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大坂城を築き天下統一を成し遂げる

天正11年(1583)には石山本願寺の跡地に大坂城を築き、これを拠点に紀州・四国・越中とたて続けに平定。

朝廷より関白・太政大臣に任ぜられ、豊臣の姓を賜った秀吉は、さらに20万の大軍を率いて九州征伐を行い、西日本の全域を服属させた。
続いて関東に遠征、北条氏の本拠である小田原城を攻めた。
この時、石垣山に一夜城を出現させ、敵方の戦意喪失を図った話は有名である。
北条氏を降伏させて天下統一を実現した秀吉は、野望を海外へと向けた。

そして中国・明の征服を目指して朝鮮へ出兵。
それが文禄・慶長の役である。
しかしながら、この頃、秀吉は病に伏せるようになり、病状は日ごとに悪化。
跡継ぎの秀頼を徳川家康、前田利家ら五大老に託して生涯を閉じた。辞世の句は「露と落ち露と消えにし我が身かな、浪速のことは夢のまた夢」。



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信長のもとで出世街道をひた走った豊臣秀吉

天文23年(1554)、織田信長の小者として仕える。信長に「猿」「はげネズミ」と呼ばれながら、今でいうパシリに専念。
次第に頭角をあらわしていった。敵国である美濃との最前線・墨俣に一夜城を築いた働きが信長に認められ、以来、織田政権下で重きを成し始める。

この秀吉の運命を激変させたのが、有名な本能寺の変である。天正10年(1582)、主君・信長が京・本能寺において明智光秀の謀反により殺された。この時、秀吉は信長の命令により、中国地方の毛利氏
計略の一環として備中・高松城を水攻めにしていたが、事件を知るやいなや毛利氏と講和。昼夜、死にものぐるいで駆けぬいて京都に軍を返し(世にいう中国大返し)、山崎の戦いで明智軍を打ち破った。
その後、秀吉と敵対する柴田勝家らを討ち取って、信長の後継者としての地位を確立。信長が成し得なかった天下統一の道をひた走るのである。





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伝説と謎に包まれた生い立ち豊臣秀吉

豊臣秀吉は、百姓の生まれから天下人に成り上がるという異常な出世を遂げた人物である。
尾張国愛知郡中村の百姓、木下弥右衛門の子として生まれたといわれているが、実際は不明。
弥右衛者門の死後、母・なかが再婚した竹阿弥が実父という説もあり、加えて皇室や公家の御落胤説までまじるとなると、これはもう際限がなくなる。

さらには秀吉の「猿」というあだ名にちなみ、生年月日は天文5年(1536)サル年の正月元旦、山王日吉神社(猿が神の使い)の申し子として生まれ、幼名・日吉丸と名付けられたと伝えられるが、これは後世の『絵本太閤記』の創作。本当のところは、天文6年トリ年の2月6日生まれらしい。なお、世上一般に父といわれる木下弥右衛門は織田信長の父、信秀の足軽であったともいわれている。

また秀吉は右手の親指が生まれつき2本あり、六指であったというエピソードが残っている。




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