星谷 仁のブログ

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前の日記の最後にちょっと触れたが、この本はOhrwurmさんのブログ【自然観察者の日常】で紹介されているのを読んで読んでみたいと思っていたもの。

《いまの日本には「自然との共生」という言葉があふれかえっている。普段は正面切って問われることもない「自然との共生」が内包する矛盾をあらためて提示し、私たち人間の真実の姿を認識しなおすことが本書の目的である。(「はじめに」より/P.4)》

という内容の本だが、読みやすく、刺激的で興味深い内容だった。
21項目のエッセイ(+はじめに&あとがき)で構成されている。

渡良瀬遊水池・ビキニ環礁・チェルノブイリ──人が姿を消したところに豊かな自然が復活した例をあげて「(人と)自然との共生」という概念に疑問を投じるところから本文は始まっている。
人の歴史は自然破壊の歴史であって、昨今さかんな環境保全運動は個人的自己満足を得るためのノスタルジーでしかない──というようなことが記されている。

「へえ」「なるほど」とうなずいたり共感する部分も多かったが、「うまい論理展開だな」と感じるにとどまる部分もあった。
読者にイメージをわかりやすく伝えるための構図化が、ちょっと強引に感じられる箇所もあったからだ。

冒頭の、人の長期不在によって復活した自然の例は衝撃的で説得力もあったが、逆の現象──人の手が入らなくなったことで廃れて行った自然というのもあるのではないか? そう考えて里山の荒廃が思い浮かんだが、この里山について、著者・高橋氏は次のように説明している。

《里山はいまや「自然との共生」の主要舞台となっている。しかしそもそも里山とは、手つかずの自然が人間によって破壊され尽くした、なれの果ての場所である。(P.19)》

里山は人が「自然を利用して作った場所」であり、そういった意味では「本当の自然」ではない。しかし生態系は活性化しむしろ充実しているようにも見える。それを「破壊され尽くした、なれの果ての場所」という表現を使って「人の介入=自然破壊」という構図を印象づけようとしている。わかりやすいと言えばわすりやすいが、いささか強引な気がしないでもない。

高橋氏の考えでは「自然との共生」や「里山保全運動」は「個人的な郷愁を保全しようとしているに過ぎない」という認識のようだ。里山風景やそれを保全したがる人の心理について語っている部分をいくつか引用すると↓。

《自分が親しかった風景、そこで自分が育まれ、自分を支えてくれていたと感じる風景(自然)の喪失に伴う生存への不安だ。これを郷愁に基づく不安と呼んでも良いだろう。(P.20)》

《「自然との共生」における原風景はあくまでも人によって異なるものであり、誰もがこれが本当の里山の風景であるという共通するモデルを持っているわけではない(同じ年齢層は良く似た原風景を共有しているが、だからといってそれが万人に通じるスタンダードではない)。それぞれが勝手に自分が理想とする自然を思い描いて、それを自然保護と結びつけて万人の義務であるかのように主張しているにすぎないのだ。(P.20〜P.21)》

(保全運動を)《自然や子どものためにやっているのではなく自分の郷愁のためにやっているのだが、当人たちはそのことにまったく気づかず、自分はまさに自然との共生を実現する正義の士であると思い込んでいる。(P.21)》

《自然との共生とは、まさに「自分にとって懐かしい自然、自分にとって個人的に重要な自然をとっておきたい」という、まことに自己中心的な利己的欲望なのだ。(P.83)》

里山の風景は郷愁と結びつく。だから里山保全を郷愁の保全だとみる指摘は当たっていると僕も思う。
ただ、その「郷愁」は高橋氏が指摘するように個人的な次元のものにすぎないのだろうか?
「郷愁」=「個人的」→「自己中心的な利己的欲望」
という構図には決めつけがあるのではないか。

前の日記【身近な自然:里山】で綴った通り、「里山への郷愁」は(単に個人のものではなく)「万人に共感しうる郷愁」だと僕はとらえている。里山で育った人達が「郷愁」を感じるのはもちろんのことだが、里山を知らない国や時代に育った人であっても、里山につれてくれば「郷愁」のようなものを感じることができるはずだ(と僕は思っている)。
人工物に囲まれて生活している人間であるなら「身近な自然」を感じさせる風景には共感を覚えるはずだ──と考えているからだ。

「万人に共感しうる」などと言ってしまうと、これも決めつけになってしまうかもしれないが……「多くの人に共感しうる郷愁」であるなら(であるから)、これは「自己中心的な利己的欲望」ではなく、多くの人の共通利益・公的財産としての価値をもつといえる──ゆえに里山保全には公共的な意義があると僕は考えている。

(僕の感覚で言えば)「里山を残したい」という思いは単に(学術的な?)「自然保護」という意味合いではない。(人工物に囲まれた生活を送っている)人が自然を感じることができる身近な環境──というところに意味があるのだ。自然との接点・自然と触れ合える場所であるということが重要なのである。

高橋氏はこうも述べている──、

《さらに付け加えておけば、保護のためにある地域が全面立ち入り禁止になったり、あるいは対象種の捕獲や売買が全面的に禁止されたりすると、彼ら活動家はあわてふためいたり憤慨し始めたりする。こうして彼らは、生物のためではなく、結局は自分たちの郷愁や趣味のために保護活動をやっていたことを身をもって証明してしまう。(P.40)》

この指摘もある意味当たっていると思う。「自然」を人から隔離して守ることができたとしても、ふれあい実感できる場でなくなってしまったとしたら、それは多くの人にとって存在する意味が無いに等しい納得しがたいことだろう。
学術的には隔離してでも保護すべき自然もあると思うが、それは里山を保全したいと考えている人達の思いとはまた次元の話だと思う。

ということで、身近な自然としての「里山」を保全する意義はある──と僕は考えている。
ただ、保全したいという思いに正当性があったとしても、実際にそれを残していけるかどうかはまた別問題だ。
里山が人間の生活と結びつき機能していた時代と今では社会情勢が違う。機能を失った里山を人の「郷愁」のために残していくことができるものなのか……里山を維持管理するには当然コストや人手もかかるはずで、こうした問題が解決しなければ、いくら望んでも里山は残せない。

僕は保全運動に関わった事はないので、ここからは憶測なのだが……「保全」を実現するためには資金や人手が必要になってくるはずだ──しかし人々の「郷愁」のためだと(正直に?)主張していたのでは社会的注目や賛同が集めにくく「保全」の実現は難しいだろう。そこで、学術的価値や社会的正義を総動員して「環境保全」「自然保護」が「正しいこと」「なすべきこと」と正当性を補強しうったえ、活動していくことになりがちなのではないのか?

人が「環境保全」を望むのは自然な事で正当性はある──と僕は思う。
しかしそれを実現するための活動にはしばしば「欺瞞」が介在する──このあたりに、環境保全運動につきまとう独善・胡散臭さ──みたいなものの原因があるのではないかという気がしている。
暴力的な活動で注目を集める某環境保護団体あたりになると、目的(環境保全)と手段(資金集め)が逆転しているのではないかと思わないでも無い。

この本には他にも色々なテーマが取り上げられているが、全体を通して感じた事は……著者は「(自然破壊の上に成り立つ)便利さを当然のように求め続けながら、環境(自然)保全をうったえる」という人間の身勝手さに呆れ腹を立てている──一環してそんな思いで描かれているように感じた。
「あんたらのうったえていることは、こういうことだ」「あんたらのしていることは、こういうことだ」──そうつきつけるようなつもりで、あるいは物議を期待して執筆していたのではないか。

指摘している内容は正論で共感できる部分も多いのだが、やや刺激的、ときには挑発的とも感じるのは、きっと著者のこうした思いがあってのことだろうと想像している。

高橋氏は色々なフィールドで実際に現状を体験し、多くの問題を実感し考えてきたに違いない。そしてマスコミや一般に広く浸透している概念──「自然との共生」をはじめとする様々な認識のギャップをことあるごとに感じてきたのだろう。
高橋氏の実感する認識とマスコミや一般の認識とのギャップ──そしてそれが何に由来するものかを明確化しようとしたのが本書ではないかという感想を持った。

僕は現代人の便利さにどっぶり使った生活をしている立場の人間で、高橋氏の見識には遠く及ばないが、お気楽な一般民間人の立場から言わせてもらうと、人々は便利な生活をしているからこそ、自然(本物の自然かどうかは別にして、いわゆる自然が感じられるもの)への望郷の念を強くするのだと思う。

確かに人が追求する便利な生活=人工的な環境は自然保護とは相反するものだろう。人間は環境(自然)を改変する事で便利さを手に入れてきた。しかしそれは人間のローカルな意識上のフォーマットの都合でしかない。人間は「意識」の世界で生きている(ようにしか自覚できない)から、「意識」が理解・運用しやすい便利な世界(人工フォーマット)に身をおきたがるが、生物である以上、自然に所属するものであることからは逃れられない。「故郷から離れているほど望郷の念は強くなる」という比喩は文学的すぎるだろうか。
逆説的な言い方になるが、人は人工的な環境に身を置くからこそ、潜在的な自然回帰願望(渇望)が強まるのではないか。それは人間が生物(自然物)であるが故に自然と乖離したギャップを埋めようとする復元力のようなものだとと僕は捉えている。
自然の中にどっぷりつかって生活していた原始人には自然への郷愁など無かったのではないだろうか。

──などと、とりあえずは主要部分の感想を勝手に綴ってみたしだい。
この本で述べられていることは興味深かったが、この本を読んだ人たちが、どう感じ考えたのか──という事もちょっと興味があるところである。

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