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嶺南画派の創始人--高剣父
◆ 高剣父((1879〜1951) 、広東番禺人。中国画の巨匠、嶺南画派の創始人。早年は画家巨廉に師事した。1906年日本の東京美術学院に留学し、孫文、廖仲恺など革命先駆と知り合った。のちに革命組織中国同盟会に加入し、8年間広東同盟会会長を任職した。1924年広州に春睡画院を創設した。仏山美術学院院長、中山大学、南京中央大学の教授を任職した。日中戦争時期にマカオに移住し、抗日戦争勝利した広州に戻り、1951年マカオの病院に死去しました。
◆ 中国日華(中日)絵画連合展覧会について
中国の現代水墨画は、20世紀初めに、水墨画の革新を唱えた一群の知識人と芸術家たちによって、本格的に始まった。高剣父、徐悲鴻、林風眠などの画家たちは、洋画の造形観念についての理解をもとに、水墨画の現代的な再解釈をつくりあげた。
1950年代以降は、日常生活を反映する時代性がにじみ出た作品が登場した。1980年代は、対外開放政策が始まって、変化した社会現実と新たに流入した文化の影響で、中国現代水墨画に大きな変革が訪れた。
中国の伝統的なテクニックよりも、西洋の思潮を受け入れたスタイルの変容や、イメージを強調した現代化で勝負をかけていることがうかがえる。
1920年代、つまり日本の大正10年から昭和4年にかけては、20世紀において日本・中国間の美術交流がもっとも盛んな時期であった。それを代表するのが上海における石野哲弘による「中日美術協会」の設立と同協会による「中日連合美術展覧会」の開催、および「中日美術会館」建設計画、大村西崖、呉昌碩、王一亭などによって日中両国の美術交流の場として建設された「西湖有美書画社」、大村西崖による、当代中国絵画と画家略伝を編集した『禹域今画録』の刊行、渡辺晨畝と荒木十畝傍の発案で1921年から1929年まで5回にわたって中国と東京で交互に開催された「日華(中日)絵画連合展覧会」、さらに第4回日華絵画連合展覧会の準備の過程で、以後、同展覧会を拡大して日中ともに二都市で開催すること、および北京に「東洋美術研究室」を開設する拡充案がでてきて、それをきっかけに1926年に設立された「東方絵画協会」である。
「中日美術協会」は雑誌『中日美術』を刊行し、評議員、特別会員に中国では康有為、張継、鄭孝胥、王一亭、劉海粟、鄭錦、高剣父など、日本では正木直彦、伊集院彦吉、犬養毅、渋沢栄一、団琢磨、山本悌二郎、高村光雲、岡田三郎助、藤島武二、堂本印象など政財界および美術界の知名士多数を擁して、一時は盛んな活動をした。
5回にわたった「日華絵画連合展覧会」は、日中両国の当代絵画を双方に紹介した最初の展覧会であった。しかし、今日ではそれらの団体、展覧会が存在したこともほとんど忘れられている。
巨匠たちの代表作が数多いです。
とりわけ呉昌碩の「花」は清廉高潔で,
独特な風格を持ち、齊白石の「貝葉草虫」は生き生きとした香気
を放ち、生気溌剌とした印象を与えています。
張大千の「松下高士」は超脱した筆使いを持ち、
構図は簡潔にして神韻妙妙,
徐悲鴻の「馬」は剛健で力強く、
絶妙なバランスを保ち、
傅抱石の「山水」の構図は豊満で、
力強い筆使いが印象的な作品です。
高剣父と潘天寿の晩年の大作「鷹」は絶品と称賛されており、
林風眠の水彩「仕女」は線条が滑らかに走り、
墨色が穏やかさをおび、
民族文化の気品を存分に表現した作品となっています。
◆清末/中華民国時期の絵画
歴史情報論領域--中村哲夫
清代の末になると、すでに西欧絵画の情報に親しみ、欧米文化の知識をもつ中国伝統人が登場してきた。詩の世界では、漫然と伝統を守るだけの世界はしだいに解体されてきた。しかし、絵画に関するかぎりは、西欧絵画に接しても大きな変化はなく、むしろ中華伝統の優位性が逆に強く意識された。中国の西欧文化輸入の窓口である上海において、西洋文化と対抗するように「海上派」の作家が台頭してくるのである。その中心人物は、任頤(ジンイ)・字は伯年(1840-1896)画像記号:jinyi.jpg、呉俊卿・字は昌碩(ゴショウセキ)(1884-1927)画像記号:gosyoseki.jpgである。任伯年は、上海で活躍した。人物、山水のほか、花鳥の方面においても、のびやかな表現を開拓し、格式にこだわる花鳥画家を尻目に新たなる風格を築く。呉昌碩は、日本でもよく知られた文化人である。花鳥技法に新風を開いたとされる。
これら二人の先駆者のもと、伝統の革新者、斉白石(セイハクセキ)、潘天寿、そして石濤(セキトウ)がうまれる。西欧水彩絵の具の透明感の高さと、色の輝度の高さを取り込み、「墨に五彩あり」とする墨色のみの画風を退け、中華を体に、西欧を用とする思想界の傾向を絵画においても実現する。なお、中華を体に、西欧を用とする思想界の傾向を体用とし、中国美術史学の体系化にとりくみ、中国美術と西欧との交流を促進した人物として、余紹宋(ヨショウソウ)の功績も忘れることはできない。また、日本と親しい関係を保った王震の文化活動も注目される。しかし、日本では、清末には、絵画史に大きな革新はないとする評価で定着している。例えば、次のような意見がある。
「内治外交上種々の困難に逢会した清朝末期は,宋,元,明各朝の末期とはかなり社会の様相を異にしていた。ことに太平天国によって中南支の各地が荒廃に瀕してからは,画家の都市集中は甚しくなり,彼等は上海,北京等に住んで画を売って生活せざるを得なかった。彼等が一面ではある程度の文人的教養を積みながら、画家としては職業化せざるを得なかったのは,このような社会的条件にもよるところが大であったともいえる。彼等には新しい杜会情勢に対応し,これに同調して行くだけの心がまえがなかったので古画(南北画を問わず)の構図や表現形式をかり、伝統的南画技法を用いて作画するという陳腐さを繰返すだけであり,新しい様式の発見も展開もついに見ることはできなかった。花鳥画,人物画にせよ、呉派の南画にしても筆技の暢達な画人はあっても,個性のにじみ出た,独自の画風、強烈な印象を画面に溢れさせる作画はついにできなかったのである(「東洋美術史要説」下巻、173頁)」。
ところが、中国では、上海を中心に活躍した「海上派」の作家への評価は高い。例えば、最近の著書に以下のような評価がみられる。
「清末には、資産階級の改良思想の影響下で一部の画家は鋭意に開拓し、大胆に革新し、嘉慶、道光以来の画壇の相対的な衰退局面を打破し、趙之謙、任伯年、虚谷、呉昌碩などを代表とする「海上画派」が出現した。彼らは、師匠との師弟関係の系譜はばらばらであり、芸術感覚も各自に異なるけれども、しかし、すべて中国の伝統絵画を改革し、新たなものを樹立しようとする共通の芸術志向を掲げていた(王克文「中国絵画」上海古籍出版社、1995年、141頁)」。
清末いらいの中国人の創造の努力を否定することは、日本人「侵略肯定史観」と厳しく批判を浴びせられても反論しにくいのである。余紹宋は、抗日精神の根底を中国絵画の精神に見出し、近代的な中国絵画の学術研究の道を開拓したのである。また、「中国美術簡史」によると、嶺南画派も注目されるところである。高剣父(1879-1951)は、1905年日本に留学、西洋画法を学びつつある日本画を学び、中国画の伝統革新をめざす。同時に、中国同盟会に入会し、同盟会の広東方面の活動の中心に位置する。陳樹人は、1906年に日本に留学、京都美術学校に学び、さらに立教大学で学を修め、やはり、中国同盟会に入会。帰国後、革命運動に参加しながら、高剣父、高奇峰(1888-1933)や、さらに何香凝とも交わり広東系による嶺南画派を形成する。
近年、やはり日本留学の経験のある近代・現代の大家である徐悲鴻の研究が、進展している。
絵画史から人間文化学を案内したのには、筆者には、明確な意図があるる。過去の歴史学では、歴史の事実の考証という技術に全てが帰結する。どんな方法論によろうとも、後世からは、作為的に史実を偽造できない。この点は、どんな歴史理論でも動かない。ところが、どのような史実を改めて検証するかとなると、そこに選択の眼が作用する。そんなくだらないこと調べて何になる、という批判は、互いに覚悟しなくてはならない。ところが、日本文化のルーツを探すという命題は、われわれ日本人には、かなり普遍的な関心事である。誰も無意味とは、言いだしにくい。これを比較的に広い「知の広場」と名づける。その広場で作業を公開し、さまざまな角度から日本文化を分析すると、我々の「美」意識は、古代中国からの渡来文化であるよりも、北宋、南宋の文化(それが元時代に日本に渡来したものとしても)、両宋の文化が日本文化の起源にあることが、この講義で確かめられたと思う。
なぜ、まず我々の「美」意識の起源を探索したのか。それは、歴史学も究極は文化のひとつの形態であることによる。すると、この「美」意識は、より深く、僕らの価値判断の基準をなしていることがわかる。この「美」意識を基準に、ものを見たり、見過ごしたりしていることが自覚される。
日本人は、古い中国は日本文化の師匠と仰ぐ。しかし、明治以後は中国をさげすみ、卑しめてきた。古い中国を尊重し、新しい中国を蔑視する、この態度は絵画史の評価においても共通する。つまり、歴史観という無意識な意識作用が、真実を見えにくいものにしていることがわかる。
そこで、歴史観という無意識な意識作用を革新するため、あらためて、中国絵画の精神を参考にしよう。
中国絵画の写意主義とは、対象に外から光りをあてるのではなく、逆に、対象の内面の生命と描く者との生命の相互の交感、そこから発し、対象の内に沈潜している光りを外に挽き出す、そういうたぐいの美学であることがつかめる。
このことが解れば、人間文化学科における方法論は、人間の本性に潜む深い命の現象との親密な対話である、と定義できる。幸い、画家たちは、言葉それ以上に絵画という可視の作品を残してくれている。これを手がかりに、絵画を描きのこさなかったけれども、何かの渾身の行為の痕跡を歴史に残してくれた人物の、その内面から光りをそとに照らす生命の交感を試みて欲しいのである。諸君が人類未踏の自己の人生を設計する前に、先人という形の生命体に触れるのも悪いことではないと確信する。なぜなら、そうすることで、死も新たな始りへと転ずることが、あるいは、もしかして不可能とは言いきれないからである。
1、 高剣父の書道--当以大自然為師。
2、 海鷹
3、 鷹
4、 ビワ
5、 蓮花
6、 南瓜
7、 秋灯
8、 秋山行旅
9、 藤の花
10、 椰雨
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