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死刑

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オウム事件の死刑囚は優先的に処刑すべきか?〜東京新聞の読者投書をみての懸念

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先月11月に、オウム真理教の元信者たちが実行犯とされる事件の
裁判の判決が結審し、中川智正被告と遠藤誠一被告の死刑判決が
最高裁で確定しました。

テレビ、新聞などのマスコミでこの報道はオウム事件の総括として
大きくとりあげられました。私が購読している東京新聞にも、2面にわたる
規模で事件の経緯などのまとめに関する記事が掲載されました。

それらの記事を読みながら、いまだに謎が多いこの事件を、犯人たちの
処刑で済ましてしまってよいのかな。それでは「臭いものにはフタ」という
法務官僚たちの思い通りではないだろうか、と私はぼんやり考えていました。

しかし数日後の12月2日、東京新聞の読者投稿ページ「声」欄に掲載された
ある読者の投書をみて、私の漠然とした思考は、たちどころに
明確な懸念、危機感へと変わったのです。投書にはこのような表現があったからです。



「どう考えてもオウムのような事件では弁護のしようがないと
万人が認めるところではないだろうか」

「刑が決まれば6ヶ月以内に執行しなければならないと決まっているそうだ。
法務大臣が法を守らないでどうする」



私は東京新聞がこの投書を掲載した理由がわかりませんし、ましてや
この投稿をした人(68歳男性)と同じような意見が、わが国でどのくらい
存在しているかを知る手がかりはありません。

しかし、もしこうした意見が人々の間に多いのであれば、私は深刻な危機感を覚えます。
その危機感を一言であらわせば、

「司法の世界に感情(主観や観念や印象)が入り込むことへの警戒感、拒否反応」

ということです。

地下鉄サリン事件は確かに未曾有の無差別殺人時事として、社会に大きな
衝撃を与えたことは間違いないでしょう。しかしその衝撃の大きさは
人々によって様々であり、受け止め方も被害者の遺族から、事件に関心を
もたなかった人にいたるまでは、それこそ千差万別であるはずです。

「遺族感情を考えれば死刑にせざるを得ない」などと声高に言う、遺族の人を
知りもしない人のことを私は絶対に信用しません。
他者が遺族の人と同じ感情になれるはずがないですし、勝手に遺族感情を
自分の感情と同じだと決め付けて、犯人を死刑にしたいという憂さ晴らしに
利用しているとしか思えないからです。

そのような多様性を無視して「オウムだけは弁護しようがない」という
主観的かつ独善的な見方でオウム関係の確定死刑囚を処刑するのだとしたら
感情的にはなってはならないからこそ、法律が定められてそれに基づいて
運用されるべき司法の中に、きわめて恣意的な雰囲気をもたらすことになります。

極端にいいましょう。戦前のドイツでは政権によってユダヤ人やロマの人々の迫害が
少なくともドイツの政権内では公的に認められていました。これはナチの主観であり
恣意的な発想です。そのためにどれだけ多くの人々が殺戮されたかは説明するまでもない。

ちょっと待て、ユダヤ人やロマの人々はオウムのような犯罪を犯していないぞ、
という声があるかも知れません。私もそれは承知しています。

しかしオウム事件の確定死刑囚は、現在日本で処刑されていないままに
拘置所(刑務所ではない)に収監されている他の犯罪による確定死刑囚と異なるだろうか。

刑事事件で他人の生命を毀損し、死刑判決が確定しているという点では同じはずです。
そこに優先順位をつけるということは、殺害された被害者の人々の生命に
区別をつけるといいうことに他なりません。

日本政府が死刑囚の執行に、事件の衝撃度という目に見えない「印象」によって
処刑の順番を恣意的に決めるのだとすれば、それは自分たちの勝手な見方によって
他人(ユダヤ人やロマ人)の生命の帰趨を決定したナチスの「最終絶滅計画」を
実行した人々と本質的には変わりません。

権力を持つものが、そのような恣意性を発揮することに、私は断固反対します。
その恣意性を放置しておけば、いつかはその刃が我々市民にも向かってくるという
危険性があるからです。

そしてもう一つの論点ですが、もし判決確定後6ヶ月以内に死刑囚を
処刑しなければならないという刑事訴訟法475条第1項を厳密に法律を遵守かつ
運用すべし、という観点をとるならば、現在収監されている130名の確定死刑囚で、
判決確定後6ヶ月以上が経過している死刑囚118名(12月6日現在)も、
すみやかに処刑しなければならないという理屈となるわけです。

このような大量処刑の想像をするだけでもおそるべきことですが、
もしそのことによって国内外の批判が起きたとしても、日本は国家として
絶対に正しいことをしているのだ、という自信が政治家や法務官僚にあれば
批判に臆することなく堂々とすればよいのだ。

しかしそんなことはできないでしょうし(できるはずがないと信じます)
できないことを認めるなら、この刑事訴訟法一つをとっても「努力目標」などという
抜け道が残されていることでもわかるように、制度そのものに欠陥があるということを
証明しているに他なりません。

国家の欠陥制度をそのまま放置しておくのであれば、それは政治家や
官僚たちの職務怠慢です。そうならないよう、真剣な議論を契機として
ただちに見直しをすることが彼らの職業的良心であるはずだ。


週刊ポストなどでもいわれているように、法務官僚たちは年内に、
すでに精神的に異常をきたいしているとされる麻原昇彰死刑囚の
処刑を済ませるための下準備を、先月の二人のオウム事件の結審によって
果たしたつもりなのではないか、と私は疑っています。
そのことによって、彼ら法務官僚は2011年中に死刑執行がされていないことの
「失地挽回」をはかるのではないだろうか。

法務官僚にとっては、他人の生命の帰趨を決める権力は、既得権益として
手放したくないものでしょうから、その行使がなされないことは
彼らにとって権力の行使ができないことに他ならない。

しかしそれは法務官僚の都合であって、再発防止の具体策も真相究明もなされていない事件を、
首謀者の処刑によってケリをつけてしまうやり方は、あまりに乱暴なやり口であり、
社会全体の役には立たないのではないかと私は考えます。

そして私は日本が民主主義の国家である以上は、そのような乱暴さが
恣意的に発揮されないように、一定の歯止めや抑止力をもつべきだと
危機感とともに考えています。



このブログでも何度か死刑問題については書きましたが、私は死刑反対の
価値観をもっています。しかしこの拙文は、そのような個人の価値観とは別に、
この国に住む一市民として、国家という暴力を警戒する者、という立ち居位置を
意識しながらしたためました。

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死刑賛成と、「被害者遺族感情」を利用して叫ぶ人を、私は決して信用しない

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2008年6月に起きた、秋葉原での通り魔殺人事件での一審判決が、3月24日に
東京高裁で出されました。

死刑判決というニュースは、地震のニュースの片隅で報道されました。
災害が起きていなかったら、トップ級の扱いだったのだろうか、と私は新聞を
読みながらそう思っていました。

事件のことについてはいろいろ論じません。
死刑反対論者として、あらためて意見をいうこともしない。
しかし一つだけいいたいことがある。

かつて私がこの拙ブログで死刑について述べたとき、

「被害者感情を考えれば死刑はやむをえない」

というコメントが寄せられたことがありました。
今回の判決でも、そのような声が出たかもしれない。

私は、犯罪遺族、被害者の人、家族や親類などの近い人、もしくは
同様な辛い経験をしたことがない人が、「被害者感情」という言葉を添えて、
この犯人を死刑にしろ!などと叫ぶ人を決して信用しません。

それは、被害者、遺族の感情など、少なくとも同じ経験をしていない人ならば、
決して皮膚感覚レベルでは理解できないと私は確信しているから。

私の感情は、たとえ自分の嫁さんでさえ正確に理解することができないと
確信していますし、反対に、私も他人の感情を、正確に理解できるはずはないとも
確信しています。

理解できると考えることは傲慢な勘違いであり、唯一理解できるとすれば、
十分に時間をかけた対話を経てからでなければ不可能だと信じているからです。

どんなに共感、同情したとしても、残された遺族の悲しみ、被害にあった人の
肉体的な痛みやトラウマは、同じレベルでは絶対に共有できない。

「遺族感情」「被害者感情」などと、わかったようなことをいって、
しかも死刑にしろ、と声をあげるのは、誰かを自分のはけ口にして
「やっちまえ!」という感情のために利用する、乱暴に言えば
火事場泥棒のようなものだと考えます。

寄り添う気持で、遺族、被害者の方々に同情を示すところまでで
それ以上の声をあげる、つまり勢いに乗って死刑にしろ!などと踏み込むことは
身の程知らずともいえるのではないか。

死刑賛成者が世の中に存在していることは仕方がないことです。
彼らが、少なくとも短期的には、私のような死刑反対論者の考えを変えられないように、
死刑反対論者も私の考えを変える事はできない。

しかし死刑賛成者は、もし自分が被害者や遺族の立場や、同じ経験をした人ではない限り、
「被害者感情」という言葉で、自らの立場を正当化してはならないのだと私は考えます。
それだけは慎まなければならない。

むやみに他人の感情を持ち出すことは、それ自体が他人への経緯を欠いた
冒涜行為であり、他人の感情を利用した、人間として不誠実な行為ではないか。

被害者、遺族の人たちが感情的になるのはそれは仕方がない。
しかし外側にいる者たちまでが感情的になってはいけない。

もし自分は被害者遺族感情を理解した上で死刑維持を訴える、という人が
いるとすれば、ひとときも家族や親しい者が失われた喪失を忘れることなく、
寄り添う気持ちを持ち続けるのでなければなりません。それができるなら
私はその人を信用します。

感情的にならず、冷静になってこそ、事件がなぜ起きたのか、
このような事件を起こさないためにはどうしたらよいのかを
考えることがはじめて可能になる、と私は考えています。

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日本の死刑制度の現状に対する提言〜廃止か存置かはともかく、まず改善を

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政治家の鳩山邦夫が年末のテレビ番組にて、
「本当なら30人〜40人は執行したかった」
「(宮崎勤を)生かしてたまるか、と思った」
などと、法務大臣の職にあったとは思えないほど、情緒丸出しのいまどきの
小学生でさえこのような稚拙になれるのだろうか、と思えるほどの
発言を行ったそうですが、一般人が居酒屋においてならともかく、
それが、理性が求められるはずの政治家によるものだったことをウェブ記事で
発見して、私は見てはならぬ醜悪なものを見てしまったような気持に
なりました。

もっとも私にいわせれば、テレビ、特に民法の大手局の番組というものは、
感情丸出しにして、大声、かつ派手で直情径行かつ乱暴なことをいうのが
基本方針ですから、そもそも理性的かつ冷静な議論などを期待するほうが
間違っているのかも知れない、とさえ思う。騒然たるボクシング会場で、
静かなピアノ曲が聞こえないじゃないか、と文句をいうようなものかもね。

そもそも死刑に賛成すること自体が、私にいわせれば感情に支配されて
いることの証左に他ならないですから、テレビで論じるにはうってつけの
話題なのかもしれない。つまり「悪い奴はやっちまえ!」という声を
出す上で格好の場所なのでしょう。

そのようなことをいうと、短絡的で複雑な思考に耐えられないゾウリムシのような
人がこのようにいうかも知れない。「感情論のどこが悪いのだ!」とね。
(ゾウリムシに失礼かな)

私は感情論のすべてを否定はしません。人間から感情を排除できないのは
当然のことです。そのくらい私のような脳みその持ち主でさえ理解している。
しかし、犯罪被害者の遺族や関係者は別として、そうでない人たちが感情論で
死刑賛成の意見を、それも「遺族感情」「応報感情」などの感情論を交えて
振りかざすのであれば、私はその人々を軽蔑し、そして傾聴するに値しない
唾棄すべきものとして考えます。そのような人たちは、自分たちの憂さ晴らしを、
被害者の人々の感情を利用し、搾取し、横取りしているにすぎない。

感情論は相互理解、意見の融和を遠ざけます。
それは死刑においては、廃止論、存置論のどちらでも同じことです。
感情を振りかざす人とは、短期的には理解しあえません。ですからここでは
ひとまず死刑廃止の議論はしない。

そこで死刑制度の現状をふまえた上で4つの提言を行います。

1.死刑囚の待遇改善
死刑判決が確定すると、執行までのいわゆる未決囚には、外部からの接触が
著しく制限されます。これは「死刑囚の心情を慮ったもの」とされていますが、
そんな配慮は人間の気持などを念頭に置いていない官僚幹部などが勝手に決めず、
死刑囚の人々が選択すればよいことであり、接見制限などを大幅に緩和すべきだ。
管理を徹底するためにそのような規制が厳しくなっているとすれば、それは
行過ぎた懲罰思想と官僚たちの利便性のためだけに基づくものだと私は
考えています。

2.死刑執行の情報公開をすすめる
昨今では、処刑当日の朝にいきなり死刑囚の房に係官がやってきて、
数時間のうちに執行されることを告げていきなり刑場に連行するそうです。
そして執行後に法務大臣が発表する。

なぜ正々堂々と執行しないのか。死刑制度があるのなら、堂々とコソコソせずに
執行すればよい。少なくとも執行するなら、事前に囚人はもちろん、家族や関係者に
事前通告し、そして犯罪遺族の関係者も含めて通知すべきです。
もし国家がうしろめたいことをしていないのであれば、そのくらいの変更は
できるはずです。結果的にコソコソ執行しているのなら、そんな後ろめたいのなら
とっとと廃止すべきなのです。

3.処刑の立会いを認める
「2.」でのコソコソやるな、という点に関連しますが、現在隠密に行われている、
つまりコソコソと行われている処刑を、犯罪被害者、司法関係者、報道関係者なども含め
立会いを認めるべきだ。もし死刑制度が、応報感情を理由として残されているのだとすれば
犯罪遺族が立ち会えないことは矛盾している。そして国民の税金を源泉として
囚人の管理から処刑までが賄われているのだとすれば、報道関係者によって
間接的であっても私たちにその様子が伝えられないのなら、情報公開義務という
観点からもおかしい。繰り返しますが、国家の制度として恥ずべきものでないのなら、
正々堂々とたとえ人数制限付であったとしても、公開すべきなのです。

4.法務大臣、裁判官、検察官が処刑を実行する
日本の処刑方法は絞首刑に限られていますが、処刑台に囚人を立たせ、
(歩行が困難な人には、刑務官が無理やり車椅子から立たせてロープを
首にくくりつけるそうですが)、拘置所の刑務官が3人でそれぞれのレバーを引き、
足元の板が開放され、ドスンと死刑囚が落ちて吊るされるそうです。

3人で引く、というのは刑務官の心理負担を軽減するためだそうですが、
そんなことがわかっている、つまりいやな仕事だとわかっているならば、
法務大臣自らがレバーをひけばよい。一人じゃ負担が大きいというのなら、
死刑判決を下した裁判官、そして死刑求刑をした検察官が共同で行うべきだ。
いやな仕事なら率先して引き受けるのが上司の役目です。
それが出来ないで、結果的にいやな仕事をおしつけているのだとすれば
その人間には威厳も誇りも丸っきり備わっていないのと私は考えます。

私はこの4つが実現できないようであれば、わが国の死刑制度は
正々堂々と行うことのできない、何らかのタブー意識を抱えたままに漫然と
行われている制度疲労を起こした行為であるとみなさざるを得ません。

そしてそのような制度を変える勇気を持たない人々のために、死刑囚や
拘置所の職員や、さらには犯罪被害者の遺族の人々までが、きちんと
対応されていないのであれば、それを放置してきた公僕どもの怠慢かつ
敬意を欠いた態度だとみなしています。

もちろん鳩山邦夫もそのうちの一人です。

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死刑のない社会へ〜日比谷公会堂大集会に死刑反対派として参加する

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12月19日の日曜日の午後。
日比谷公会堂で行われた死刑反対の集会に参加してきました。
14時半開始、終了は19時半という長丁場の集会でしたが、疲労はしたものの
ステージ上からのどのメッセージもたいへん興味深く、個人的に非常に大きな
刺激になったのです。

私は近隣の日比谷図書館には大学受験の浪人時代にしばしば通ったこともあり、
何よりも2ヶ月前には、私たち夫婦が日比谷公園内の松本楼にて結婚式をあげるなど
馴染みがある場所ですが、日比谷公会堂内に入るのは初めてのことです。
有楽町駅から地下道をA14出口まで歩き、会場にやってくると、入り口付近には
安田好弘弁護士がいました。この集会にやってきたのは、この人の影響に
よるところが大きいのです。

「こんにちは」と挨拶をすると、大柄な安田さんは「ああ、こんにちは!」と笑顔で
いってくださいました。この人は自分からは決して出ないというテレビなどに
たまたま映ったときには実に厳しい表情をしていますが、私がお目にかかるときには
実に柔和な表情をみせていることが多く、そのことがとても印象的です。

入り口前には、死刑囚の方々による絵画などが展示されていたので、見学しました。
いろいろな絵があります。とても明るいタッチの絵もあれば、暗いものもある。
精緻なものもあれば、拙さが感じられるものもある。私が思わずはっとしたのは、
ハンバーガーとサンドウィッチが描かれた拙いタッチの絵でした。
この人は、きっと拘置所(確定死刑囚は刑務所に収監されません。拘置所で刑を待ちます)
では出されることがない、ハンバーガーやサンドウィッチを夢見ているのだろうか。
だとしたら、生きたいという強い希望を持っているのではなかろうか。

開始30分前に到着したにもかかわらず、1階はほぼ満員。最前列の左端に、かろうじて
席をみつけました。満員の場内を見渡し、ああ、ここで1950年代にベルリンフィルの来日公演が
行われたのか、浅沼稲次郎が刺殺されたのもこの舞台上だったなあ、と雑感にふけりました。

まずは辺見庸さんの講演から。
「自分の声は届かないが、他人の声ばかりが聞こえる」現代の世の中において、一人一人の「心のバラスト」(より所)をどこに求めるのか。実は死刑反対を訴えている我々の中にも、千葉さん(景子。元法務大臣)という無意識がいるのではないか。それを目覚めさせてはならない、ということばが印象的でした。

弟を保険金殺人で殺された原田正治さん
今年2月に脳梗塞を患ったため、ことばに苦労されているとのことでしたが、
「被害者と加害者が出会える場を」とオーシャンという活動について力強く
説明と訴えを行っておられました。つい最近著作の「弟をお殺した彼と、僕」を
読んだばかりだったので、そのご本人が間近におられることに感慨を覚えました。

大島令子元衆議院議員
私のとなりに座っていたこの人が登壇して話をしました。原田さんの弟の殺害計画をした
死刑囚の長谷川さんの処刑後の遺体を引き取りにいったとき、棺をあけて遺体の写真を撮り、
マスコミに配布したが、結局使われなかった、とのエピソードには思わずため息がもれました。

その後、上々颱風(シャンシャンタイフーン)のライブ。
5曲が披露され、はじめて知るこのバンドにすっかり魅了されました。
「虐殺のバラード」には圧倒されました。チャップリンの「殺人協時代」を連想しました。
そのほかの曲からは、とても大きなエネルギーをもらったような気がしました。今度ライブに行きたいな。

講談師の神田香織さん。
講談ははじめてでした。和歌山カレー事件の林真須美さんに面会にいったときのエピソード、
そして子供たちが彼女のためにリクエストした話には、思わず胸が締め付けられる思いがしました。

神田さんの講談のあとには、様々な方々が登壇しました。

足利事件の菅家さん。
ひときわ大きな拍手を浴び、警察検察を許せないこと、そして冤罪の可能性がある以上、
死刑は廃止すべき、と力強く、心の叫びとも聞こえる訴えを行っていました。

免田事件の免田栄さん。
お名前は存じていましたが、85才ながら、とても元気で、かつ雄弁かつ説得力のある話し方に
大きな感銘を受けました。言っちゃ悪いが、今の人は心がない。私のときは刑務官が
再審手続きを手伝ってくれた、とおっしゃっていたのが耳に残ります。残りの人生を
廃止運動にかかわる活動につぎ込みたいとおっしゃっていました。

島田事件で死刑確定も、再審の結果、無罪として釈放された80歳の赤堀政男さん。
私の隣の席に座っていたおじいさんです。やや発音に苦労なさっていましたが、それでも
参加者に配られたメッセージをもとに、死刑囚として収監されていたときのこと、そして
冤罪かもしれぬ確定死刑囚の解放を強く訴えておられました。

家族3人を殺されながら、死刑廃止を主張する高貞元(コ・ジョンウォン)さん
韓国の原田正治さんのような方なのだろうか、と思いながら、学習中とおっしゃる日本語での
発言に聞き入っていました。

韓国東国大学の朴教授(パクビンショク)
日本で死刑廃止運動を学び、韓国に持ち帰って活動し、そして韓国では現在死刑が
事実上停止している。しかし日本は相変わらず存置されたままだ。どうしたのだ、といいたい、
という指摘に、日本に住む者として痛い部分を突かれたように思いました。
最後は穏やかな表情で、韓国にきてください。マッコリを飲みながら語りましょう、と
おっしゃっていました。

衆議院議員の村越拓民さん
死刑は、官僚などが手放したくない権力のより所だ。感情論はやめにしよう、という点に
共感しました。裁判員制度における、全員一致でない場合は死刑判決にさせないこと、
終身刑の創設などをうたっていました。
そして来年の集会には、袴田巌さんを連れてこられるよう尽力する、と宣言して
拍手を浴びていました(きっと、ちゃんとやってくれよな!という激励でしょう)

最後のシンポジウム。
安田さんの司会で、東京拘置所の医務官でもあった加賀乙彦さん、中山千夏さん、
そして私が大好きな森達也さん。

なぜ1990年に活動を立ち上げ、20年間廃止できなかったのかの反省、そして今後
廃止するためにはどうしたらよいか、というテーマにて語られました。

中山さんは、死刑反対なのは戦争反対と同じ。人を殺してはならないから、と、
そして森さんは、死刑執行する意味がまったく理解できないから、といっていました。

そもそも死刑の議論を行うにしても、前提となる知識すら乏しすぎるという森さんの意見、
安田さんの、麻原彰光も、他の人たちと同じように扱われねばならないという意見、
中山さんの、日本の知識層の人権意識は最悪で、人々の生命に無関心すぎる、という意見、
大きく頷きました。

最後の結論として、安田さんが、みなでそれぞれの立場で考えてみよう、森さんの
みなが周囲の人たちに伝える、独自のメディアになろう、という発言には勇気付けられました。

こうして充実した5時間が終わりました。私は隣の席から立ち上がった赤堀さんに
「ありがとうございました。お気をつけて」と声をかけると、赤堀さんは、満面の笑みで、
「いやあ、ありがとうね。元気でね」と私の肩をポンポンと叩きました。やさしそうな
おじいちゃんだな。しかしこのおじいちゃんも、34年間死刑囚として死の恐怖に怯え、
社会に復帰してもいまだに名誉が回復されていないと考えているのだなあ、と
付き添いの方と立ち去る赤堀さんの背中をみながら、そう思いました。

とても充実した気分を確実に抱いていたものの、あまりに多くの話を聞いて、
会場を出てから有楽町方面に歩く私の頭の中は、うまく整理がつきませんでした。

ようやく整理がつきましたが、私はこれまで考えてきたこと、つまり死刑反対の
立場は変わりません。

そして今回あらためて思うのですが、死刑賛成派は、それだけで感情に支配されている
要素が大きいのです。それは、死刑賛成の人々が「遺族感情」を持ち出すことでも
容易に想像できます。
(もっとも、自分が幸運にも犯罪被害にあったことのない人が、「遺族感情」などと
いうのだとすれば、私に傲岸不遜な要素を見出し、そのような人は決して信用できません。
ネコでもないのに、ネコの気持が絶対にわかるという人間のようなものだと考えるからです)

ですから、戦略的な要素として、もし彼らと話すときがあるとすれば、決して感情の虜囚に
なってはならないと考えます。

そしてもう一つ、この死刑廃止問題というのは、人権問題として掲げるとすれば、
官僚どもには効果をもたないのではないかと思う。なぜなら、官僚たちには、
特に法務官僚の上層部には、人間一人一人の命、という感覚が欠落している、
つまり欠陥状態であると私は考えているから。

そのような相手には、事業仕分けのような、テクニックの問題としてしか
通用しないように思うのです。つまり公務員のリストラの一環として、彼らの
既得権益である死刑という手段を奪い取る。

そうした戦略の組み立てをするしかないのかな、でも具体的にはどうするのかな、
と考えたところで、私は家内と待ち合わせた、ビックカメラ有楽町店地下の
中華料理小洞天の入り口に到着しました。

料理を注文してから、「今日はどうだったの?」と聞く家内に、私はできるだけ
聞きやすいように要点をまとめつつ話をしてみました。

森さんの、「みんながメディアになり、周囲の人に伝えてゆこう」ということばを
思い出しながら。

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死刑賛成の人にぜひ読んでほしい

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たびたびこのブログでも書いていますが、私は死刑制度に反対です。
このことは私の価値観に深く関係することですが、私と異なる価値観を
もつ人が存在することは承知していますし、その人の価値観を、魔法使いが
棒をフッとふって変えるようなマネなどできないことも理解していますから、
死刑制度に賛成の人がいても仕方がないと思う。

秋葉原の連続殺傷事件の裁判が現在行われています。11月9日の公判では
息子を殺された父親が、加藤被告にこのように詰め寄ったそうです。

「加藤、よく聞け。俺はトラックではねられた川口隆弘の父親だ。
俺の息子がどんなに苦しい思いで死んでいったか。俺はお前を絶対に
許すことはできない」

「世の中には死刑に反対する人もいますが、それは身内を殺されたことがなく、
遺族の苦しみをわからない人だと思います。
裁判長、極悪非道の加藤をぜひ死刑にしてください」

(「ザジャーナル」篠田博之の「メディアウォッチ」より)
http://www.the-journal.jp/contents/shinoda/2010/11/11.html

私は心情としてこの犠牲者の父親の気持は理解できます。
辛く、やり場のない怒りがおさまらないことも十分に理解できます。

しかしだからといって、私は死刑反対という自分の価値観を変えられません。

死刑賛成の人にぜひ下記の文章を読んでほしい。
もし、あなたが死刑に賛成する理由が、「遺族感情に配慮する」というもので
あるのなら、そして私と同じく幸運なことに、あなたが死刑に相当するような罪状による
犯罪によって家族や友人など近しい人を殺された経験がないのなら、ぜひ下記の一文を読んで
もう一度考えてみてください。


弟を殺された原田さんは、死刑制度に反対している。
三重県伊賀上野町の駅前で死刑反対のビラを配っていた時、一人の男がつっかかってきた。
「あんたらは、被害者の遺族の気持ちを考えたことがあるのか」
言われた人は原田さんを紹介し、
「こちらの方は、弟さんを殺された被害者のご遺族です」
文句を言ってきた男は一瞬たじろぎ、「あ、電車が来た」といって
逃げ出してしまった。

原田さんはこういっている。
「被害者遺族の気持ちを考えたことがあるのか」といいますが、彼らもまた
考えたことはないのです。一方的に「被害者遺族は怒りに凝り固まって
死刑を望んでいる。」と決めつけているのだと思います

月刊「創」12月号の鈴木邦夫氏の連載「言論の覚悟」にて、
「怨み、憎しみ、そして赦し」として紹介されているものです。
(原田さんは、シスター・プレジャンの来日時に、共に講演もしています)

犯罪で悲劇に見舞われた人にもいろいろな人がいる。
その人を知りもしないで、勝手に自分だけのステレオタイプの見方が
正しいのだときめてかかるのだとすれば、私はその姿勢をもっとも軽蔑しますし、
忌むべきものと考える。上記の伊賀上野駅でつっかかってきた人のような者は
他人の不幸を、自分の憂さ晴らしの感情を正当化するために利用しているに
すぎないのだと私は考えます。

原田さんの意見をきいいきなり賛成から反対に変わらない人もいるでしょう。
(むしろそんな人がいればよほど適当に考えていたことになるでしょうからね)
しかし余計なお世話を承知でいいますが、、もし何か思うところがあるならば、
ぜひ今後も死刑制度について考え続けてみてはいかがでしょうか。

ちなみに私の死刑に対する考えは、映画「デッドマン・ウォーキング」を見たこと、
原作者のシスター・ヘレン・プレジャンの講演録を読んだこと、弁護士の
安田好弘氏の話を聞いたこと、イスラエルで娘を自爆テロで亡くした男性の
ことばに衝撃を受けたこと、そして弟を殺されたのに、犯人として死刑判決を
受けた囚人の死刑反対活動を行った原田正治さんを知ったことなどに
影響を受けて形成されています。

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