身辺雑記
12/04/27 「ノア家の人々」川上記聖書通読箇所、創世記8章。神の声はいつ聞こえるのだろうか。まず、苦難の時、あるいは人生に決断が迫られたとき、神のみこころがどこにあるのか、それを求めて私たちは祈る。その結果、聖書のみ言葉が心の中に与えられることがある。この時、私たちはこれを神からの声として受け取る。
■ このようなケースとは別に、予期せぬとき、神からの声を聞いたように感じることがある。その時、まずはそのことに感謝し、その後、しかしあれは本当に神の声だったのだろうか、単に私の心のうちに湧き起こった自分の声にすぎないのではないか、と疑惑の揺り戻しが来ることもある。こんなとき、私たちはどうするだろうか。 ■ 神はノアと彼の家族が洪水から逃れるために「既に完成した船」を彼らに与えたのではなかった。ただ「船を造れ」との命令の声をノアは聞いた。船を詳細に設計したのは神、その声に従って忠実に造り始めたのはノアである。それ以後のノアの行動(生活)、すなわち晴天が続き大雨など降りそうもない内陸にいて、家族が総出で巨大な船を建造するという行為(これは信仰告白に他ならない)は、享楽の罪にまみれた当時の世界にあって、周囲の人々には理解しがたく、もの笑いの種以外の何ものでもない光景だったに違いない。 ■ 時としてノアの心中にも「私は何故こんなことをしているのだろうか、私が聞いた神の命令は本当のことだったのだろうか、単なる幻聴ではなかったのか」と一雲の疑念が湧き起こることもあったのではないか。(このような想像くらいは許されるであろう。)孤独であることを余儀なくされた昔の預言者や、少数派であらねばならない現代のキリスト者の考え方や生き方が、誇大妄想や独善でないことを証明し担保してくれるものはいったい何なのか。私が聴いた(と思った)神の言葉(命令)が本当に神からの言葉なのか、そうではなく単に私の思惟がもたらした内なる声にすぎないのか。それはどうやって分るのか。 ■ 自分の死後に歴史がそれを証明するのを待つしかないのだろうか。否、ノアが生きていたその時に、この8人という家族の中にあって「確かにあれは神の声であった、私たちは使命を全うしよう」と確認できたからこそ、船を完成させることができたのではないだろうか。どうやって。確かに神は(人類の再創造のために)ノアを選んで彼に声をかけた。しかしそれはノア個人というよりも、ノアを家長とするするこの「家族」が、絶えざる祭壇(礼拝)と祈祷を通じて、神の義を実現させることを託されたのではないだろうか。そのための8人だったのではないか。 ■ ここに来て、このノア家という神の家族は、すなわち教会のことではないのだろうかとの思いに至る。主に在る真の家族とは、一切の虚飾を排して真摯に神を礼拝し、まずは縦の関係を確立させる。しかる後に、お互いの尊厳を認めたうえで、裸で率直に向き合う横の関係だと言えないだろうか。神の教会も、霊的な意味で、そうあらねばならないと思わされる。そうでないと、家族(教会)は集団的なレベルで、簡単に社会的な誤謬を犯すかも知れない。そのような事態に至れば、その罪は決して軽くはない。続く創世記9章で、箱舟から出た後のこの家族の失敗を見るとき、私たちキリスト者は、罪を犯さないロボットのようなものに「改造」されるのではなく、ただ神の照明(イルミネーション)の前にいる限りにおいて、その恵みの全幅に浴することができるのだとの啓示を得る。 |
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