
李賀(791〜817)は昌谷の人、字長吉、、李賀は27才の短い生涯を燃焼し尽して幽鬼の世界え消えて入った。晩唐の詩人、「鬼才」と呼ばれる。この言葉は、幽霊や妖怪など超自然の事物によって、鬼気迫る神秘な雰囲気をかもし出す異常感覚者をさす。鬼才の語は宋代の随筆集「南部新書」に「李白を天才絶となす、白居易を人才絶となす、李賀を鬼才絶となす」と記されている。李白・杜甫より一時代あとの中唐の詩人ですが、李白の天才に対して、鬼才と呼ばれました。すなわち、李白が天上より舞い下りてきて明るく華やかな詩を作ったのに対して、李賀は地下から這い上がってきて、暗い幻想の世界を歌いました。中国で鬼才と言えば李賀ただ一人を指す言葉だそうです。彼は若くして韓愈に認められますが、父親の名前を理由に進士の受験を拒否されます。進士及第は高級官僚への第一歩です。なにせ儒教に縛られ、士大夫の家に生まれたからは、官僚となって出世するという単一の価値観しかない世界ですから、官途を阻まれた彼の絶望は想像に余るものだったでしょう。結局、失意のうちに27歳で夭折します。
長安有男兒 長安に男児有り
二十心已朽 二十にして心已に朽ちたり
楞伽堆案前 楞伽 案前に堆く
楚辭繋肘後 楚辞 肘後に繋る
人生有窮拙 人生 窮拙有り
日暮聊飲酒 日暮 聊か酒を飲む
祗今道已塞 祗今 道已に塞がる
何必須白首 何ぞ必ずしも白首を須たん
これは李賀が、韓愈のもとで同門であった陳商に贈った、三十四行の詩の冒頭の部分である。陳商はまだ無官であり、李賀は奉礼郎という、従九品の微職についていた。この詩は元和七年(八一二)の作と推定されているから、李賀二十二歳のときの作品ということになる。二十にして心已に朽ちたりとは李賀自身のことにほかならない。じつは引用した部分のすぐつぎに、「淒淒たり陳述聖」と、贈る相手の陳商のことに言及しはじめる。
中国禅の基本となった『楞伽経』を机に積み上げ、屈原の『楚辞』をすぐそばに置く。心が朽ち果てた若者は、人生の窮拙(挫折)を知り、夕方から酒を飲んでいる。まだ若いのに彼の前途はふさがっていて、人生の悲哀をかんじるのに、白髪頭になるのを待つ必要はない。……
彼の詩は病的といわれることもある。すくなくとも健康な響きはない。彼自身二十七歳という若さで死んだ。青白い顔をした痩せた青年は、人生を駆け抜けた。人びとは、彼を鬼才と呼んだ。中国語の「鬼」は亡霊のことである。
―酒客背寒く 南山死す
―彭祖、巫咸 幾回か死せる
―黄河氷合して魚竜死す
―誰か知らん死草華風に生ずるを
―青狸 血に哭し 寒狐死す
思いつくまま拾いあげてもこの通りで、彼には死、あるいは死の周辺をテーマにした作品が多い。
どんな悲哀も、現世を肯定したうえでうたうのが、中国文学の伝統である。李賀の詩はその線からはずれている。彼がうたおうとしているのは、はたしてうつし世なのか?「鬼」の世界ではあるまいか。人びとはそうおもい、彼に鬼才という呼び名を与えたのだ。
李白は天才の絶、白居易は人才の絶、李賀は鬼才の絶。
これは唐の代表的な詩人を評した有名なことばである。
リアリズムを本流とする中国の詩文にあって、李賀はあまりにも幻想的でありすぎた。
遙望斉州九點煙 遥かに斉州を望めば九点の煙
一泓海水杯中瀉 一泓の海水 杯中に瀉ぐ
これは「夢天」と題する詩の結びだが、はるかに斉州(すべての州、全中国)を見おろせば、九つの州は九点の煙(もや)であり、清らかな海水は、杯のなかにそそがれる。……天を夢見たのではなく、天にのぼって夢みたのだ。視線を思いきり転倒させた発想から彼の詩はうまれる。大海原を杯の水とみるのは奇想である。
李賀の詩に色彩があざやかなことも定評がある。たとえば、「南山田中行」と題する詩は、「秋野明るく 秋風白し」ではじまる。芭蕉の、
―石山の石より白し秋の風
は、李賀のこの句を踏まえたとする説がある。この詩にはほかに、「冷紅露に泣き啼色嬌なり」の句がある。咲く花のちめたい赤さが露に泣きぬれ、その風情からうまれた「色」が、またなまめかしいという。この詩の「鬼灯漆の如く松花を照らす」は、まさに、鬼気迫るものがある。
―椒花 紅を墜す湿雲の間
―恨血千年 土中の碧
といった、どきりとする表現もある。罪なくして死んだ人の血は、地中に三年すると「碧」に変わるという話が、『呂氏春秋』にみえる。この詩には、ルビーとエメラルドがちりべめられているといってよい。
李賀は中国の文学がもたなかったものを豊かにもっていて、彼は短い人生を駆け抜けながら、それをすべてわれわれに伝えてくれた。
譚嗣同、魯迅、毛沢東。―こうならべたのは革命的人物の名であるが、じつは李賀愛好者のリストの一部なのだ。毛沢東の「浣渓沙」のなかの有名な「一唱雄鶏天下白」は、李賀の「雄鶏一聲天下白」を言かえたものだ。
唯美的あるいは耽美的なにおいのする李賀の詩が、なぜ革命家に愛されたのか。李商隠の『李賀小伝』によれば、彼は態度が不遜なため、しばしば他人から排斥されたという。病身であったが、おそらく彼はおそるべき知的エネルギーをひめていたのである。それは革命の起爆剤でもありえた。後世の彼のファンは、それを惜しんだのであろう。
李賀の詩人としての人生は一人旅であった。「将に発たんとす」と題する詩にいう。
東牀卷席罷 東牀 席を巻いて罷め
護落將行去 落 将に行き去らんとす
秋白遙遙空 秋白く 遥々たる空
日滿門前路 日は満つ門前の路
稀有の鬼才李賀は、元和十二年(八一七)郷里で母にみとられ、短い生涯を閉じた。
りしょういん ―しやういん 【李商隠】
(813-858) 中国、晩唐の詩人。字(あざな)は義山、号は玉谿生(ぎよくけいせい)。杜牧・温庭筠(おんていいん)と併称され、その華麗な詩風は宋代の西崑(せいこん)体の流行を導いた。著「李義山詩集」「樊南(はんなん)文集」
|
ども、たいちろ〜と申します
花と本のブログというのをやっておりまして、桜庭一樹の”ファミリーポートレイト”のテーマで本ブログを参考にさせていただきました。
ありがとうございました
ご興味がありましたら、ご一読ください
http://taichiroo.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-164b.html
2009/7/5(日) 午前 5:50 [ たいちろ〜 ]