ミカドの肖像
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世界最大級の墳墓で、宮内庁が仁徳天皇陵に指定している堺市の大山古墳で8日、仁徳天皇の没後1613回目の命日祭「正辰祭」が行われた。これは皇室が祖先を慰霊する私的祭祀の一つ。全国の天皇陵や陵墓参考地など、約600カ所でそれぞれ年に1度行われているが、国民の目に触れる機会はほとんどなかった。
宮内庁は今回、共同通信に対し、メディアとして初めて取材と撮影を許可した。堺市などが大山古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録を目指し、同庁に陵墓の情報公開を望む声が高まる中、天皇陵での祭祀の実態を知る貴重な機会として関心を集めそうだ。仁徳天皇陵は3重の堀と堤に囲まれており、正辰祭は一般の人が立ち入れない最も内側の堤上にある拝所で行われた。
午前10時、同庁書陵部古市陵墓監区事務所の職員や地元関係者ら12人が手を清めた後、堀にある橋を渡り、巨大な墳丘の前方部を臨む拝所へ。鳥居の前に設けられた台に供物の米、酒、海の幸のするめ、山の幸のリンゴとミカンと大根、塩、水を載せた五つの三方を職員が一つ一つ丁寧にささげ、参列者全員が拝礼。職員らは終始無言で、静寂が包む中、儀式は約20分で終了した。
同庁によると、供物費は皇室の私的経費である内廷費から支出される。古代の天皇の命日は文献の没年月日を当時の太陰太陽暦から現在の太陽暦に換算。仁徳天皇は2月8日に当たるという。学界には仁徳天皇を古代中国の史書「宋書」に記された「倭の五王」の1人とみる説や、父の応神天皇と同一人物とする説があり、墳丘の年代や被葬者像をめぐって議論が続いている。
堺市にある仁徳天皇陵の古墳としての正式名は、大仙陵古墳とも、大仙古墳とも、大山古墳ともいわれているが、一つに決められない理由として、この古墳名は実は学術的用語として流動的に用いられてるからだ。自分たちが小・中・高と習ったときには、大仙陵も大仙も大山もそういう名は一度も聞いたことがなく、すべては「仁徳天皇陵」であった。 つまり1970年以前には、明治時代以降つけられた「仁徳天皇陵」という名称を使ってしたが、考古学研究者の中から「仁徳天皇陵」という古墳に入っている人が、本当に仁徳天皇かどうか分からないにもかかわらず、仁徳天皇と呼んでしまうと誤解を生んでしまうので、「仁徳陵」と呼ばずに「仁徳陵古墳」と呼ぼうとの提案があった。
さらに1976年には、ふつうの遺跡の命名法で、もともと呼ばれていた地名をとって「大山古墳」にしようという呼びかけがあった。この間、若干のタイムラグをおいて教科書の用語表記は追従し、変化しているが最近では、「大仙古墳」 「大仙陵古墳」という名称になりつつある。この30年の間に同一の古墳の名称が教科書の上で、3度も名前を変えることになっているのはこういう理由である。
内容がそれほど変わらないと思われがちの歴史教科書でも、10年ごとに大きく変わっている。「大仙古墳」の名は今の小学生の教科書にあるが、1970年代前半までに学校教育を受けた者には耳慣れないどころか初耳名称である。そうした人々に配慮するため、飛鳥博物館の展示では仁徳陵というという名を残してはいる。
が、あくまで古墳は仁徳天皇の墓ではなく、現在、宮内庁において「仁徳天皇陵」として管理されているところの古墳という意味で、「仁徳陵古墳」の名を使うというややこしい配慮を続けている。さらに紛らわしいのは、「前方後円墳」という名称にある。この古墳名称は学校で歴史を習ったものなら誰でも知っているし、歴史が嫌いでない者は形も浮かぶはず。
この「仁徳陵古墳」も前方後円墳の代表的なもので、始めてその言葉を聞いたとき、その言葉からして、方形が前で、円形が後方なのだろうと、読んで字の如く誰でもそう思ったはずだ。はずであるけれども、釈然としない理由は、あらゆる写真を見る限りにおいて、必ず円形が上に、方形が下になって、それが何の違和感もないバランスを保っている。
いかにバランスが良くても、カメラアングルでは必ず円形を上に撮ろうとも、前に方、後ろに円という名前は変えようがない。当時の人も、方が前で、円が後ろであるとちゃんと意識して造ったのだろうか?それとは別に「前方後円墳」という名は飛鳥時代にそう呼ばれていたのだろうか?法隆寺は当時から法隆寺だが、「前方後円墳」という名は存在したのか?
それらの疑問と、一般的な写真の撮り方にはどうしても「前円後方墳」である。釈然としないでいたが謎は簡単に解けた。理由はこうだ。そもそもこの形の古墳に「前方後円墳」という名前をつけたのは江戸時代の蒲生君平という学者であった。彼は古墳研究の書物『山稜志』の中で、円と長方形を組み合わせた形は、牛車の本体を円形に、車を引く二本の棒(=轅)を方形に見立てた。
「前方」という紛らわしい言葉を省き、「円と方形墳」にすべし。古い名称で今更変えるわけに行かないなら、せめて名の由来くらい教科書にあってしかるべきだ。それとも、「『前方後円墳』というけど、前も後ろもないよ、みんな誤解しないように」と教える教師がいてもいい。自分の当時の先生は知ってか知らずか教えてくれなかった。だから悩んでいたのだ…。
仁徳天皇は天皇家の系譜第16代にあたり、在位:仁徳天皇元年1月3日(313年2月14日) - 同87年1月16日(399年2月7日)となっている。いろんな天皇が存在したが、いろんな天皇がいた程度にしか知識はない。先陣を切って戦にでたり、島流しにあったり、愛人を囲った女帝もいたり、平氏(桓武)や源氏(清和)の始祖など歴史に名を残す天皇も多く、天皇を調べると天皇オタクになるほどに面白い。
皇室には謎も多く、万世一系説についても継体天皇の問題が覆いかぶさる。古事記には武烈天皇の死後世継ぎがなく、応神天皇の五世である継体天皇を近江から招いて、手白髪命と結婚させ皇位につかせた。応神天皇の五世である継体天皇は、伊波礼の玉穂宮で天下を治めたというものだ。
斯くのように男系皇統の断絶に対しては、継体天皇の継承という歴史上明確に認知された先例が存在している以上、継体天皇の継承方式を検討するのも一案と思うが、仮に皇室典範を改正し、愛子内親王に皇位継承権を与えても、女帝が配偶者を迎えた前例は日本史にない。日本の伝統は前例なきことはむやみにやらないことである。
敬宮愛子内親王の即位に反対する理由は特にはないが、それでは入り婿、婿養子方式もまた皇室典範改正で必要になるが、それは事務的なものだからいいが婿養子をもらって嫡男が誕生した時にそこに皇位継承となるのか、どうなるのか?愛子内親王即位の決定的な問題は、その次を誰にするかである。
以上、仁徳天皇から敬宮愛子内親王にまつわる戯言となりました。お後が宜しいようで。 |

