ついに65歳になる

 28日が来ると65になる 65という年齢はどうも特別な年齢であるらしい
特別とは言い方を変えると いわゆるお年寄りの仲間入りである 公共の建物 美術館や博物館が無料で入れるのだ 今まで一般だと千円だったものが無料である
喜ぶ気持ちも有るが ああ俺も年寄りの仲間入りになってしまったのだ そんな感慨もある それにしてもこの団塊の世代 今の厳しい現状を見ると それでも豊かな時代を生きてきたということになるのか 一応家族も持ち 孫も出来た 狭い庭だがそれでも一戸建て 幸い借金も無い 日本一周 分割でだが 70までには実現させたいと 軽自動車での車中泊の旅でだが そういう楽しみもある それにしてもこの歳になると 同じ年齢で全く違った人生を歩いている奴多いのだが 時々何処から変わっていったのかと考える 野田総理だって多分同年代なのだろうな 一方は総理大臣で俺は-------まあ、比べることも無いのだが そんな変貌だがそれでも5,6歳のころは同じような餓鬼だったはずである タコはそういうことを考えるのが好きだ 何処から俺の人生は変わってしまったのか 俺の人生は生まれたときからこういう生き方をすることが運命付けられていたのか まあ今更そんなことをとやかく言っても これからの人生何も変わらないのだが しかし その経験から 可愛い孫の人生を俺よりももっともっと輝かしいものにしてやりたいと思うのである そのために自分の人生を振り返る 俺の人生間違えたからではない 選択の問題である とまあ ああでもない こうでもなかった 何てつらつら思うのである 
そういうことで何が一番大切かというと 志だと思うのである 志 タコはこの志というものが全く無かったのである 友達なんか見ていると 皆それなりに志というものをもっているのである タコが今でも強烈に思い出すのは 高校のとき就職試験を受けていたときだった 俺の友が電力会社に入れるという内定を貰い 本当に嬉しそうに俺に言ったのだ この会社に入るのが夢だったのだと そのときタコは吃驚した そしてその友を憐れむような心持がした つままらん夢だなと しかし この歳になって彼のしっかりとした志 そう 今でははっきりと分かるのだ そのとき18だった彼がいつの時点でその電力会社に入るのを夢として そのための準備をしたのかと もうとっくに会っていないので 彼に聞くことは出来ないが 少なくともその高校 工業高校だが そこに入ったときから そのために努力をしていたのだろう その学校は工業高校で そういう会社に入るための学校であったのだから ではタコは 実はタコはそういうことに関して全く何も考えていなかったのである つまり世の中に出るための必要事項について 全く分かっていなかったのである まあ 65年の人生を振り返るのだから とりあえず今日はこんなところか 最近は疲れて集中力が続かないのである このブログ更新も前回は18日だから駄目なものである
次回は早めにしよう。
 

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久しぶりのテンカラ釣り

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今年は渓流釣り思い切り楽しむぞと張り切ってスタートしたが 釣果は現在山女が4尾 出漁回数6回でだ これは当初の予想よりはるかに不出来である
昨日の5月17日はテンカラに切り替えた初日だった それまで5回は全てミミズを使ったえさ釣りだった えさ釣りならばある程度釣れると思って多寡をくくっていたが大誤算 釣りに行くのは平日だから釣り人いないと思っていたが これが大間違い
タコも足に自信がなくなっているので 釣り場は車を停めて すぐ釣れるような場所だから当然魚はすれているし そもそももういないような感じだ 腕には多少自信が有るつもりだったが 坊主続きですっかり自信が無くなり まあ 魚がいないのではいたし方が無いと 大自然の一部になって ゆっくりとした時間を過ごすことで満足している そんなある日 ブログ村の散歩をしているとテンカラ釣りを見つけた 覗いてみると なんとまあ 動画付きでテンカラの様子を見せていた そしてこの御仁 テンカラ使ってポンポンとまあよく釣るのである 多分魚影が相当濃い川だろうと思うのだがそれにしても見事なもので よし俺だってと テンカラに早速切り替えて挑戦したのだ
テンカラの良さは何と言っても餌を付ける必要が無いことである 実はタコもずっと以前から渓流はテンカラを続けていた しかし ここ10年以上有給休暇をもらえる会社を辞めてからは釣りをあまりしていなかった 65近くになってようやく少し時間にゆとりが出来たので今年はと張り切ったのである 
そして昨日久しぶりにテンカラでの挑戦となったのだが あの動画の10分の一でもと思ったが まあ 出ないのである テンカラの面白さは釣れる釣れないよりも 魚が飛び出してくる これが楽しいのだ 竿を振って虫に似せた疑似餌を流れに落とすと 山女が飛び出してくるのである それをすかさず合わせるのだ はっきり言ってかなり高度なテクニックが必要で 簡単ではない しかし タコは10年以上のキャリアが有るから魚が飛び出せば自信が有るのだが 出てこなくては話にならんのである そんなわけで午前中2時間くらいそれでも頑張った そして山女が合計3回姿を現し そのうち一回見事に釣り上げることが出来たのである メデタシメデタシであった この一尾の感激 まあ 経験の無い人には絶対に分からないだろうな その瞬間 もう やけくそで竿を振っていると 珍しく山女が飛び出した 
イター 瞬間胸が躍る しかし こんなにやけくそのとき飛び出した魚には当然あわせることなど出来ない 魚が出るぞ と思って構えながら竿を振らないと 合わせることは出来ないのだ だから 祈るような気持ちでもう一度その場所に針を振り込む 出た その瞬間 今度は見事に合わせに成功 ああ、タコの腕は錆びてはいなかった 自画自賛 これ実に見事なものだ このとき 今までの苦労は全て消し飛ぶのである この快感 タコは獲物を仕留めたときのこの快感は 人類が獲物を求めて必死に歩き続け その獲物を手中に収めたときの喜び この喜びが遠い記憶の中で呼び戻されている そう思っているのだ まあ 何はともあれ良かった     それにしても この間 様々な疑念の中で竿を振り続けているのである
まず ここには魚がいないのでは しかし 新聞などでこの川で結構連れているという情報を見たことも有るし 近くで釣っている釣り人もいるのだ まあ、昨今魚の数より釣り人のほうが多いのでは という話も良く聞くし 山梨の漁場管理はいい加減なものである 解禁を過ぎてしまえば もう魚はいない 何しろ成魚放流は無いのだから そして大都会の東京から近いので そちらからの釣り人も実に多いのである まあ 釣れないと 魚がいないのだと これタコの悪いくせである
次に 自分の手製の疑似餌だから この出来が悪いから魚が出ないのでは と思うことである そのため 針もドンドン変えてみる しかし いろいろな情報見ると 針なんかなんでもいいのだと ビニールテープを適当に投げ込んでも釣れる なんていう情報も有るくらい 魚にはその判断は出来ないのだ というところが疑似餌に関する正しい情報のようである 多分 その出現率だと思っている タコはその情報を信じ何しろ視認性がいい つまり何処に針が流れているか このことを一番大事にしているのだが あまり魚が現れないと やっぱー 疑似餌に問題あるのかなと 疑念が生じて 迷いが出てくるのである 一尾出ると これが全て解消され
さわやかな気分になれるのだ この一尾 20センチにも満たない小物だが 塩焼きにして 今朝おいしくいただきました

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武田勝頼の非運さとは

 
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 武田勝頼が武田信勝 信勝とは勝頼の息子である その息子の陣代として名門武田氏を率いる事となったのは27歳のときである 陣代 戦国時代 こんな奇妙な名跡でトップになった大名がいただろうか 信州、駿河、甲斐、西上野、三河、遠江 甲斐一国からスタートしてここまで領土を拡大させた信玄が その死の間際 息子勝頼を跡継ぎに指名したとき そんな奇妙な形でしか勝頼を後継として指名できなかった 勝頼の地位はそれほど微妙なものであり 親類衆、譜代衆から全幅の信頼を勝ち得ているものではなかった 勝頼そのとき27歳である 勝頼が諏訪氏の名跡を継いだのが16歳のときで、それから11年後のことである その11年の間 武田氏の内部は激震していたのである  激震とは勝頼が諏訪氏を継いで高遠城主となった2年後 信玄嫡男の謀反が発覚という 武田家に信玄の信虎追放以来の前代未聞の事件が勃発したのだ その結果その3年後嫡男義信成敗 同時に義信の後見役である飯富氏処刑 という大きな事件が起こっていた この嫡男は時の将軍足利氏から名前の一部を与えられていたまさに武田氏の次代の中心として育てられていたのである 
そのため 武田家臣団として諏訪氏を継承していた勝頼が急遽信玄の後継として急浮上したのである しかしこの人事は武田氏の総意というようなものではなかった もしも 信玄の正室からの子であるならば問題は無かっただろうが 
 勝頼は諏訪氏の継承者として養育されていたのであるから 勝頼の補佐役もそれほどの人物ではないのは当然である そのため信玄の帷幕に参画して信玄が亡くなるまでの間はわずか五、六年程度である 21歳から27歳これが勝頼の準備期間である 義信と信玄が意見の相違を起こしたのは義信の義父である今川義元が桶狭間で信長に破れ敗死し、今川氏に対する方針の違いからであった 今川氏を支援するという義信に対し この機会に山国の甲斐武田氏からの脱却する、そのため今川の地位を奪うと考えた信玄 そして信玄は駿河、三河、遠江まで手に入れた
、そして更なる拡張を目指したときに亡くなったのである つまり勝頼があとを継いだのは最もその領土が拡張したときであった 最も充実した次期の信玄から 突然バトンを渡された勝頼 まさに大変な時期なのである 桶狭間後 信長 家康も勢力を急拡大していった 信長 家康の配下は寝食を共にした主従である  その点だけでも勝頼の立場は相当危ういものであった 勝頼が生まれたのは信玄が信州の進出初期であり、その信玄と共に戦ってきた譜代、親類衆、外様衆そのなかでも親類衆の勝頼を見る目は相当冷たいものであった 拡張した領国経営だけでも勝頼にとって至難のわざとなったことは間違いない その立場は勝頼にとっては多分迷惑そのうえないもので 何でこの俺がこんなことをしなくてはいけないのか 今風に言えばそういうところだったに違いないのだ  
 それでも勝頼は全軍まとめてその初期よく戦っていた 軍を動かすのは大変なことである 当然のことながら軍を動かすのは金がかかるのである ただ働きをさせれば誰もついてこなくなるのは当然である 戦っても所領も増えないもはや拡大しきっている武田氏の所領をこれ以上増やすことなど至難であり 何しろ領土の保全が第一となっていたはずである 当時武田の四囲は織田、徳川、上杉、北条と屈強な大名に取り囲まれていたのである そんななか徳川と長篠城をめぐっての攻防戦が信長も参戦する決戦に様相が変わって行ったのである このとき武田氏を率いてわずか2年 勝頼はあまりにも若かった 信長、家康が歳はそれほど変わらないが100戦練磨の経験者であるのに対し全軍率いての戦というものに関してはあまりにも経験が不足だった勝頼 当然信玄と苦楽を共にした武将たちは自重を勝頼に説いた 戦の難しさを知っていたのだが しかし、勝頼はこの機会を逃したら自分には勝ち目が無くなる 多分そう思っていたら違いなかった それは全軍動かすことの難しさ そういうものが日々厳しくなっていることが分かってきたからに違いないのである 西上野の北条 信州の上杉 東海の徳川 飛騨の織田その国境で日々緊張の連続 兵を動かすことは親類衆、譜代衆、外様衆に動員をかけることで、若い勝頼には簡単ではなかったに違いないのだ だからこの機会に家康と信長を何としても叩きたかった 叩くことによって勝頼の権威を高めたかった 勝頼は自信というより、若さゆえの過信が有った それまで勝頼は連戦連勝であった
しかし 相手はいつも無理をせず適当に兵を引いている それが勝頼には多分見抜けなかったのである そして信長は勝頼のその性格を見抜き待ち受けていたのである そして結果は無残なほどの大敗北となった しかし、この戦いでも親類衆は兵を温存していた つまりすでに勝頼の命が届いていたか怪しいのである
こういう武田の結束力に関しては勝頼の責任外であるこれは信玄の負の遺産である 勝頼は悲しい運の持ち主である 戦を前にして沢山の武将が戦うか逃げるか何もしないか迷うのである 勝頼は上杉謙信に似ていると思う敵を前にして一直線に敵に飛び込んでいく 決してひるまない、最も武将らしい武将であり、しかも細やかで優しい性格であったという 信玄が武田氏の将来まで見通した差配を行っていれば勝頼の運命も武田の運命もあれほど悲惨な結末を迎えることは絶対に無かったであろうと タコは確信しているものである
 それにしても疲れるなあ タコはなんとしても勝頼が凡将でなかったことを説きたいのだがなかなか難しくて参るのだ ただ勝頼の哀しそうな目がタコを見つめているような気がしてどうしてもそれを知らせてあげなければと、意気込むのだが タコの知っている勝頼のよさのほんの少ししか紹介できないのが情け無いのである
まあ、今後も少しずつやるしかない 
 勝頼殿許していただきたい今回はここまでです。

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非運の武将 武田勝頼

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 タコは仕事の関係で国道20号線をよく走る、甲府盆地を抜けて峠にかかってしばらくすると大和村にさしかかり、武田氏終焉の地という看板を見ることになる 武田氏終焉 この地の田野というところで勝頼が討たれたのだ。甲斐源氏の末路としては哀しい結末であった 華々しい戦で討ち死にしたわけではない もしもこんな最期が予見できたのであれば 勝頼は長篠の戦で旗本が止めるのを振り切って 信長の本陣めがけて突撃して討ち死にしたほうがはるかに良かったと思ったに違いない 
甲斐源氏を滅亡させた愚将 これがタコが長い間 勝頼に対して持っていたイメージであった しかし 勝頼について書かれた小説などを読んでいるとそのイメージは全く変わっていった それはまさに非運の武将であった 勝頼の母は諏訪氏の娘である
諏訪氏は信玄が滅ぼした そのとき戦利品 といっては語弊が有るが美しいので拉致して側室にした というところだろう 諏訪氏と縁組のような関係の中で側室になったわけではない このことは名門甲斐源氏の統領としては決して褒められた行為ではなかった それゆえ勝頼に対する一門の見る目は厳しいものであったに違いない しかし勝頼は優れた資質をもつ逞しい武人であった 信玄は勝頼を諏訪氏の後継者として育てていた 多分勝頼の正式名は諏訪四郎勝頼のはずだ
信玄には立派な嫡男がいた 武田義信 義は時の将軍足利義輝から貰ったといわれている  つまり天下周知の後継者であった ところが今川義元が桶狭間で信長に敗れて死んだ 義信の正室は今川義元の娘であった  義信は今川氏を助け、信長を討つべしと主張した その当時の信長はまだそれほど強盛ではなかったはずである 信長は信玄の動向に非常に気を配っている この時期多大の贈り物を送っていて、信玄と友好関係を築くことに腐心していた そして信長は信玄の篭絡に成功したのである 信長の養女を勝頼の正室として縁組させたのである
信長が只者ではないことをこの一点からもうかがい知ることが出来るのである
武田信玄は智謀家として声望が有るのだが長期的ビジョンにおいて信長にはるかに劣っていたといわざるを得ない 信玄の迂闊さ 見通しの暗さが甲斐源氏の終焉の始まりとなった つまりまず嫡男義信との意見の相違から義信は信玄追放計画を画策する これは露見して義信擁護の宿将が成敗され 義信は幽閉 信玄は義信を許そうとしたらしいが 義信は拒否 そしてこれも成敗する つまり信長は戦わずして最強甲州軍団に亀裂を作り崩壊の端緒をつけたのである この義信事件後 信玄は諸将に血判による忠誠を誓わせ結束に腐心しているのである 信玄には沢山子がいたが 後継者としての資質を持つものはいなかった ゆえに勝頼を諏訪氏の後継者から甲斐源氏の後継者にせざるを得なかったが 信玄が息を引き取る寸前 勝頼を正式に後継者としたが その実 勝頼の肩書きは陣代という妙なもので 勝頼の子が元服したら その子を甲斐源氏 武田氏の後継者とするという実に奇妙なものであった これはどういうことか つまり勝頼を正式な後継者とさせない雰囲気が有ったのである 信玄を支える甲斐源氏一門 後に勝頼に反旗を翻す穴山梅雪など 勝頼を正当なる後継者として認めていなかったのである つまり 信玄のもと一枚岩で拡張していた武田軍団は義信事件からがたつきが出て 勝頼に代替わりして拍車がかかっていたのである 
それゆえ勝頼は彼らの信頼を勝ち得るために激しく戦ったのだと思う 信玄から大将としての行動ではない とこき下ろされたこともあった 信玄が落とせなかった城を落としてもいる 信玄に負けない武将であることを認めさせるため 苦労しているのである しかし それらは結果的に武田氏を弱体化してしまったのである
勝頼は愚将ではなかった 愚将化してしまったのは信玄である
信長は信玄を間違いなく意識していた 信玄は見通しが全く悪かったのである 歴史にたらればは無い しかし義信の意見に何故耳を貸さなかったのか 信長が贈り物をしてくるその真意を何故に見破ることが出来なかったのか つまり 信玄は大局的視野に立ったとき それほどの智謀が無かった 暗愚といわざるを得ないのである  信長から今川領をいかにしようとも信長は何の依存も有りませんとささやかれ 目先の欲に目がくらみ 大局を見失った信玄 では義信は何故にそこまでして父と争ったのか タコは義信の受けた教育だと思っている 義信は嫡男として正しく教育を受けていた 利に走る信玄の姿を許せなかった 正義は今川を助けるところにある義信はそれが貫けぬなら生きる意味は無い 実に立派である 
長篠の戦で信玄と共に戦ってきた宿将は勝頼に自重を求めた 信長は油断がならぬ相手であると分かっていた 信長は勝頼の性格を知り尽くしていた 必ず攻めてくると 宿将が自重策をとき続けると 譜代の将が言ったという 老い腹が命が惜しくなったかと そう言われて自重をとき続けた宿将たちも覚悟を決めるしかなかった
そして彼らはその戦で皆討ち死にした 老い腹をといった譜代は兵も出さずに撤退したという 勝頼は討ち死にを聞き、自らも死を覚悟で突撃しようとしたが 側近に押し止められ断腸の思いで逃げていったのである 信長は追撃しなかった ゆえに勝頼の命は田野で果てるまで何年か伸びた 信長は武田氏の壊滅は急ぐ必要は無いと判断していた もし 追撃していたとしたら そのとき上杉への備えとしてかなりの兵力が残されていて 確か高坂弾正だと思うが 勝頼敗走のときを予感して進軍していたのである もし信長追撃していたら 反撃受け長篠大勝利を帳消したかもしれず それを予見して追撃しなかった信長恐るべしである
勝頼は非運の武将である
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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信長の足跡を訪ねる旅

 
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 4月28,29日に岐阜に車中泊初めての旅を実行した 元々の目的は知らない街を歩いてみたい であるがやはりテーマが無いといくらフーテンのタコでも飛んでいくところに迷ってしまう タコよお前は何を見たいのだ と問いかけて返ってきたのは 好きな歴史を訪ねることである そして見てきたのは信長の戦った城跡である 斉藤道三から奪った岐阜城、それから勝山城 郡上八幡城 それを見て感じたのは皆山頂、要害の城である 遠くから見ると山の頂上に城が建っているのだ まあよくぞこんな要害の地の場所に陣取っている敵を落城させることが出来たものだと タコの地元の名将は武田信玄、勝頼である、宿敵信長についには攻め滅ぼされるのであるが 戦国時代無敵騎馬軍団を率いた甲州軍団が何故信長にいとも簡単に攻め滅ぼされたか 納得がいかなかった しかし、この地に来て信長がどういう相手と戦をしていたのか 少しだけ垣間見たのであるが それだけでも戦う相手に対する知識が不足していたと感ぜざるを得ない
勿論 歴史だから信長だとて最初から最後まで強盛を誇っていたわけではない
むしろ信長が代替わりした当時その評価は極めて低かったのである
 親父殿の葬式において厳かであるその式典に現れた信長の姿は尋常ではなかった、更にその位牌に向けて抹香を投げつける まあ敵に対するヤクザの振る舞いなら有るかもしれないが 戦乱の世とは言っても 君主の葬式であるそれなりの秩序 礼式は厳然としたものが有ったはずである ましてやその世継ぎ 跡継ぎである つまりその時点では信長の評価は極めて低かったのである 戦国時代 歴史の面白さはそういうことを読み返すたびに再び興味深くなるのである
タコの住む甲州は 四方山に囲まれた狭小の地である そんな狭小の地の戦国武将がその勢力を増大させ駿河、信州を侵略、そして支配地に加えていった はるかに広大な地域を何故 侵略攻略できたのか、いやー、歴史は本当に面白い 
岐阜の旅において 改めてもう一度どうしても見なくてはという歴史箇所 岩村城
ここは信長の領域である その信長の領域に武田の支配が及んだ地である 一体どうしてそんなことが起きたのか その近くにはあの明智光秀が治めていた明智城跡 今でも光秀は何故信長を倒そうと決断するに至ったのか 様々な説が有るがタコも光秀の城跡に立って もう一度光秀の心境を推し量ってみたいと思うのである 
タコは時々 欝的気分に陥ることが有るが そういうことをいろいろ考えると 俄然元気になれるのである 今月再度の西上作戦を実施するのである 次のターゲットとしては今記した以外に墨俣一夜城 大垣城 桶狭間古戦場跡 長篠城 岡崎城 名古屋城
この辺りを何としても見てみたいと思うのである
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