戸板康二は、私の歌舞伎鑑賞の師匠である。といっても、もちろん会ったこともない。書物を通して、こちらで勝手に私淑しているだけだ。まあ、平田篤胤が本居宣長死後の門人を名乗ったようなものである。
そもそも、歌舞伎は伝統芸能であるから、それなりの作法や鑑賞の手引が必要だというのは事実だ。かつては三木竹二や杉贋阿弥、三宅周太郎の著作がそういった手引としての役割を果たしてきたのだが、私のような歌舞伎初心者にはこれらは少し高踏だ。そんな中、まさに時宜にかなった出版として、戸板康二の著作が相次いで復刊・文庫化されたのは嬉しい限りだった。
『歌舞伎への招待』(岩波現代文庫)は、「花道」「女方」「おどり」といった歌舞伎の基本タームを手掛かりに歌舞伎を「異邦人の鑑賞眼」で解説しており、『続歌舞伎への招待』(岩波現代文庫)は「梅王丸」から「切られ与三郎」まで代表的な歌舞伎の登場人物を名優たちの芸談を手掛かりに解説していて、両書とも単なる入門書ではなく、読めば読むほど行間に筆者の歌舞伎理解の奥深さと含蓄が感じられてくるありがたい本である。
一方、『歌舞伎の話』(講談社学術文庫)は、やや毛色が違う。これは「現代文化における歌舞伎の位置」という命題を追及したものだが、驚くべきことに、ここで説かれているのは一種の「歌舞伎滅亡論」なのである。
つまり、本来歌舞伎とは役者が役の外形を作り上げ、それを観客が無条件に受け入れるという、いわば信仰に近い、役者と観客の結びつきによる美学であったのだが、それが明治以降には基本的に失われてしまったというのが筆者の見解なのである。
だとするならば、我々はもう近世人がそうしたように歌舞伎を見ることはできないことになる。それでも歌舞伎を見るということは、どのような意味があるのだろうか。
筆者はそれを娯楽であり、かつ「教養」だという。こういう姿勢は、今日のような教養無き時代には、実に清々しいと思う。そして、現代人が「教養」として歌舞伎を鑑賞する際の、最初の姿勢として「異邦人の鑑賞眼」を用意しているのだから、戸板康二の手練手管は、実に小憎らしいばかりの用意周到さだといえるだろう。
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