英国の海洋戦略(1−2)
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1066年デーン人の末裔ノルマンディー公ウィリアムは、フランス・ノルマンディーから艦隊を編成して英国へ上陸し、軍事的行動と外交的駆け引きを駆使して遂にクリスマスの日にウェストミンスターで英国王冠を戴いた。いわゆるノルマンの征服であった。 英国の歴史は、征服王朝の歴史である。言語も歴史も異なる人々が征服することによって支配階級を構成した。その結果、階級差は言語、文化、仕草、体型等の違いで明白となる。 1337年から1457年にかけての百年戦争は、英プランタジネット家と仏カペー家との王朝の戦争であり、封建的戦争であり、商業の自由(羊毛と葡萄酒)を巡る国民的戦争であり、特に帝国主義的戦争であった。その後、ジャンヌ・ダルクの活躍もあって英国は敗北した。 この戦争は、英仏国民に国民的感情をもたらし、同時に憎悪の念を生じさせた。 この時代から国民性と地理上の位置から英国の国策の基調となる特徴が現れた。それは、 1 英国は、制海権を必要とし、それがなければ商業を続けることも、軍隊を大陸に送ることも、既に送った軍隊と連絡を保つこともできない。海軍が優勢を維持する限り、容易に勝利することができる。 2 英国は、比較的少数の軍隊しか大陸に送り得ないので、敵に対抗するため大陸における同盟の結成を試み、同盟者には援助金を供給する。 3 フランドルの羅紗製造業者達が渡英し、資本主義的企業が勃興することとあんり、商業が冒険好きの若者をより多く誘惑する時代となったことである。 英国は、百年戦争に負け、しかも内戦で無政府状態になったが、他国から侵寇されることのない島国の安心感を抱いた。すなわち、大陸国家から脱し、完全な島国になり、大陸の領土覇権闘争から離れて海外に目を向けざるを得なくなった。 英国王ヘンリー7世は、国民の未来が海にかかっていることを見通し、できるだけ航海を奨励し、自らも大船を建造し、それを商人に貸した。地中海では、ガレー船が軍艦、帆船は商船となっていたが、これに反して英国では軍艦と商船の区別がなく、すべて帆船であった。これは、ガレー船が大西洋の風浪に適していなかったことに加え、実利的な英国人が平和時に艦隊を商用に供し得ることを望んだためである。戦争となると王の命により、大工達は船首と船尾に楼を建てた。後にこの楼は常設のものとなった。ヘンリー7世は、その楼に大砲を据え付けた先覚者の一人であった。王は、ポーツマスに造兵廠を建設したり、海外遠征に資金を与えたり、外国船によるボルドー酒の輸入を航海条令によって禁止した。王は、海外市場の争奪が将来重要国策の一つになることを理解し、商業と海運を支持した。 参考:『将校教育資料 英国海軍史』海軍教育本部、1901年
箕作元八『西洋海事史』富山房、1923年 ジョージ・C・コーン『世界戦争事典』鈴木主税訳、河出書房新社、1998年 マイケル・ハワード『ヨーロッパ史と戦争』奥村房夫、奥村大作訳、学陽書房、1981年 |

yoku よく研究されたご親切なブログで、大変、勉強になりました。これからも,拝見させて頂きますので、よろしくお願い致します。heihoujyuku
2006/8/8(火) 午後 1:57 [ heihoujyuku ]
heihoujyuku様、ありがとうございます。英国の海洋戦略は、現代までを簡単に書いていきたいと思っています。よろしくお願いします。
2006/8/8(火) 午後 2:18 [ hiromichit1013 ]