◆ 歌 舞 伎 素 人 講 釈 ◆〜私の観劇ノート〜

映画「歌舞伎役者 片岡仁左衛門」上映会は大成功のうちに終了しました。ご来場の皆様、ありがとうございます。

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2005年7月9日

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左團次の目じり―高島屋三代共演『新版色相方』

 市川左團次、男女蔵、男寅の祖父親子三代共演の「新版色相方」は、なんとも言えないほのぼのとした舞台だった。

 左團次の駕籠かき次郎作実は石川五右衛門、男女蔵の駕籠かき与四郎実は真柴久吉は、さすが親子だけあって、息の合った踊りっぷりだ。特に住吉踊りの所作での呼吸の合い具合は、見ていて気持ちが良かった。
 そして、男寅の禿ゆかりは、はたしてこれがあの左團次の孫かと思うほどの可愛らしさ。ただ、声はまだ男の子の声だ。
 とにかく、男寅は懸命に踊ろうとしている。当然、出来はまだまだ。だから、なかなか決まらない。だが、それでも懸命に振りを決めようとしている。それがあまりに健気なので、ますます、可愛く感じるのである。
 それを横で見ている左團次の目じりは、終始、下がりっぱなし。だから、石川五右衛門にしては、なんとも迫力不足で、大泥棒というより、すっかり一人の好々爺の顔になってしまう。
 だが、それは見ていて、かえって好感が持てた。

 とにかく、高島屋の今を寿ぐ、そんな、見ているほうも、すっかり好い気分にさせる舞台だった。
(於NHK教育『芸能花舞台』再放送、七月九日所見)

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教養としての歌舞伎―戸板康二『歌舞伎への招待』、『続 歌舞伎への招待』、『歌舞伎の話』

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戸板康二は、私の歌舞伎鑑賞の師匠である。といっても、もちろん会ったこともない。書物を通して、こちらで勝手に私淑しているだけだ。まあ、平田篤胤が本居宣長死後の門人を名乗ったようなものである。

 そもそも、歌舞伎は伝統芸能であるから、それなりの作法や鑑賞の手引が必要だというのは事実だ。かつては三木竹二や杉贋阿弥、三宅周太郎の著作がそういった手引としての役割を果たしてきたのだが、私のような歌舞伎初心者にはこれらは少し高踏だ。そんな中、まさに時宜にかなった出版として、戸板康二の著作が相次いで復刊・文庫化されたのは嬉しい限りだった。
 『歌舞伎への招待』(岩波現代文庫)は、「花道」「女方」「おどり」といった歌舞伎の基本タームを手掛かりに歌舞伎を「異邦人の鑑賞眼」で解説しており、『続歌舞伎への招待』(岩波現代文庫)は「梅王丸」から「切られ与三郎」まで代表的な歌舞伎の登場人物を名優たちの芸談を手掛かりに解説していて、両書とも単なる入門書ではなく、読めば読むほど行間に筆者の歌舞伎理解の奥深さと含蓄が感じられてくるありがたい本である。
 一方、『歌舞伎の話』(講談社学術文庫)は、やや毛色が違う。これは「現代文化における歌舞伎の位置」という命題を追及したものだが、驚くべきことに、ここで説かれているのは一種の「歌舞伎滅亡論」なのである。
 つまり、本来歌舞伎とは役者が役の外形を作り上げ、それを観客が無条件に受け入れるという、いわば信仰に近い、役者と観客の結びつきによる美学であったのだが、それが明治以降には基本的に失われてしまったというのが筆者の見解なのである。
 だとするならば、我々はもう近世人がそうしたように歌舞伎を見ることはできないことになる。それでも歌舞伎を見るということは、どのような意味があるのだろうか。
 筆者はそれを娯楽であり、かつ「教養」だという。こういう姿勢は、今日のような教養無き時代には、実に清々しいと思う。そして、現代人が「教養」として歌舞伎を鑑賞する際の、最初の姿勢として「異邦人の鑑賞眼」を用意しているのだから、戸板康二の手練手管は、実に小憎らしいばかりの用意周到さだといえるだろう。

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開設日: 2005/7/5(火)


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