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先月11月に、オウム真理教の元信者たちが実行犯とされる事件の
裁判の判決が結審し、中川智正被告と遠藤誠一被告の死刑判決が
最高裁で確定しました。
テレビ、新聞などのマスコミでこの報道はオウム事件の総括として
大きくとりあげられました。私が購読している東京新聞にも、2面にわたる
規模で事件の経緯などのまとめに関する記事が掲載されました。
それらの記事を読みながら、いまだに謎が多いこの事件を、犯人たちの
処刑で済ましてしまってよいのかな。それでは「臭いものにはフタ」という
法務官僚たちの思い通りではないだろうか、と私はぼんやり考えていました。
しかし数日後の12月2日、東京新聞の読者投稿ページ「声」欄に掲載された
ある読者の投書をみて、私の漠然とした思考は、たちどころに
明確な懸念、危機感へと変わったのです。投書にはこのような表現があったからです。
「どう考えてもオウムのような事件では弁護のしようがないと
万人が認めるところではないだろうか」
「刑が決まれば6ヶ月以内に執行しなければならないと決まっているそうだ。
法務大臣が法を守らないでどうする」
私は東京新聞がこの投書を掲載した理由がわかりませんし、ましてや
この投稿をした人(68歳男性)と同じような意見が、わが国でどのくらい
存在しているかを知る手がかりはありません。
しかし、もしこうした意見が人々の間に多いのであれば、私は深刻な危機感を覚えます。
その危機感を一言であらわせば、
「司法の世界に感情(主観や観念や印象)が入り込むことへの警戒感、拒否反応」
ということです。
地下鉄サリン事件は確かに未曾有の無差別殺人時事として、社会に大きな
衝撃を与えたことは間違いないでしょう。しかしその衝撃の大きさは
人々によって様々であり、受け止め方も被害者の遺族から、事件に関心を
もたなかった人にいたるまでは、それこそ千差万別であるはずです。
「遺族感情を考えれば死刑にせざるを得ない」などと声高に言う、遺族の人を
知りもしない人のことを私は絶対に信用しません。
他者が遺族の人と同じ感情になれるはずがないですし、勝手に遺族感情を
自分の感情と同じだと決め付けて、犯人を死刑にしたいという憂さ晴らしに
利用しているとしか思えないからです。
そのような多様性を無視して「オウムだけは弁護しようがない」という
主観的かつ独善的な見方でオウム関係の確定死刑囚を処刑するのだとしたら
感情的にはなってはならないからこそ、法律が定められてそれに基づいて
運用されるべき司法の中に、きわめて恣意的な雰囲気をもたらすことになります。
極端にいいましょう。戦前のドイツでは政権によってユダヤ人やロマの人々の迫害が
少なくともドイツの政権内では公的に認められていました。これはナチの主観であり
恣意的な発想です。そのためにどれだけ多くの人々が殺戮されたかは説明するまでもない。
ちょっと待て、ユダヤ人やロマの人々はオウムのような犯罪を犯していないぞ、
という声があるかも知れません。私もそれは承知しています。
しかしオウム事件の確定死刑囚は、現在日本で処刑されていないままに
拘置所(刑務所ではない)に収監されている他の犯罪による確定死刑囚と異なるだろうか。
刑事事件で他人の生命を毀損し、死刑判決が確定しているという点では同じはずです。
そこに優先順位をつけるということは、殺害された被害者の人々の生命に
区別をつけるといいうことに他なりません。
日本政府が死刑囚の執行に、事件の衝撃度という目に見えない「印象」によって
処刑の順番を恣意的に決めるのだとすれば、それは自分たちの勝手な見方によって
他人(ユダヤ人やロマ人)の生命の帰趨を決定したナチスの「最終絶滅計画」を
実行した人々と本質的には変わりません。
権力を持つものが、そのような恣意性を発揮することに、私は断固反対します。
その恣意性を放置しておけば、いつかはその刃が我々市民にも向かってくるという
危険性があるからです。
そしてもう一つの論点ですが、もし判決確定後6ヶ月以内に死刑囚を
処刑しなければならないという刑事訴訟法475条第1項を厳密に法律を遵守かつ
運用すべし、という観点をとるならば、現在収監されている130名の確定死刑囚で、
判決確定後6ヶ月以上が経過している死刑囚118名(12月6日現在)も、
すみやかに処刑しなければならないという理屈となるわけです。
このような大量処刑の想像をするだけでもおそるべきことですが、
もしそのことによって国内外の批判が起きたとしても、日本は国家として
絶対に正しいことをしているのだ、という自信が政治家や法務官僚にあれば
批判に臆することなく堂々とすればよいのだ。
しかしそんなことはできないでしょうし(できるはずがないと信じます)
できないことを認めるなら、この刑事訴訟法一つをとっても「努力目標」などという
抜け道が残されていることでもわかるように、制度そのものに欠陥があるということを
証明しているに他なりません。
国家の欠陥制度をそのまま放置しておくのであれば、それは政治家や
官僚たちの職務怠慢です。そうならないよう、真剣な議論を契機として
ただちに見直しをすることが彼らの職業的良心であるはずだ。
週刊ポストなどでもいわれているように、法務官僚たちは年内に、
すでに精神的に異常をきたいしているとされる麻原昇彰死刑囚の
処刑を済ませるための下準備を、先月の二人のオウム事件の結審によって
果たしたつもりなのではないか、と私は疑っています。
そのことによって、彼ら法務官僚は2011年中に死刑執行がされていないことの
「失地挽回」をはかるのではないだろうか。
法務官僚にとっては、他人の生命の帰趨を決める権力は、既得権益として
手放したくないものでしょうから、その行使がなされないことは
彼らにとって権力の行使ができないことに他ならない。
しかしそれは法務官僚の都合であって、再発防止の具体策も真相究明もなされていない事件を、
首謀者の処刑によってケリをつけてしまうやり方は、あまりに乱暴なやり口であり、
社会全体の役には立たないのではないかと私は考えます。
そして私は日本が民主主義の国家である以上は、そのような乱暴さが
恣意的に発揮されないように、一定の歯止めや抑止力をもつべきだと
危機感とともに考えています。
このブログでも何度か死刑問題については書きましたが、私は死刑反対の
価値観をもっています。しかしこの拙文は、そのような個人の価値観とは別に、
この国に住む一市民として、国家という暴力を警戒する者、という立ち居位置を
意識しながらしたためました。
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