京都を感じる日々★古今往来Part1・・・京都非観光名所案内

写真容量の関係で、過去の記事をかなり削除していますが、よろしくお願いします。

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信長の墓(本能寺・阿弥陀寺・大雲院・玉鳳院・総見院)

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織田信長のお墓は全国に20ヶ所以上あるようです。
墓所、廟所、供養塔などが数多く存在します。家臣の前田家、細川家、秀吉、信長の子孫、信長を知る僧侶等が供養塔を建てていったようです。
有名な和歌山県高野山の奥の院には、秀吉や明智光秀、その他大勢の大名家の墓の中に、信長の墓もあります。また、大阪府堺市には、南宗寺というお寺があり、信長や家康(実は家康は、大阪夏の陣で戦死してここに葬られたという伝説による墓)、千利休一族の墓があります。



さて、京都市内には、建勲神社など含めると墓所が7、8ヶ所あるそうですが、通常非公開の大徳寺総見院、妙心寺玉鳳院、大雲院。そして一般公開されている本能寺と阿弥陀寺の5つが良く知られています。
非公開寺院について少し・・
信長の墓所として資料的にはっきりしているのは、大徳寺総見院のようです。
ここは、豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔うために建立し、葬儀を執り行った寺院として知られています。
本能寺の変後の捜索でも、信長の遺体は発見されなかったため、信長の遺体の替わりに木像を2体造り、その1体は荼毘にふして葬り、1体は本堂に安置したと伝わります。
境内には信長公一族の墓があり、信好(信長十男)、信高(信長七男)、秀勝(信長四男)、信忠(信長嫡男)、信長、信雄(信長二男)、秀雄(信雄嫡男)の七基の五輪塔が並んでいて、また正室帰蝶(濃姫)、側室お鍋の方の墓もあるようです。


妙心寺玉鳳院には、織田信長・信忠親子の供養塔の他にも、武田信玄・勝頼親子などの供養塔、滝川一益の墓、豊臣秀吉の長男、鶴松の菩提を弔うお堂等があります。また、八坂神社と高台寺付近の大雲院は、ちらは、本能寺の変の際、二条城で戦死した、長男信忠の霊を弔うために建てられ、豊臣秀吉の京都区画整理により寺町通へと移転、その後、昭和に入って東山区の円山公園に移ってきたお寺です。
ここは信長・信忠の供養塔があります。ここは問い合わせて訪問できるようです。




さて、誰でも訪問できるのは有名な本能寺。
本能寺の信長公廟は、京都の歴史上の有名人のお墓の中では、霊山護国神社の坂本龍馬・中岡晋太郎その他幕末の偉人達の墓と共に、最も観光客の多い場所かもしれません。



本能寺の歴史を簡単に・・。
本能寺は、室町時代の応永22年(1415)日隆上人が油小路高辻に本応寺という寺院を創立したのが始まりで、後、永享5年(1433)に六角大宮に寺地を移して本能寺と改称されたようです。
その後、天文法華の乱で焼失ししますが、天文16、7年(1547、8)頃、四条坊門(今の蛸薬師)に再興されました。その後京都の法華宗の本山の一つとなり、当時は広大な寺域を占め、織田信長の仮宿所にもなりますが、天正10年(1582)6月2日に明智光秀の兵火にあい焼失します。
その後、信長の三男信孝が、父信長の廟を建てたために本能寺は再建されるのですが、豊臣秀吉の命令で、京都の区画整理がされたため、天正年間に現在の地(中京区寺町通御池下る)に移転再建されました。


現在の本能寺には信長の供養塔が建っていて、宝物館には、信長ゆかりの品々が所蔵されています。
信長の墓の他には、「本能寺戦没者合祀墓」があり、本能寺の変で戦死した森蘭丸ら家臣らの名前が記されています。(また、江戸時代の南画家、浦上玉堂父子の墓など、寺ゆかりの人物のお墓も多く並んでいます。)
(尚、「本能寺の変」当時の本能寺跡は、現在の中京区元本能寺南町の、1990年廃校となった本能小学校跡になり、入り口跡と、小学校の東北隅にも石碑が建っています。)
本能寺は、有名なので取りあえず訪問される方は多いかと思います。ここにあるイチョウの大木も京都市の保存樹で立派ですが、また別の機会に。



もうひとつのお墓は、阿弥陀寺にあります。

河原町今出川から寺町通を北上すると、右手に阿弥陀寺があります。
浄土宗の寺院で、天文年間(1532〜1554)に、清玉上人という僧が近江の坂本に創建した寺院で、信長の帰依を受け京に遷ったそうです。当初は西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川大宮東)に多くの塔頭を構えていたようです。



さて、清玉上人は織田家と深い親交があり、本能寺変の際に、いち早く本能寺に駆けつけて、信長、信忠父子及び家臣達の遺骸を本能寺裏の藪で荼毘にふしてその遺骨を収め、当寺に埋葬したといわれています。光秀が捜しても信長の遺骸を発見できなかったのはそのためと伝えられます。


その後、秀吉が、信長の一周忌を取り行おうと、阿弥陀寺の清玉上人に懇願したところ、秀吉のやり方を見ていると、信長亡き後の織田家を乗っ取る振る舞いのようだ、自分の権力を固めるために、信長の一周忌を利用しようとするなど、人の道に在らずと非難し、その様な者に荷担するわけにはいかないと断ります。断られた秀吉は怒って、新たに大徳寺に総見院を造営することになったというのです。
これは史実に近いものではとも考えられているようで、その後、天正十五年(1587)、権力を握った秀吉は、阿弥陀寺に対し恨みを晴らすように、蓮台野からこの地に移し、その所領を大きく削ったと伝えられています。こうして現在のような小さな寺域になってしまいました。

墓所には、信長・信忠父子の墓の他に、本能寺の変で討ち死にした家臣らの墓(前に紹介した森蘭丸、坊丸、力丸の三兄弟、その他、猪子兵助ら12名の家臣の墓があると伝えられています。)
これらはトタン塀の横にあり、少し可哀想な気がします。
本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置され、墓地には他に、儒者皆川淇園、俳人蝶夢の墓等があるようです。こちらの方は、信長ファン以外はほとんど訪問される人はいない場所です。


(大雲院の信長・信忠の供養塔の画像を追加しました。大雲院の沿革については別に書いています。)

(妙心寺・玉鳳院の信長・信忠供養塔の画像を追加しました。玉鳳院の沿革については別に書いています。)

(大徳寺・総見院の織田一族の墓(中央が信長)の画像を追加しました。総見院の沿革については
別に書いています。)

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