ここから本文です
Kato's TRICKS
最近思うこと。

初等教育にプログラミングを導入して論理的な思考を獲得させようという話はもはや耳にタコなレベルですけれども、長年に渡り「気合いと根性」をコアコンピタンスにして働いてきた中高年の皆様そして特にミドルマネジメント以上のポジションの人にこそ、プログラミング教育が役に立つんじゃないですか。

ブロックプログラミングで十分ですから。

コンピュータは指示されたことを指示された範囲でしかやりません。コンピュータがちゃんとタスクをこなさなければプログラミングした人が100%悪い。

コンピュータには曖昧な指示は通用しません。指示内容に相互矛盾があれば変な動作しますが全部プログラミングした人のせいです。

コンピュータはリソースが無くて出来ないことはやりません。

要するに低レベルなマネジメントが現場に無茶振りして「なんとかしろ!」とやっているようなことは、コンピュータには一切通じないということです。

これが人間相手の場合、曖昧な指示、非効率的な指示、リソースの量を無視した指示でも「出来ないお前が悪い」で済ますことができちゃったりしますが、そういうマネジメントがダメなマネジメントであることは明らかです。

マネジメントのアンラーニングとしてのプログラミング教育。やってみたいな。

この記事に

「Format⇔Non Format」展

日本デザインセンターの若手カメラマンたちによる、本業とは別の自主制作作品グループ展「FormatNon Format」展を見て来ました。

イメージ 1

 
立教大学社会学部の講義「写真文化論」を履修していた岡庭璃子さんが参加していたのです。
 
彼女は学生の頃にはコンタックスの35mmフォーマットの銀塩カメラに拘ってスナップ写真を追求していたのですが、それがプロとして2年間修行した結果どのように進化したか。それが今回の個人的な見どころでした(ちなみに最近はプラウベルマキナの6*7がお気に入りだとか)。
 
会場は銀座の日本デザインセンター13階、「ポリローグ」と名付けられた小さなホールです。エレベーターを下りて左手の机に、参加しているフォトグラファーたちのブック(自主制作の写真集)が並べられていて、その奥にそれぞれ幅3メートルほどのスペースで作品がディスプレイされています。
 
岡庭作品はブックが4冊。4冊も出しているのは彼女だけです(他の人は1冊ずつ)。やる気凄い。
 
内訳は、「and chair」と名付けられたシリーズが2冊。お母様を撮ったスナップ写真集が1冊。江ノ島あたりの海岸を撮った写真集が1冊。このうちお母様を撮るシリーズは非常に長いスパン(何十年という)で制作していくものだそうで、まだ作品として評価するのは時期尚早と判断し、ここでは扱いません。

イメージ 2

海を撮ったシリーズは会社から借りたハッセルブラッドを使ったそうで、スクエアフォーマットの銀塩写真です。同じ構図で時間帯が違うカットが連続しているので、畠山直哉の「BLAST」をモチーフに、杉本博司の「海景」シリーズへ接続するのかなと思って見ていったのですが、後半で全く違う構図が数枚出てきて、コンセプトが不明化してしまいました。せっかくハッセルを使ったのだから、良いカットを3枚くらいピックアップして思い切り大きく焼いて展示したら良いよねという話をしました。
 
And chair」は椅子と何かを対にするというコンセプトで着手されたシリーズで、現在の彼女のメインのプロジェクトのようです。最初は椅子のあるスナップ写真を見開きの片側に配置し、もう片側に色々な写真を置いてその対比を見せるという形で始まったのですが、見た感じではばっちり決まった対はさほど多くなく、時には対比のはずなのに両方とも椅子が写っていたりして、打率そんなに良くないなあと感じました。しかし2冊めに入るとコンセプトが修正されて、椅子のスナップ写真をコアにして、そのスナップ写真が撮影された場の空気感や光線を補うもう1枚(あるいは2枚)という形に進化しており、見る側としてはある意味、安心して見られるブックになっていました。
 
ただ、この「安心して見られる」というところが曲者で、実は作品の「ザワザワ感」はコンセプトが整理されていなかった1冊目の方が強かったんです。何がやりたいのか整理されていないぶん、アバレた感じがあって、それが作品のパワー感を出していたのも事実といえば事実ですね(もちろん、そういうプリミティブな力に頼った表現はすぐに行き詰まるので、作家としては自分で野蛮さをコントロールして出す出さないを決められるようになる必要があります)。
 
では、このブックがどのように展示作品になっていたのか。
 
展示では長沼泰樹という木工職人と組んで、彼の作った椅子を写真の前に4脚置くという体裁です。写真は天井から床まで垂らされた波光紙に9カットが余白無しで連続的にプリントされています。全て「and chair」シリーズからのものです。よく見ると(言われないとわからない)波光紙の上下に木の枠が取り付けられています。これが実は長沼さんの作った部材なんだそうです。
 
私の素直な感想。
 
「高級なセレクトショップの木工家具コーナーのディスプレイとして見たら100点。でもこれはアートとは呼べないね。」
 
何故これがアートではないのか。
 
アートの歴史を考えてみましょう。最初はアートとクラフトは未分化だったんです。ものすごく乱暴に言うと、何かを美しくデコるという目的から始まったものの一部が、ルネサンスの時代から、知性を媒介とした表現を目指すようになった。つまり手先の技術だけでなく、学問が下地となって出来ている表現ですよと主張するようになった。これが近代的なアートの成立です。更に20世紀になり、「デコる」というそもそもの出発点が本来的に孕んでいた「キレイなものを作るぞ」という方向性が、絶対的なものではなくなります。キレイじゃなくてもアートとして認められるようになった。それがデュシャンの「泉」であったり、無調音楽であったりするわけです。
 
では、キレイじゃなくてもアートとして認められるならば、一体何がアートをしてアートたらしめているのか?
 
これも乱暴に言いますと「それ(アートピース)を享受する前と後とでは、世界が違って経験されるようになるもの」です。我々が見落としていたものや、我々が当たり前と思い込んでいたものを、「これよく見たらスゴくないですか?」とか「こんなもの今までありましたっけ?」とか「これって本当に当たり前ですか?」と問い直す。あるいは、問いかける。その打撃力の大小がアートの価値の重要な一側面になりました。
 
その前提に立ってみると、今回の作品はアートというよりは、クラフトなんですよね。丁寧ですよ。真面目ですよ。そこは疑いようがない。でもそれだけでは、もはやアートにはならない。見る者の価値観や世界観や常識を揺さぶらないからです。
 
例えばね、岡庭璃子+長沼泰樹の作品の前にプライスタグが置いてあって
 
「木枠:50万円」
 
と書かれていたらどうでしょう?
 
まさかまさかの、「木枠」を売るためのディスプレイだった! 椅子も写真もそのための小道具だったのかよ! 
この時、我々の常識は揺さぶられてしまいますよね。一番地味で言われなければ存在に気づかないものにだけ値札が付いていて、写真展のはずなのにその写真も、その前にいかにも意味ありげに置かれた椅子も脇役だとしたら、我々が当たり前と思っている「店頭で一番目立つものが商品」という、意味の秩序のピラミッドの読解コードが潰乱されています。
 
もちろんこれは思考実験であって、「and chair」というシリーズをアートにするための一つの(そしてあまり上等とは言えない)コンセプト案に過ぎません。
 
ただ、彼女がこれから商業フォトグラファーとしての仕事から一歩出たところでアーティストとして写真を発表していくのであれば、一番強化しなければいけないのは、ここだとは思います。
 
コンセプト作り。
 
自分の写真で、見る者の何を揺さぶるのか。
 
「これよく見たらスゴくないですか?」(新しい視点の提案)
「こんな写真表現、今までありましたっけ?」(新しい表現技法の開発)
「これって当たり前っぽいですけど、本当に当たり前ですか?」(メタレベルの視点の導入)
 
写真そのものは仕事としてもそれ以外の活動においても狂ったように撮っているのだから、技術に関しては黙っていてもどんどんレベルアップしていくに違い無いんです。
 
見て、感じて、撮る。だけではなく、問いかける。そのために、考える。考えるためには、先人の思考を学ぶ。本を読み、展覧会に足を運び、そして自らの思考を言葉にしていく。
 
単なる職人道よりもそりゃあ大変です。これ、何のためにやるのか。そのレベルから日々自分と対話する人生になります。でも、やりたいならやった方が良い。
 
人生一度きりだ。進め。
 
2942文字)

この記事に

VOGUE誌が白人女性をモデルにして日本の着物っぽい服で日本で撮影したファッション写真が「人種差別だ」って日本人ではない人たちにバッシングされているらしいんですが、またかという気がします。

2015年7月にボストン美術館で企画された女性向けの着物フォトシューティングが同じく「人種差別」と(非日本人の人たちに)叩かれて中止に追い込まれましたが、アメリカ人は着物を着ている日本人女性は売春婦だと思っているんでしょうか? 着物を白人が着て何が悪い。

着物という文化の進化を妨害されている気しかしません。

政治的正当性について思うこと。
例えば私、「ドナルド・トランプに投票した人」とは余裕で友達になれます。「正直同性愛者は勘弁して欲しい」とアンオフィシャルな場で語る程度の人も全然OK。
実際にヘイトクライムに精を出しているとかヘイト文書配布に余念が無いとかはNGですけど。その辺はもはや立派な犯罪なので。犯罪常習者とはお友達付き合い出来ませんという形になる。
思想信条の自由、表現の自由、言論の自由は大事にしたい。民主制というのは多様な政治的見解の持ち主が共存することが大事という、一段上のレベルの視点で作られている仕組みですから、政治的なワンイシューの見解の相違程度で人付き合いを切るというのは、既に民主的でない気がします。
そんなことをしていたら自分の世界が狭くなるし、いざという時に助けてくれるかもしれない人を減らすだけですからね。

この記事に

日本における人文学の斜陽と衰退が、制度面でも経済面でも言論界における存在感の点でも公然化して随分になります。

その理由はかねてから私も指摘している通り、20世紀に日本の人文学を支えた仕組みや時代性に安住して、新しい時代にキャッチアップしようとしなかった人文学の学徒たちの怠慢あるいは慢心にある。そこはほぼ間違いありません。

しかしながら最近あらためて人文学の重要性を私はひしひしと感じています。大学の敷地の中における人文学の重要性ではなく、日本社会に生きる多くの人のアタマの中、特に実業界における人文学の重要性です。

人文学は人についての探求の営みです。基本的なところで言えば文学、心理学、歴史学、地理学、文化人類学、芸術学、哲学、宗教学・・・。

こうしたものを学べば、人間がいかに不確かで多様で多彩で、しかもそれらのゆらぎが人間社会の素晴らしさを生み出しているかがわかります。

例えば同じ役者が毎日舞台を重ねるごとに変化し、それが舞台そのものを変化させる。同じ人が同じ脚本に基いて同じものを表現しようとしているのに、ですよ。もちろん同じ人が日によっては低いパフォーマンスとなることもある。それもまた「人間だから、そんなもん」です。

人それぞれが違い、しかも皆が皆、ゆらぎながら常に変化の途上にある。こうやって文章で書いて見せれば、確かにそうですねとなる。でもそれを、自分が世の中を見る時の大前提として置いているかというと、今の日本社会はあまりそんな感じがしない。

色々な組織が人をnとして、つまり数字の1単位として扱っている。制度が人をnとして設計するのは仕方なく、そこを運用で上手くやるのが人を人として扱うということだと私は思うのですが、俺の認める範囲内に入らない人はnでさえないからドラッグ&ドロップでゴミ箱にポイという感覚の人が、ちょっと多くないですか今の日本。
かつて私に「自分が信じているのは自分が稼いだカネの総額だけだ。これだけは誰が見ても間違えようのない自分の価値だ。」と言い切った社長がおりました。カネのためには労働法破りもバレなければアリという感覚の社長もいっぱい知っています。皆さんに共通するのは人文学の圧倒的不足です。稼いだカネだけが適切な人物評価の指標なら悪いことしてもバレなきゃOKになっちゃうだろ。え。ナニワ金融道かよ。

昨日からかなり毎日の時間に余裕が出来たので小説を読んだり楽器を弾いたりして人文学の世界を久しぶりにたっぷり味わっていますが、乾ききったヘチマに水が染み込むようにして、人間らしさというものが私の中に蘇ってきています。この潤いが心にあってこそ人生は生きるに値すると思いますし、これの感覚こそ、人文学徒が日本社会にアピールし続けるべきものと確信した次第です。


この記事に

橋本様
 
 2年間の青年座研究所での勉強、お疲れ様でした。
 また當瀬このみを仲間として共に歩んでいただいたことも心より感謝しております。ありがとうございました。
 
 最後の舞台は、「わが町」に比べると流石に皆さん長足の進歩を遂げておられたと思います。橋本さんもA班のエミリーよりは芸の幅が広がっていたはずです。陣痛のシーンでは、私の妻の出産に立ち会った時を思い出しながら見ていましたが、十分に「それっぽい」演技でした。
 
 橋本さんの演じたツル子についてもう少し詳しく分析すると、劇中では他の8組のカップルがそれぞれの形で表現した愛が、最後に男女間の性愛を越えた出産という、より強く豊かな形でのエロスによって締めくくられるという、大変に重い役どころです。また「青年座研究所41期」という一座を追ってきた観客にとっては、もう一つ、「わが町」の最後に出産で死んでしまったエミリーとの対比が生まれ、更に「橋本菜摘」という女優がどのようにして「わが町のエミリー」を越えて誕生するのか、その三つが主要な解釈の視点となります。
 
 このうち最初の視点から見ると、役柄上、陣痛シーンは全ての表現のフェーダーを一番上まで上げざるを得ません。そこは動かしがたい。とすると陣痛と陣痛の間の演技や朗読をどう作るかがクリアすべき課題です。結論から言うと、今回の橋本さんはフェーダーを半分くらいに下げる、あるいは8割くらいに下げるという方法で、上記の3種の表現を作り分けていたように見えました。
 
 ですが私が思うに、声量とか声質といった物理的な指標だけでなく、上手い表現者は意識のレベルでも自分をコントロール出来るはずなのです。
 
 今回で言えば陣痛の悲鳴はoutboundです。自分の中から外へ向かって投げつけられる声です。ではモノローグはどうでしょう。意識の指向性(現象学という哲学の流派の用語を援用しています)として、モノローグはinboundに一気に切り替える。自分の内側に向かっていくような声として表現する。そんなやり方もあったのではないでしょうか。
 
 次にエミリーとの対比で考えます。エミリーがわが町で死ぬことは、戯曲の構造上必ず必要なことでしたね。同じようにツル子があそこで「死なない」ことも戯曲の構造上必要なことです。とすれば、出産を終えて我が子を抱くツル子という一瞬を、もっと際立たせる演技があったかもしれません。橋本さんのこれまでの役につきまとっていた「死」との対比としての「生」をいかに表現するか。例えばですが、私が見た出産直後の女性はもっとヘロヘロです。我が子を抱くのも一苦労。とすれば、そのシーンを思い切って60秒くらい使って、静寂の中で徹底的に緩慢な動作で演じる。周囲の役者さんたちの視線も全部自分に当ててもらう。そんなアイデアもわきました。
 
 そして、上記の2点をどれだけ鮮やかに表現出来たかどうかが、最後の視点、「女優・橋本菜摘はいかにして誕生するのか」に直接繋がる。
 
 もう終わった舞台なので、今から過去を変えることは出来ないですが、仕事というのは過去のイマイチだった自分を生かして、大きな価値を生み出していける営みですから、次の橋本さんの舞台次第ではまた、これまでの橋本さんの舞台の意味合いや位置づけが変化するわけです。

イメージ 1


 
 まだまだ役者人生は始まったばかりです。橋本さんの「次」を見聞き出来る時を楽しみにしています。
 
加藤晃生

この記事に

[ すべて表示 ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事