アメリカよもやま話

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市民権運動とキング牧師

 大学院のクラスでは、今年度は市民権運動をテーマにしています。後期には、川島正樹著『アメリカ市民権運動の歴史』(名古屋大学出版会、2008年)をテキストにして、受講生とともに読み進めています。600頁を越える大著で、著者の長年にわたる研究の成果が蓄積されています。

 市民権運動は、Civil Rights Movementsの邦訳語です。「市民権運動」という訳語よりも、一般には「公民権運動」として知られているかもしれません。市民権運動と公民権運動というふたつの訳語は、ほぼ同義で使われる場合もあります。しかし、ふたつの訳語を厳密に使い分けることもあります。その場合、公民権は、「公民(citizen)」として政治に参加する権利、すなわち選挙権や被選挙権を指します。これ対して、市民権は、市民としての行動、思想、財産の自由が保障される権利、根源的には生存の権利(生存権)を含むものと見なされます。

 『アメリカ市民権運動の歴史』の著者は、ふたつの訳語を使い分けています。そのうえで、この本では一貫して「市民権運動」という語が使われています。運動に参加した黒人たちが、参政権の獲得だけにとどまらず、と言うより、むしろ参政権云々以前に、まずアメリカ社会のなかで人間らしい生存をまっとうする権利を求める必要があったことが、明確に伝わってきます。

 原語が複数形の Movementsであることが示すように、市民権運動とは、ひとつの運動を指すわけではなく、一連の社会運動の総称です。具体的には、主として南部各地で繰り広げられた、アフリカ系アメリカ人(黒人)に対する差別の撤廃を求めた運動です。非暴力を旨とし、大衆による直接行動、たとえばボイコットやデモ行進を主な手段としていたことが特徴です。

 市民権運動---あるいは公民権運動---というと、多くの人がまず想起するのは、マーティン・ルーサー・キング(Martin Luther King, Jr.)牧師や、彼の有名な名演説「私には夢がある(I have a dream)」かもしれません。ノーベル平和賞の受賞者でもあるキング牧師は、アメリカ史上に登場する黒人のなかでは、日本人にもっともよく知られている人物のひとりです。「私には夢がある」は、すぐれた演説家としてキング牧師の名を後世に伝えることになりました。この演説は、1963年8月28日、首都ワシントンに20万人以上の人々を動員したワシントン行進のクライマックスとして記憶されています。日本では、高校の英語教科書で、この演説の抜粋が教材として使われていたこともあるようです。高校の英語の授業で、キング牧師を知ったという学生が何人もいました。

キングは、1929年にジョージア州アトランタで、牧師の長男として生まれました。成績優秀で、15歳にして飛び級でアトランタのモアハウス大学に入学。19歳でこの大学を卒業し、ペンシルヴェニア州のクローザー神学校、ボストン大学神学部大学院で神学を修めます。ボストンで知り合ったコレッタ・スコット(Coretta Scott)と結婚して、ボストン大学大学院での勉強を終えると、アラバマ州モントゴメリーにあるデクスター街バプティスト教会に牧師として赴任します。1954年のことでした。

 1954年は、連邦最高裁判所が、公立学校における人種別学を憲法違反であるとした判決(ブラウン判決)が出された年です。アメリカ合衆国では、1896年に出されたプレッシー判決で、「分離すれども平等(Separate but equal)」という最高裁の判断が示されてから半世紀以上もの間、人種分離が合憲であると見なされてきました。その意味で、公立学校における人種別学を違憲としたブラウン判決は、画期的な判決でした。この判決によって、差別撤廃を求める運動に弾みがつくことになりました。

 ブラウン判決を契機に、人種差別撤廃を求めた抗議攻撃の対象になったもののひとつが、
バスや路面電車における差別待遇でした。同一料金を支払って乗車しているにもかかわらず、黒人は乗り降りに不便な後ろの席にしか座ることができず、しかも白人席がいっぱいになった場合には黒人用の座席も白人譲らなければならない。このような差別的な待遇は、当時の南部ではごく日常的でした。こうした差別待遇が改善されるまで、バスには乗らないという、黒人大衆によるバス・ボイコットが、ブラウン判決の翌年に大規模に展開されることになったのは、自然な成り行きであったと言えるでしょう。

 1955年12月1日、黒人女性ローザ・パークス(Rosa Parks)が座席を譲ることを拒み、地元の警察に逮捕されました。これを受けて、12月5日にバス・ボイコットが始まりました。当初は1日だけのボイコットとして企画されましたが、結果的には、翌1956年12月に、州と市、およびバス会社に対して、連邦最高裁による人種隔離禁止令が出されるまで続くことになりました。1年間にわたる劇的なバス・ボイコット闘争の舞台となった地は、アラバマ州モントゴメリー。ボイコット開始の前年に、25歳のキング牧師が初の赴任地として選んでいた都市でした。

 むろん、モントゴメリーに赴任した当初のキングは、1年後に開始され、全国的に有名になり、後に歴史に名を残すことになるモントゴメリーのバス・ボイコットを予見してはいなかったでしょう。しかし、ボイコットに牧師としてかかわったことで、無名の若き牧師キングは、カリスマ的な指導者としてその名を全米に知らしめるようになりました。

 モントゴメリーのボイコットが勝利した翌1957年、この後の市民権運動を主導する地域を越えた運動組織、南部キリスト教指導者会議(Southern Christian Leadership Conference、略称SCLC)が結成されました。アトランタのエベネザー・バプティスト教会---キングの父親の教会---で結成されたSCLCの議長には、キングが就任しました。以後、キングはこの組織を率いて、南部各地で、差別撤廃を求めるさまざまな運動を展開していきます。

 指導者としてのキングの名を歴史に刻んだ運動としては、前述のワシントン行進(1963年8月)のほかにも、ジョージア州オルバニーを舞台とした闘争(1962年)、アラバマ州バーミングハムの闘争(1963年)、アラバマ州セルマの闘争(1965年)などがあります。いずれにおいても、キングは卓越した指導者としての本領を発揮しています。

 キングというカリスマ的な指導者の活動を軸に、アメリカ市民権運動の歴史を語ることは、アメリカ黒人史の講義で、学生にわかりやすく運動の展開を伝えるためにはある程度有用です。講義では、南部各地で同時多発的に展開していた様々な運動を整理して伝える必要があるからです。けれども、自戒を込めて私が学生に伝えようと努めていることは、市民権運動が、南部各地で展開された複数の運動(movements)であり、ひとりのカリスマが導いた運動ではなかったという点です。もう少し大きな枠組みで言えば、歴史とはひとりのカリスマによって形作られているのではないということです。

 

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