元老院を拡大・強化することが共和政の安定につながる
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ブルータスは最高指導者の権力をなるべく制限しようと執政官の制度を考えたわけですが、もちろん任期一年の並立制という方法には大きな弱点もある。そのことは彼自身も知っていました。
まず第一に、わずか一年しか任期がないのでは長期的な政策立案および実行が望めなくなる危険性です。わずか一年では腰を据えた政策など望むべくもない。いきおい選挙対策の人気取りに走ってしまうのは目に見えています。そこでブルータスが考えたのは元老院機能の強化でした。 ではなぜ、元老院を拡大・強化することが共和政の安定につながるのか。 その理由の一つは、元老院の持つ特性にあります。 ローマの元老院議員たちは、現代の議員とは違って、その任期は終身制でした。 つまり、元老議員たちは選挙の洗礼を受ける必要もなく、したがって人気取りをする必要も無い。 また、長い間、国政にタッチしていれば、 おのずからローマが抱えている問題点が何であるかも見えてくるというものです。 元老院は王政の時代からいわば「ご意見番」としての機能を持っていたわけですが、 この元老院の“重み”を増すことで政治の安定性を確保したいというのがブルータスの狙いだったわけです。 強化された元老院は、300人まで拡大され、当時の有力者をほとんど網羅していた。元老院議員の地位は世襲ではありません。家柄も重要とはいえ、その識見、行動力、人望もまた審査の対象となる。従って、ローマの貴族階級、つまりエリート階層の中でも、主だった人材はすべて元老院に集まることになった。元老院とはローマにおける「人材のプール」になったのです。 よって制度としては定められていなくても、執政官候補は元老院から出馬するのが普通でしたし、次の執政官に誰を出すかは元老院の中の「世論」が決めることとなった。 また、仮に元老院以外から立候補した人間がいても、元老院は有力な対抗馬を出して、その動きを封じ込めることができます。また一年間の任期を終えた執政官は、再び元老院という“古巣”に帰ることになるのですから、そういう正面切って元老院と喧嘩ができるわけではない。 ということは、制度としては市民集会から選ばれるとはいえ、執政官になりたければまず元老院の支持がなければ始まらないし、任期中も元老院と良好な関係を保ったほうが得策であるということになるわけです。ましてや再選を望むのであれば、なおさらのこと。 したがって元老院を強化・拡大するこは、執政官の独断や暴走を防ぐことにつながる。 しかも元老院という後ろ盾を持つことによって、 執政官の権威にもさらに箔が付くわけですから一石二鳥だというのが、ブルータスの“読み”でした。 ローマの元老院は、共和政が始まってからカエサルがルビコンを渡るまでに限っても、およそ450年にわたって機能を果たし続けた。ではいったい、なぜローマの元老院は数百年に渡って、その役割を果たすことができたのか。 その第一の理由はやはり何と言っても、日本の国会議員とは違って、元老院の場合は一度議員になってしまえば、選挙がなかったというこが大きい。選挙がなく、その議席が終身で保証されると聞くと、現代の人間はすぐに「特権階級」という言葉を連想し、そういう連中がクリーンでいられるわけがないと考えてしまうわけですが、そうと限ったものではないのです。 そもそも選挙がなければ、現代の国会議員のように地元に利益誘導をしたり、ドブ板選挙をしたりする必要も無い。ましてや選挙資金集めに汲々とすることもありません。その意味では、現代の日本の国会議員よりも元老院議員のほうがずっとクリーンであったわけです。 さらにもう一つ、現代の日本の国会議員と違うのは、ローマの元老院議員たちは真の意味での「貴族精神」の持ち主であったということです。「ノーブレス・オブリージュ」は、日本語に直訳するならば「エリートとしての義務」という意味の言葉ですが、ローマの貴族たちは文字通り、このノーブレス・オブリージュの見本のような人たちでした。 共和政になってからもローマは戦争に次ぐ戦争であったのですが、その際に戦場に真っ先に駆けつけたのは他ならぬ貴族たちでした。彼ら貴族は元老院議員としてローマの将来に関わる政策を議論するだけではなく、みずから兵を率いてローマを守るのが自分たちの義務だと考えていました。 こうしたノーブレス・オブリージュの精神は、共和政ローマが発展していくにつれ、徐々に失われてはいくものの、元老院が長くその機能を果たしていく上でのバックボーンとなったのです。 ところで、ローマに戦争の危機があれば、真っ先に駆けつけていくという、ローマの貴族たちの義務感は、もう一つの派生的効果を元老院に与えました。 ローマの元老院議員たちは有事において、ローマ軍団の先頭に立って戦うことが多かっただけに、 戦死者もまた少なくなかった。共和政のローマは毎年のように戦争を行っていたのですから、 元老院議員のメンバーは常に変動し、動脈硬化が起きる危険性は小さかったのです。 ちなみにブルータスの改革以後、元老院での演説では冒頭に「パートレス、コンスクリプティ」と述べるのが習慣になっていました。直訳すれば「(建国の)父たちよ、新たに加わった者たちよ」という意味になります。 王政時代の元老院は建国に携わったローマの父たちとも言える有力者と、その子孫のみで構成されていたので、冒頭に「パートレス」と述べるだけだったのですが、元老院の定員拡大で「新たに加わった者たち」と付け加えられるようになったのです。 王政時代の議員と、新米議員を区別する、この呼び方は一見すると、いかにも旧弊な態度に思われそうですが、実は逆の効果があったのではないかと私は考えます。 というのも、かならず演説に「新たに加わった者たちよ」という呼びかけを加えれば、 それを聞く人たちは「元老院の門戸は開かれているのだ」というイメージを持つはずです。 言葉の持つ力というのは馬鹿にしたものではありません。 事実、その後の歴史を見れば、元老院は「コンスクリプティ」、 つまり新たに加わった者たちを常に受け容れてきたと言っても過言ではありません。 終身制と組織の新陳代謝という、ともすれば矛盾する要素を併せ持つことができたからこそ、 元老院は数世紀にもわたって機能し続けることができたのです。 ------------------------------------------------------------- ローマ人の物語 (2) ― ローマは一日にして成らず(下) (新潮文庫) [文庫] 塩野 七生 (著) 文庫: 209ページ 出版社: 新潮社 (2002/6/1) 出版社/著者からの内容紹介 ローマ人の物語ローマ誕生、王政から共和政へ。 ■共和制は一日してならず 「尊大なタルクィニウス」を追放し、ローマは共和国へと進化します。しかし、改革には必ず痛みが伴う。ローマもまた例外ではありませんでした。共和制によって出現した平民と貴族との対立は、年を経るごとに深刻化し、ついに悲劇を迎えることになるのです。 ギリシアから視察団が戻り、前449年、共和政ローマは初の成文法を発表。しかしその内容は平民の望むものとは程遠く、貴族対平民の対立の構図は解消されなかった。近隣諸族との戦闘もさらに続き、前390年夏にはケルト族が来襲、ローマで残虐のかぎりをつくす。建国以来初めての屈辱だった。ローマはいかにしてこのどん底から這い上がり、イタリア半島統一を成し遂げるのか。 内容(「BOOK」データベースより) ギリシアから視察団が戻り、前449年、共和政ローマは初の成文法を発表。しかしその内容は平民の望むものとは程遠く、貴族対平民の対立の構図は解消されなかった。近隣諸族との戦闘もさらに続き、前390年夏にはケルト族が来襲、ローマで残虐のかぎりをつくす。建国以来初めての屈辱だった。ローマはいかにしてこのどん底から這い上がり、イタリア半島統一を成し遂げるのか。 |





