桜と大丸とステーションシティ
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桜と大丸とステーションシティー いつもは都内を移動するのに、最寄りの清澄白河の駅から、地下鉄の半蔵門線や大江戸線を利用する。 その日も大江戸線に乗って出かけたが、帰りは地下にもぐる気がしなくなって、新宿駅から中央線に乗った。 中央線の電車の車体は、オレンジ一色だったが、知らない間に、銀色の地に、オレンジ色の縞模様が入ったものに、姿を変えていた。 空は黄砂のためかぼんやりと霞んで、建ち並ぶビルが、車窓を流れていく。 桜の木は、ビルの影、橋の下、土手の上と、至るところに根を張り、枝一杯に、薄桃色の淡淡とした花を咲かせている。 土手の斜面に枝を広げる桜は、中央線に沿って流れる神田川の水に、淡淡とした花を映して、どこか誇らしげに見える。 車窓から見る神田川は、緑の水を湛えて静かだった。 ふと、桜の匂いを嗅いだような気がして振り向くと、香りは、若い女性から漂ってくる。 白いシャツに、ベージュのスーツを着たその人は、ショルダーバッグを肩にかけ、片手に携帯を握り、片手で吊り革につかまりながら、窓の外を見ている。 淡い口紅の口元に、淡淡と春が薫っている。 午後の車内はすでに混み始めていた。 神田川の水の流れは、高速道路の高架の下へと消えていく。 やがて、電車は終点の東京駅に着いた。人の流れに押されてホームに降りる。 山の手線、総武横須賀線、京浜東北線の電車は、早朝から深夜まで途切れることなく、東京駅を通過する。 東海道線、中央線、京葉線の電車は、東京駅を起点として発着を繰り返す。 遠く九州、新潟、長野、青森といった、それぞれの地方へとつながる新幹線は、出発までのわずかな時間、白い車体を長いホームに伸ばしている。 東京から博多までの一一○○キロメートルの距離を、のぞみはわずか五時間で疾走する。 時間と空間を駆け抜ける電車は、東京駅に集まっては散っていく。その電車のずらっと並ぶ、東京駅のホームの合計は地上に十ホーム、地下に八ホーム、その線路の合計は二十八本だという。 その中で、中央線のホームはひと際高いところにある。そして中央線のホームの左右には、昨年十一月にオープンした、グラントウキョウサウスタワーとグラントウキョウノースタワーが聳えたち、空を四角く切り取っている。その四角い空間に、古いビルの屋上の部分がのぞいて、そこには白地に濃い緑色で、『大丸』と書かれた看板がかかっている。 素朴なゴシック体で書かれた漢字二文字は、突き抜けた空の黒板に書かれた文字のようにも見え、それはなつかしい昭和の象徴のようにも見える。 大丸がグラントウキョウとして、高層ビルへとリニューアルされた後は、その文字は黒板消しで消されるように、あっさりと無くなる運命にある。戦後何十年も、八重洲口のシンボルだった文字は、近いうちに、この世から姿を消す。 平成二十年というのは、なにか意味があるのだろうか。太平洋戦争の敗戦は昭和二十年だった。 目の前を電車が入ってきた。背後の電車が発車していく。振り返ると、丸の内側の高層ビルが目に入ってきた。 いずれ東京駅は、八重洲側と丸の内側両方の、高層ビルの谷間に、埋没していくのだろう。かつて東京駅の上空は、高層ビルの影などない、広々とした空があったなどと、誰も信じなくなる未来が来る。 東京は時代とともに、新しいものを追いかける。古いものを捨てていく。ここ東京は、古いものは姿を消す運命にある。 新しいビル、新しいマンション、新しいデパート、新しい広場、新しい公園、時代を追いかけるように、新しい時代に追いかけられるように、東京はめまぐるしく、変貌を遂げていく。 そうしてできた、新しいマンションや高層ビルの名前は、全て英語読みのカタカナだ。フランス語らしきものもあるが、新しいスポットの地名はすべて英語で表記される。オアゾ、ミッドタウン、六本木ヒルズ、スカイタウン。 以前、日本橋の通りで、七十歳近い女性に呼び止められた。 コーヒーショップ(カフェと呼ぶのかしら)の、アルファベットで書かれた看板を指差して、なんと読むのかしら?と聞かれた。 「エクセル、シオア?ショワ?ごめんなさい。読めません」 「どんな意味?」 「さぁ。語学に弱くて」 「でも、ここ、日本よね」 「そうですよね」 「東京で生まれたんだけど、まるで変わってしまって、今、こうして歩いていると、外国にいるみたい。あなた、このあたりも戦災に遭って、大変だったんだから」 しばらく、彼女と立ち話をした。 最近、赤坂サカスなる場所ができた。サカス?適当にアルファベットをはめこんで英和辞典で調べた。辞書のどこにも、その言葉は載っていなかった。 一週間後、赤坂サカスは、咲かすを、カタカナで書いただけのことだと、新聞で知った。 「アカサカサカス」、まるで早口言葉のような名前だが、「咲かす」の動詞を、カタカナにしただけとは、あまりに軽すぎないかしら。 てんでにふざけてない? その場所はテレビ局のある場所だ。朝のニュース番組で、「ほっとけない」と司会者が憤っている。司会者の顔は趣味ではないが、声の調子は抜群だ。響く声。お天気のお姉さんを、呼ぶときの声が裏返る。 ところで、テレビの女性のアナウンサーは、皆若くて美人なのに、どうして、男性のアナウンサーは年配が多く、どうみても美形とはいえない御仁が多いのだろう。 長いエスカレーターに乗って、コンコースへと下っていった。 コンコース?とカタカナで私は書いている。やはり駅の構内とは書けない雰囲気だ。地下のコンコースは、街と変らない商店街がひろがっている。 商店街?やはりここはショッピングモールと書くべきかしら。 商店街では、この品のいいおしゃれな雰囲気が伝わらない。モダンで斬新な、東京駅のコンコースにある店の名前のほとんどは、英語が使われている。日本酒や焼酎の売られている店の名前だって英語が使われている。 いつの間に、東京駅は国際空港のような雰囲気になったのだろう。 東京駅の高架では、日々、夥しい数の電車が、短縮した時間と乗客数を目指して、途切れなく行き交っている。地下では、国籍不明な街がひろがっている。 国籍不明?いえ、グローバリゼーションの街ができつつあると思うしかない。真っ白いクリスタルのような壁にはTokyo Staition Cityと英語で書いてある。 でも古いものが壊されていくと嘆きながら、実は新しいものにも興味深々なのだ。 私は、このぴかぴかに磨かれたステーションシティに、目を見張っている。 化粧室からレストルームと名を変えて、ちょっとしたサロンのようになったお手洗いに、心が浮き立つ。 先日、用を足すために入った個室の便器の奥の棚に、空の牛乳パックと菓子パンの袋が捨ててあった。誰かが、便器に座りながら、食事をしたにちがいない。 食事をする風景を想像してみて、別に不潔な感じはしなかった。このぴかぴかに磨かれたレストルームは、わが家の台所やリビングよりも清潔な感じがする。 私もバックから、さっき丸善で買った芥川龍之介の文庫本を取り出して、読み始めた。 BURDIGARAと書かれたパン屋さんで、バケットなんかを買い込んで、その長い紙袋の先を買い物袋の端にのぞかせながら、パリの街を歩いた気分になって、澄まして歩いている。 隅田川の向こうの江東区に住んで十年、東京人だというつもりはないが、少しは東京の毒が効いているのかもしれない。和菓子はこの店、ケーキはあの店と、こだわる自分がいる。新しいスポットができると、行ってみたくなる。まだ根っこは故郷にあると思っている私は、ちょっと後ろめたい。 東京駅のステーションシティは、人であふれている。階段を上って八重洲口の改札を出た。 新しいグランタワーの入り口は大きく開いて、中から明るい光があふれ出ている。その光の中に人々が吸い込まれていく。その光の中には世界中の美味がある。世界中の装飾品がある。そこはまるでパラダイスのような世界だ。 外に出た。広い通りの向こうには、まだ昭和の雑居ビルが残っている。 立ち止まる。振り向く。見上げる。 夕暮れの空に、グランタワーのビルが高く聳えて、ガラスに覆われた壁面は、まるで水が流れ落ちる瀧のような荘厳さで、仰ぎ見る私に向かって迫ってきた。 |

