き込みは17日まで続いていた。過去差別を受けた経験のあるダルにとって、差別の悪害は知っている。
 
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「相手がするから自分たちもする。では一生終わらないよね」と一段落ついた後、無視の理由をこう述べている。いい言葉だよ。「金持ち喧嘩せず」の諺を実践したかどうかはともかく、実際彼は金持ちなんだから。相手のレベルになんかに自分を落とし込む必要はない。人のブログやツイッターに匿名をいいことに文句の書き放題などをするが、バカげたコメを曝す自身の恥に気づいてないようだ。

無視もいい、諭すもいいが、大方の輩は「豚に真珠」だろうから、見ず知らずの輩に感情的になることだけはバカげている。「35歳にもなって大人になれよ」と書いたダルは、感情的な物言いではなくダル自身が呆れた挙句の諭しだろう。それにしても他人のブログに土足で入って好き勝手気ばらしする前に、「そんな事をして何の意味があるんだろう?」と思わないのだろうか?
 
「お前は間違っている、オレが一言吐いて正してやる」ということなのか?であるなら思い上がったもんだ。そういうお子ちゃまは返り血浴びるに決まってるだろに、そこが判ってない。自分が正しいと思うからわざわざ書こうという気になるのかね〜。将棋棋士の寝癖を非難しただけで文句をいう。40歳男の和服正装姿に、ピョコンの寝癖がよくないというのがどこが悪い?おかしくないなどと書く方がイカレテる。
 
百歩譲って、おかしくないというファンがいてもいいが、他人がおかしいと感じる自由はあるだろうし。今回のダルビッシュのツイッター発言は、無視してもよかったとも思うが、彼のリベラルな性格の表れと感じた。あのユーザーの書き込みには礼の欠片もない非常識なものだし、こんなのに反応するダルにも躊躇いはあったと思うが、書くもよし、無視もよしのスタンスの一つの結果だとみた。
 
断固書くべし、断固無視すべしというのではない。外野の意見はいろいろだが所詮は外野の評価。書いたという彼の行為は選択種のひとつに過ぎないのだと。そういう鷹揚さでいいかなと。「○○はこうする、××はこうしろ…」などと、がんじがらめに決め付ける宗教って、だからつまらない。話は変わるが、前回登板のダルは4回5失点の2敗となり、自らの不甲斐なさにダルは監督に謝罪した。
 
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そんなダルに監督は、「今後は絶対に謝るな」と言い渡した。「日本でそういう文化もあるかもしれないが…」と前置きして、「完璧な選手は一人もいない。長いシーズン、いい投球が出来る日も、出来ない日もある。それに、昨日はチームで負けたんだ。我々はチームで戦っているんだ。」さらに、「6勝2敗。すごいじゃないか。次、いい仕事をしてくれればいいさ」
 
こんな言葉を選手にいえる指揮官が日本人にいるだろうか。実に大人であるし、positive thinkingの見本のような言葉。いや、久々に「魂」の言葉を聞いた思いだ。

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病気が自己責任?

15歳には15歳の考えしかなく、20歳には20歳の考えしかない。彼らを大人の考え方に導くべきか、まあいろいろな状況によると思う。放っておけばいい場合もあるし、判らせた方がいい場合もある。無理をさせず、背伸びさせず、あせらず試行錯誤の中で自らが学んでいくのが一番いいとは思うが、判るやつなら判らせてやった方がいい場合もある。昨日のフリーターにそれを実感した。
 
今春大卒23歳のフリーター男だが年齢的にも留年か浪人は明らか、理由も就活のことも聞いてはないが、4月からマグドナルドでアルバイトを始めたそうだ。最近は24時間営業の店舗もあるらしく、それは知らなかったが、相談はバイト先の店長への不満である。先日体調を崩して2日バイトを休んだという。初日は熱も39度あり、2日目やや熱は下がったが無理をせず欠勤の電話を入れた。
 
イメージ 2
 
その時店長から、「体調管理も自己責任だからな、ちゃんとしろよ!」と強くいわれたという。「そりゃ店長ならいうだろう。いわなければ店長の資格はないと思うね」と当たり前のようにいったら、「体調を壊したくて壊したのでありませんし、今まで一日も休まず一生懸命頑張ってたのに…」と甘いことをいう。以下はやりとりのログ。
 
「一生懸命やって普通。それが当たり前なのに欠勤というマイナス評価がついたな」
 
「別に休みたくて休んだわけではありませんよ」
 
「そんなの関係ない。欠勤は欠勤だし、理由などどうでもいいし…」
 
「ズル休みじゃないし、熱もあったんですよ」
 
「人に人のことが判ると思うか?君が休みたくないのに休んだか、仮病で休んだか、そんなの誰にもわからない」
 
「証拠がないってことですか?」
 
「君が店長なら判るのか?そういう電話が来て、本当に熱があって体調が悪いって」
 
「判りません。けど、疑ったらキリがないし」
 
「だから疑わないというのか、君が店長なら?」
 
「はい。信じたいです」
 
「甘いね〜、君は店長失格だな。まぁ、会社もそういう人間を管理職にしない。いいか、同僚じゃなくて管理職だぞ。そんな管理職はダメってわからないか?」
 
「部下を信じるのはいけない管理職でしょうか?」

「信じて期待に応える奴ばかりか?信じてやってもナメル奴もいる。部下に舐められる管理職って多い」
 
「ボクは信じてもらえたら頑張りますが…」
 
イメージ 1「君がどうかは誰にも判らないだろ?君だって人がどうかは判らないように。マックはアメリカ式合理主義経営だから、ダメなら即刻クビにする。君はメジャー・リーガーの厳しさ知ってるか?昨年よくても今がダメならクビ。今までどれだけ貢献したとしても今ダメならクビ!」
 
「ええ、知ってます」
 
「とにかく自己責任という考えは人に公平だし、平等なんだよ」
 
「自己責任が公平?平等って?」
 
「考えてみろよ、病気で休む奴もいればズル休みもいる。そんなのいちいち判らないし、信用してたら誰でも平気でズル休みするしな。だからどんな理由であれ、欠勤は欠勤と平等に扱うのが公平なんだよ」
 
「なるほど」
 
「昔は"欠勤は診断書提出"を義務付けた企業もあったが、提出する方も大変だし、まるで子ども扱いよ。アメリカ式経営に温情はない、クビになりたいなら好きにしろ、クビになりたくないなら体調管理しろっていう大人の対応だ。信用とか、疑うとか、そんなの管理職によって違うし、統一できないからな」
 
「はい」
 
「君が管理職でもその方が楽だし、それを合理的な人事管理というんだよ。ズル休みかどうかの調査など、そんな事は管理職の仕事じゃない。自己管理させて、あてに出来る人材を求め、また育成することが求められる」
 
「分かりやすいです。よくわかります」
 
「中高生じゃないんだし、これくらい判らなきゃ。大人なんだから」
 
「とにかく、休む理由なんか関係ないってことですね。会社側にとって…」
 
「そういうこと。欠勤は欠勤。それが平等、情も何も無用ってこと!」
 

ということだが、これが理解できない日本人は多い。生活の中に自己責任の文化が浸透してないからだ。18歳になっても家でゴロゴロしてたり、ドラッグに手を染めて家人に迷惑かけるようなら、あちらではそういう子は家から叩き出される。親が教育できない子を「戸塚ヨットスクール」みたいな他人に委ねるのも自己責任ではないし。そういう子は家を追い出されて浮浪者として生きるしかない。
 
イメージ 3

また犯罪に手を染めるなり、留置されるか、ドラッグ中毒者を更生させる施設に入れるかだ。自己責任というのは、他人が他人に関わる限界を示しているし、欧米の合理主義社会の利点は日本にも導入されて来た。国民性が個々の人間の総和とはいっても、性格という個人次元のモノサシを無視していいのかとの疑問はある。
 
諸外国に比べて日本人が内向的な人種であるのはその通り。こんにちのアメリカではプロザック(=商品名。SSRI[選択的セロトニン再取り込み阻害剤]という抗うつ剤)を日常的に愛飲する人は2千万人ともいわれている。こういう薬を常用する人はもともと内向気質だが、アメリカでは性格が外交的でないと仕事や生活がうまく行かないゆえ、薬を借りて無理やり外向性にするのだ。

内向性を無理やり外向性に変えるのはよくないとされているし、だからプリザックのような抗うつ剤常用は必ず破綻を招く。したがって薬に頼らずとも、行動や学習によって人はある程度の外向性を獲得するしかない。他人と集う時間を多く持ったり、種々の自己啓発や努力でそれは可能だ。が、国力の観点で日本という国を眺めると、超内向的と言わざるを得ない日本人の姿が見える。

ヒトラーを生み、日本と同じ第二次大戦で惨敗したドイツとの比較。分断国家のドイツは東西を統一させ、フランスと組んでEUを築き、強大なる戦勝国アメリカの言いなりにならず、憲法も自ら作り変え、主体性を持った外向を展開するなど、あまりに日本と対照的。何でこうなったか?それは日本人が内向的だからであり、「No!」がいえない民族であったから。それに西欧思想の核を成すキリスト教と聖書のこと。

イメージ 5聖書はさまざまに解される。どれが正しいのか?どの解釈が神の御心に沿うもの?これが闘争の元凶。個人が聖書をどう解釈してもいいとの思想から発展し自由主義が生まれたのは以前にも述べた。自由とは他者と自己の差異を思考・認知することで、それが分離性人間を作る。ところが日本人にそれがない。他人と自己を分離するよりも、「和を以って尊し」の文化は、個人主義を芽生えさせない。真の個人主義が何かは、「集団の同調圧力に屈しないこと」であるが、日本人社会ではそれを異端と捉え批判する。つまり日本での個人主義は利己主義、エゴイストと同義となる。他方や集団に属しない孤立主義にも偏見の目を向ける。
 
確かに人と同じであれば無難だし、そういう損得勘定で長いものに巻かれるというのが利己主義というわけだ。利己の反語は利他だし、自分の都合、自分勝手は間違いなく利己主義者といえる。似ているようでも個人主義は孤立主義とも違う。日本でも叫ばれ続けている「個の確立」が至難なのは、家族主義という問題もある。親が子どもにしがらみ、「個」の自由を尊重せずに「個の確立」などあり得ない。
 
自分はずっとそのことが不思議で仕方がなかった。アメリカのポチであることが日本国にどれだけ心地いいのかは知らないが、かつて親の言いなりから離れて、これほど天国なのかとの思いを抱いたことはない。であるから日本人の親がどうして子どもの自立を損ねることばかりするのか?なぜ子どもの自立を望まぬのか?そこが判らないのよ。そう指摘すると、「自立を望んでいますよ、当然!」という。
 
であるなら、どうして自立を阻むことばかりするのか?という方法論に及ぶと、何が自立を促進させ、何が自立を阻むか答えられない。知ってはいても我欲が優先するのか、実行しようとしない。こういうのは、「自立を望んでいない」のと同じだから口だけの親を真に受けない。子を自立させるのが教育の完遂というのも判らず、ペットとして可愛がりたい親は、子の反抗期に悩み、苦慮する。
 
イメージ 4他人の子が自立しようがすまいが基本はどうでもいいことだが、自分が子であった時の喜びとして自立の奨励はする。いいたいのは親ではなくむしろ子に対してである。相談されれば別だが、それもないのに親になどいっても「豚に真珠」よ。まぁ、子どもにはいうね〜、実際ところ構わずそこら中の子どもにいって来た。いう言葉は決まっている。とにかく「親に反抗せー!」で、大体これしかいわないし、これが何より大事だし。
 
あとは反抗のやり方を教授する。逆に反抗する子には、「しょーもない反抗なんかするな!」といっている。矛盾してるようだが、自分のいうのは「しょーもない反抗」、つまり、自我獲得のためにする本気の反抗ではなく、甘えた反抗をする子のこと。そういう子は実にしょーもない反抗をするし、それを駄々っ子という。どれだけつまらん反抗しているかを指摘してやり、恥をかかせる。
 
子どもは面白い。自由を束縛されているからか、見ていて可哀想になるし、だから励ましたくなる。いつの世も親はエゴイスト。エゴイストに止めれって止めるはずないが、どういうわけか言いなりになってる方が楽という子どももいる。ちょっと突っ込んでみると、「それでいい」=「そういうものだから」という諦めの境地だったり。「そういうものではないんだよ」といって判るか、判らないか。後は知らんよ。

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日本人と宗教

イメージ 5たまに凝り固まっているキリスト教信者と話すこともあるが、何事も聖書から答えを出すのがお決まりだ。ルカだのマルコだのマタイだの、何章の何だのと、こっちは人と会話をしたいのに、神の言葉を出してくる会話のつまらなさ。「聖書オタク」がキリスト教信者だからといえばそうなのだが、人と話をしてる気がしない。そりゃそうだろう。
 
人と話すときに、いつもいつもパスカルはこういった。ソクラテスはこういった。カントは、ニーチェは、カーネギーは、ルソーは…などど名言ばかりから答えを出されたらイヤになるだろうし、それと一緒だな。そんな奴はあまりいないが、いたら「名言オタク」だろきっと。いつぞや、名言を沢山知る名言オタク小学生が、ストックにある多くの名言をテレビで披露していた。
 
沢山の名言を知っていることがなんの自慢になり、何の役に立つのかはわからぬが、沢山知ってますよとテレビに出ていうのはバカげているという点で面白い。「困ったときのことわざ頼み」がいいと、ここに記したことがある。確かに困ったことの内容に類する慣用句やことわざを知っていると、その時点で決断したり、回避したりの契機になることがある。

名言もことわざも、生活の中で役に立ってなんぼという気がする。知識を沢山持っている人間が頭がいいのではなく、その知識を有効に活用できることが頭のよさかも知れん。知識だけをまるで宝の宝庫のように溜め込んで、何も使わないのは、資格マニアと同じ、無用の長物になり兼ねない。知識を得るってことは自分が自由になれりというメリットはある。どういう意味かといえば…
 
あることに直面して、それをクリアするためにある知識が必要であるなら、持っているものはそこで答えを出せて自由になるし、知識のなさから答えに窮することは、不自由この上ない思いをする。例えば音楽理論における並行8度の和声進行は「禁」であるとの知識があるとないとでは、作曲や編曲の上で大きな違いが出る。また逆に知識が災いして感性を退化させることもある。
 
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過去、知識が講じて、その場を潜り抜けたことも多い。知識と同様、経験を持つことも自分を自由にしてくれる。初体験と経験者とでは、行うことの自由度が全然違う。名言もそういうものだと思っている。「名言は好き。でも、名言を言おうとする人は嫌い」といったのはタモリだが、名言なんて自分の役に立てるべきものといっているのだろう。タモリはああいう人だ。知識をひけらかすことをしない。
 
ところが、宗教者が何かにつけ、神の言葉を引用するのは、それを知っているだけに、その場に即した自分自身のオリジナルな考えが沸いても、神の言葉の方が勝るから憚る。これは自分の推測である。最高のモノを知っているのに中庸なもの、凡庸なものを出すのは躊躇われるというのは判る。常に最高の答えを知っているキリスト信者は徳の高い行動を行っていることになる。
 
ならば徳の高い人を探すなら、聖書(神の言葉)を丸暗記している人なるのか?自分はそうは思わないね〜。神の御言葉を告げにくるキリスト信者は即刻帰ってもらうようにしているし、聖書を引用して会話する人間と話したいとは思わないからね〜。理由?単純につまらないから。真理なんか探してないし、あるとも思ってない。宗教の影響力は否定はしない。
 
世界中の国々をフラットに眺めてみても、宗教的な象徴性を持ってない国家ってほとんどないように思う。すべて何がしかの宗教的規範のなかに、民主国家も共産主義国家もある。簡単に滅ぼせるものでもない。中国共産党が、ダライ・ラマみたいなものはすぐにでも滅ぼせると思っていろいろやったが、武力とかで抹殺するとかでも全然すっ飛ばない。その昔には大掛かりな十字軍というのもあった。
 
イメージ 4織田信長も手を焼いた一向宗。東洋などの辺境な少数民族国家というのか、外部の流入もない地理的にも閉鎖的なところでは、過剰な信仰になりやすいし、それが辺境国家の特色だ。天皇制の持つ宗教性は、今でこそ失われつつあるが、であるなら日本の宗教的アイデンティティをどこに求める?ほとんどの国民が天皇制に興味を失ったとき。最近天皇が名言を吐いた。名言とは、心に響く言葉・優れた言葉・人間の本質や心理を捉えた言葉などのこと。台湾の駐日大使にあたる馮寄台台北駐日経済文化代表処代表は19日、東京・赤坂御苑で開かれた天皇、皇后両陛下主催の「春の園遊会」に招かれた。台湾の駐日代表が園遊会に招かれるのは、日本と台湾が1972年に断交して以来初めてのことである。
 
陛下は馮代表に対して「台湾ありがとう」と声をかけた。これはいうまでもなく、東日本大震災で台湾から寄せられた義援金約200億円に対する陛下の御礼である。天皇がいかに時事に精通しているかに驚かされもした。現台湾は中国の自治区であるが、その上での謝意だろう。まさか中華民国としての台湾との立場ではないだろう。善意を要求するわけではないが、中国はたったの70万円…。
 
GDP世界2位の国がよくも恥ずかしくないかと思いたい。韓国なんてのはさらに下劣で、地震や津波を喜ぶ動画をYouTubeに流したりと。しかし、こういった接待外交が出来るのが、皇室を持ってる強みだろう。存在意義が分からないとの輩もいるが、天皇は日本民族と日本文化の守り手なのだし。西洋文化にかぶれたとしても、守り抜くべき固有の文化こそ天皇制である。
 
ただし、天皇制の持つ宗教性が権力の道具として機能し、利用された時代の再来だけは防がねばならない。宗教権力であっても政治権力に変わりうることの懸念、天皇制が内包する怖さ、宗教の持つ怖さはそこにある。宗教性は衰退しても文化としての天皇制は消すべきではない。そういえば、「ゆかり発言」というのがあった。皇室と韓国との血縁について天皇自ら発言されたものだ。
 

発言は2001年12月23日だからもう10年も前になるが、一躍有名になった桓武天皇の母高野新笠が韓国人であったというもの。天皇はそれをあからさまには発言していないし、韓国と日本は盛んに交流があったけれども、血族とまで言い切れるのかどうなのか。が、あえて桓武天皇の例を出し、天皇家の中に韓国民族の血が混じっていると踏み込んだのは英断であり、驚かされた。
 
それを一斉に報道しない日本のメディアもらしさを感じたが、反面韓国のメディアは、二律背反のジレンマがあったように言われている。ようするに、「日本の皇帝は韓国圏の血が混じっているとはいっておきたいが、自分たちは日本人とは違うのだと、同祖論に発展するのは迷惑千万ということのようだ。朝鮮半島南端と日本に来たものは同じ人種である、したがって日本人は百済から来たということ。
 
イメージ 3くだらんのか百済なのかより、せっかくの天皇の発言であるのに、韓国側は好意的とはいえ、両国の報道の差、つまり日本のメディアは報道の価値なしと無視を決めた。韓国というお国は極めてご都合主義国家であるし、同国の民族衣装「チマチョゴリ」一つとってみても、たったの50年前のことであっても・自国の歴史観を覆してまで日本を攻撃した。それは「チマチョゴリ」の変形「乳だしチョゴリ」のことで、これが18世紀以降に朝鮮の女性の変化が起きた。この頃から「長男を生んだ女性は乳房を露出する」ことが習慣化した。当時の朝鮮の男尊女卑的な思想では「長男を生まない女性に価値はない」との考えから広まった。当時の朝鮮人の女性はこの衣装を「長男を生んで社会的義務を果たした」として誇りに思っていたのだ。
 
そのことが日本で話題になり、インターネット上で「乳出しチョゴリ」の写真が広まったときに、「こんな破廉恥な習慣は我が国にはない。中国人や日本人の捏造だ」と韓国人は言った。自国の50年前の習慣すら忘れたのか、知らないとうそぶく韓国人の歴史観が如何にいい加減で信用できないかを如実に表した発言である。朝鮮半島というのは中国の影響が大きいところだ。
 
日本とは海を隔てているから、宗教的見地で比較しても韓国と日本の差は大きい。だから血が混じっているなどは大したことではないし、我々だってみんなそうかも知れないその程度のことと考えた方がいい。桓武天皇が韓国贔屓であったこともだし、蘇我氏なども韓国出身の豪族であった。反面対立していた物部氏は神道の系等で、ネイティブな日本の豪族である。
 
イメージ 1大陸の流れを受けた蘇我氏は仏教を日本で広める画策もした。日本における神道、仏教の素地は物部氏と蘇我氏にあったようだ。以後キリスト教の伝来や中国思想が幕府の官学として取り入られたりしたが、日本人の宗教観はイザヤ・ベンダサンのいう日本教に落ち着いている。イスラム教やユダヤ教を宗教として考えるなら、の但し書きつきでならば日本人は日本教と断じている。したがって、イスラム教やユダヤ教が宗教でないなら日本教も存在しないという。あげく日本教は世界で最も強固な宗教とベンダサンはいう。ベンダサンとは山本七平のことだが、彼は1921年クリスチャンの両親の長男として東京に生まれ、16歳のときに青山学院教会で洗礼を受けている。1956年に世田谷区の自宅で聖書学を専門とする出版社、山本書店株式会社を興している。
 
1970年にイザヤ・ベンダサンの名で『日本人とユダヤ人』を山本書店より刊行した以後は、大平内閣の諮問機関「文化の時代」研究グループの議長、中曽根内閣の諮問機関「臨時教育審議会」の第一部会専門委員などを歴任、1991年膵臓癌で死去、遺骨の一部はイスラエルで散骨された。山本はユニークな発想と辛辣さも備えた社会学者としての定評も捨てられない。
 
エピソードも多く、臨教審委員の会合が終わった後のインタビューで、「もちろん制限はあると思います。国が教育をするわけじゃないですから」と答えたのは、教育の主体は親と暗にいい、外国人を相手の講演会で、「日本家庭において女性の地位が低いのはなぜ?」の質問には、「皆さんの国で、亭主が自分の給料を全て妻に渡す国がどれくらいあるか」と反論したという。
 
山本に我々は「日本人は日本教」なる薀蓄を教わった。諸外国でいわれる「日本人は無宗教」に対する「日本教」なる言い方は、「本当に無宗教ならどの宗教にもすぐに染まるはずであるであるから、日本人には列記とした日本教がある」との考えには肯かされた。そして山本は、「日本教の中心にあるものは、『神』の概念ではなく、『人間』という概念である」と結ぶ。以下が日本教の『創世期』という。
 
「"人の世"を創ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った"人の世"が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば"人でなし"の国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 
イメージ 2越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊い。」
 
「日本教」信者として耳にすれば、ただ「御意」の如く也。
 

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Robin Gibb passes away

 
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Sunday 20 May, 2012 at 10:46
 
訃報が飛び込んできた。ビージーズのロビン・ギブである。自分の洋楽履歴の中で最も大きなウェイトを占めるのがBeatles、Beach boys、Bee Gees3Bと掲げておく。3Bを時々の気分で聴いていたが、後年はビージーズがほとんどで、次にビーチ・ボーイズ、ビートルズをほとんど聴かなかったのは、聴き飽きたってこと。だからビートルズを聴くときは懐かしさに浸りたい心境のときかも。
 
音楽が人に安らぎを与えるものなら、ビージーズの美しいハーモニーはうってつけ、ハーモニーは西洋音楽の真髄である。そんな彼らの作品の中でも最高に位置するのが、「How Deep Is Your Love」 で、奇跡的に美しい。この曲の持つエッセンスは沢山あるが、タン・タ・タンのシンプルなリズムパターンに、彼らの特徴である高域のファルセットとモーリスの低音の厚みのバランス。
 
 
彼の低域の響きがなかったらこの曲には土台抜きの突貫工事みたいな味気ない作品。ブリティッシュ・サウンドに圧され、一時期行き場を見失ったビージーズが再び息吹をもって返り咲いたのはディスコ・ミュージックだった。この曲は映画『サタディーナイト・フィーバー』の挿入曲であり、映画はジョン・トラボルタを有名にしたと同時に、ビージーズの新たな方向性を示した貴重な作品となる。
 
ディスコ・サウンドが一世を風靡するなかで最も売れたのがビージーズの一連の楽曲。そういえば18日には、ディスコの女王といわれたドナ・サマーの死去が報じられた。彼女の厚い声量は生で聴くとハリケーン並の迫力があったろう。ドナは肺ガン、ロビンは大腸ガン〜肝臓ガンで、63歳と62歳という年齢は惜しまれる年齢だ。最高の医療を以ってしても人間はガンを克服できない。
 
デビュー当時のドナはスタイル抜群の痩身系で黒人にしては美貌も売りと思われる。日本のボンドガール浜三枝に似てると思ったが、今でいうならマライヤ・キャリータイプの大柄女で、経年とともに腰周りの肉付きが増し、やはりというか、電柱体型になる。人年とれば、美貌より歌の力という訳でもないだろうが、米国人女性のふとっちょ志向が目立つ気がする。
 
イメージ 3先般亡くなったホイットニー・ヒューストン、またリンダ・ロンシュタットも皮下脂肪のおばさん体型。男だって負けてない。エルトン・ジョンやビリー・ジョエル、デビッド・クロスビー、沢田研二などはメタボミュージシャンの代表か。ネットにこんな質問があった。「自分、太ってるんすけ どギタリストにな れますか?」と。ギタリストにデブもガリもチビもない上手けりゃなれる。ロック・ギタリストは痩せてなきゃいけないって、ロリー・ギャラガーもゲイリー・ムーアも誰も言ってないぞ。指が5本あるのが条件だ。先天性奇形で4本でも練習で弾ける。6本指がお得かどうかワカラン。独自のTAB譜編み出せ。とにかくドナ、ロビンよ安らかに。
 
ビージーズはモーリス、ロビンが逝き、メンバーではないが末弟アンディも早逝した。長兄のバリーだけになったが、同じような境遇はビーチ・ボーイズにもいえる。長兄ブライアン・ウィルソンだけを残し、デニスは39歳で泥酔の上ヨットから海に飛び込んでの事故死、カールは肺ガンにて51歳の若さで逝ってしまった。何事も順送りには行かないし、どちらも長兄が存命。
 
ビーチ・ボーイズはブライアン抜きにはあり得ず、デニスの下手くそドラムやカールの素人並のギターワークが売り(?)だったが、二人とも徐々に実力をつけてきたことが彼等をメジャーに押し上げた。ビートルズのジョージ・ハリスンも当初は聴くに耐えないギターで、ジョンやポールにバカにされながらもそこそこやってきたが、I Feel FineGet Backのリフやソロはジョンが弾いたりと。
 
映画『レット・イット・ビー』の屋上でのGet Back演奏シーンでは、ジョンの弾くリードにジョージのしらけた雰囲気が読み取れるが、「あれはジョンがクラプトンに影響されてやった」とジョージがインタビューで答えている。ジョンのリードは他にもYou Can't Do That、Roll Over Beethovenなどがある。自分の考えではリフ考案者がリードを取ると感じていた。
 
 
普段はリードのジョージがリフを考えるが、作曲者のジョンが「この曲のリフはワシが考えるから、お前は作らんでよかばい」といったりと、作ったリフをジョージに教えるのも、教えられるのもメンドイし、「あんた、自分で弾いたらええやないか」とジョージも言いたくもなる。とは想像だが、どうやらHelp辺りから3人の定位置がなくなったようだ。
 
アルバム『Help』のAnother girlのリードはポール。「ジョージちゃん、この曲はワシがやるけん」といったのだろう。ジョージのフラストレーションはこの頃がピーク、そんなにワシのギターが気に入らないならと、友人のクラプトンをスタジオに招いてWhile My Guitar Gently Weepsのリードを弾かせた。ジョンもポールも反対することなく、「さすがやね〜クラちゃん」といったとか?
 
詳細は次のようだ。ジョージがこの曲の特徴であるギターの「泣き」を表現しようとしたがうまく出来ず、クラプトンに依頼したのは、当時のグループの雰囲気の悪さを緩和するための配慮でもあったともいわれている。実際、クラプトンがスタジオに姿を現すと、「それまで不機嫌だったジョンとポールが急によそいきの態度に変わったんだ」とジョージは後年述べている。
 
険悪とミュージシャンは切っても切れない。元々個性の強い者同士が作品を生むときや、バンドの方向性や、メンバーの作った曲が駄作と判ってても、レコーディングしなければならぬときや、特にデュオバンドなどで相手の作る楽曲への不満などから苛立ちもある。中〜高の仲良し同級生だったオフコースの小田和正と鈴木康博の場合も小田の曲が秀逸だ。
 
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個人的な感想だが鈴木の作る曲は駄作で、小田に苛立ちがあったとしても可笑しくない。「こんな凡才とはやってられん」と思うのは、自賛意識というより、率直な視点かも知れん。ビートルズのジョージの場合はジョンとポール以上に出来のいい名曲もあるし、ジョージが凡才というのでは決してないが、控えめな彼はNowhere Manであり過ぎたのだろう。
 
ビージーズのバリーとロビンの凄まじい兄弟喧嘩もあった。忍耐強くて寛容といわれる兄のバリーも、「いまさらロビンなんかとやれるか!」と相当怒っていたらしい。Wordsという楽曲はバリーとロビンが言葉の行き違いを経験した直後に書かれた曲。それが「Words(言葉)」であるのは、つまりはコミュニケーションの大切さを実感したのだろうか。
 
グループにヴォーカルが二人いるといろいろ問題が起こる。楽曲をどちらが歌うかでもめ、我慢したり、良い曲でもヒットしなかったりすると、「オレが歌えばヒットしたのに」と腹で思ったりは相手には伝わるもの。結局バリーとロビンの喧嘩もキャリア争いから起こったものだ。寛大な兄とやんちゃな弟の構図が堰を切ったのだろう。
 
証言によると、1969年、ロビンの曲「Lamplight」がバリーの曲「若葉のころ」(First of May) のB面に追いやられたことに憤ったロビンは、ビージーズを去ってソロ・キャリアをスタートさせる。1970年の春に残ったバリーとモーリス二人はシングル「I・O・I・O」、アルバム『キューカンバー・キャッスル』を出すが、発売直後に兄弟喧嘩をしてとうとう空中分解した。
 
その後にそれぞれはソロ・シングルを発表するも芳しい結果は出せず、やはり三本の矢の結束あってのビージーズを実感したのだろう。同年9月にバリー、ロビン、モーリスの3人は改めてビージーズとして再出発することを誓う。「雨降って地固まる」というが、その後は然したるトラブルもなく、ビージーズは2003年のモーリスの死までトップアーチストにあった。
 
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美しいハーモニーは兄弟ゆえの声の同質性で、何よりもガキ時代からの息のあったタイミングが培われていた。基本や素地が出来てるから、ギター一本だけで秀逸なハーモニーを披露してくれるし、どこぞの生意気な歌手ではないが、オーケストラのバックでなきゃ歌いたくないという自信のなさと箔がちがう。ビーチ・ボーイズのアカペラも抜群だった。
 
存命の両Bにはファルセット歌唱という共通点もあるし、いっそB&Bで組めばいい。ブライアン・ウィルソン(Brian Douglas Wilson、1942年6月20日 - )、バリー・ギブ(Barry Gibb1946年9月1日-)、とファーストネイムもともにB。そういえばビージーズが1997年にロックの殿堂入りを果たした時のプレゼンターがブライアンだった。
 
「自分はもうビーチ・ボーイズじゃない。ビーチ・ボーイズはマイクだ」。ブライアンは一人になって以後もビーチ・ボーイズの楽曲を中心に活動しているが、かつての自分のパートである美しいファルセットはバックの若いもんに任せ、舞台の真ん中で若旦那気取りでメロディーラインだけを歌う。そんなぎこちないブライアンが愛おしい。彼は絵に描いたような純粋な人に見える。
 
実はロビンもモーリス亡き後、ソロで各地を回ってライブを行っている。2004年に発売されたアルバムは同年西ドイツで行われたライブを集録したもので、自分のソロ以外のビージーズの楽曲もセレクトされ、兄バリーの歌とは一線を描くしてオロジナリティーに溢れている。ビージーズといえばハーモニーが商売道具。なら、兄バリーのあのハーモニーは誰が?
 
イメージ 1
 
ロビンは終止地声で歌っている。「ワシが歌うとバリーの曲はこうなるのじゃ!」、といわんばかりに自信に満ちた歌いっぷりが伝わってくる。ブライアンのライブ同様にバリーのパートは他の者にやらせている。これもビージーズか?ロビンのソロではまるで違って聴こえるビージーズ。これはロビン・ギブそのものだ。収録曲は以下参照。
 
 Night Fever ('78)
 I've Gotta Get A Message To You ('68)
 How Deep Is Your Love ('77)
 Nights on Broadway ('75)
 Love Hurts
 (The Lights Went Out In) Massachusetts ('67)
 My Lover's Prayer ('97/'04)
 New York Mining Disaster 1941 (Have You Seen My Wife, Mr. Jones) ('67)
 Please ('03)
 Saved By The Bell ('69)
 To Love Somebody ('67)
 Words ('68)
 You Win Again ('87)
 Juliet ('83)
 Tragedy ('79)
 Jive Talkin ('75)
 Stayin' Alive ('78)
 
同世代の人たちがどんどこどんどこ消えていく。新聞の死亡記事欄が気になりだしたら老年だと誰かがいった。偉大なるドイツ3Bとはクラシックでは、バッハ、ベートーベン、ブラームスだが、偉大なるロック3Bのメンバーも10人がこの世から消え、ブライアン、バリー、リンゴ、ポールの残る4人。与えられた生を、残された生をともに生きたいものだ。みんないつかは消えていく。了解!

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