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ブログのメインである、過去の書評です。哲学・思想・法哲学・政治思想などの本を扱っています。
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書評293:斎藤環『家族の痕跡』

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書評293 斎藤環

『家族の痕跡――いちばん最後に残るもの』

(ちくま文庫、2010年)

以前にも記事で触れた斎藤環の評論集。
斎藤環の文章はちょこちょこ読んでいたが、書評は初となる。


【著者紹介】
さいとう・たまき (1961年―) 精神科医、批評家。筑波大学医学医療系教授。
1990年筑波大学大学院医学研究科博士課程修了。医学博士。1987年から爽風会佐々木病院勤務。同病院診療部長などを務めた。批評家としては漫画・アニメなどを精神分析の立場から解釈した『文脈病』(青土社)でデビュー。『社会的ひきこもり』(PHP新書)の社会的反響からマスコミでひきこもりについて語るようになった。
2013年『世界が土曜の夜の夢なら』で角川財団学芸賞受賞。


【目次】
第1章 母親は「諸悪の根源」である
第2章 システムとしての家族)
第3章 「世間」と「家族」と「個人」
第4章 家族の価値観
第5章 結婚と家族の理不尽


【本書の内容】
家族は、ひきこもり、DV(家庭内暴力)、AC(アダルト・チルドレン)などの病の温床になっているが、他のどんな人間関係よりましである。多くの家族の症例をみてきた精神科医である著者だけが書ける、最も刺激的にして、愛情あふれる家族擁護論。母子密着問題、「世間」と「家族」と「個人」、結婚の理不尽、等を通して、現代における家族のリアリティとは何かに迫る。


お薦め度:★★★★☆

【本書の感想】

<全体の感想>
「ちくま」に連載されたエッセイをまとめたもので、体系的ではないものの、多様な示唆に富む好著である。
著者は「ひきこもり」の専門家として知られるが、臨床精神科医としての経験に裏打ちされた人間への洞察は、非常に広い射程を持っていると感じた。

本書の主張をざっくりまとめるとこうなる。
あらゆる価値が相対化されたポストモダン社会と言われる現代だが、「家族」だけは未だに揺るぎない価値を保持している。そのことがひきこもりなど様々な問題の温床になっているが、家族よりマシなシステムも見当たらない以上、これをうまくオペレーションしていくしかない。
本書の副題「いちばん最後に残るもの」とはそういう意味だ。

この家族に対する視点も斬新だが、他にも考えさせられる知見が散りばめられていて、精神分析に疎い私にとって収穫の多い読書となった。


<「家族」という価値の源泉>
まず本書の重要な指摘は、人々が思っているよりも「家族」が現代における価値の源泉になっているということ。

生き方が多様化し晩婚化が進んだ現代では、未婚の中年男女も珍しくない。当然ながら、30代でバリバリ仕事をこなす未婚OLも、家で子どもを育てている専業主婦も平等に扱われるべきである。むしろ、社会的には前者の方が生産的だと評価されてもおかしくない。しかし、未婚女性は何となく「負け犬」として肩身の狭い思いをしなければならない。
著者はここに「女の幸せは結婚して子どもを産むことだ」という世間の価値観の圧力があると指摘する。

女性が女性として幸福であるためには、ただ個人として女性であるだけではまったく不足なのだ。幸福を可能にするためには、女性であると同時に、さらに妻と母親を兼任しなければならない。(118項)

また、ひきこもり問題の裏にも同様に、暗黙の価値観が働いている。
ひきこもりの少年少女、青年たちは、何も社会に害を与えているわけではない。にもかかわらず、なぜこれだけ社会問題化し、世間から非難されるのだろうか。

ひきこもり青年たちは、非社会的存在ではあっても、反社会的存在ではない。……彼らはが家族を持とうとしないこと、さらにはイエの存続に寄与しないことこそが、批判されているのではないだろうか。(147項)

なぜ、子持ち専業主婦より未婚OLの方が世間的評価が低いのか。なぜ、ひきこもりは害悪がないのに根絶が目指されるのか。
そこには「家族」という暗黙の価値観が根強く横たわっているのである。

自分のことを考えてみてもはっとさせられる指摘だが、今まで政治学や社会学、現代思想ではあまり指摘されてこなかった点だと思う。


<家族の病理――ひきこもりの事例>
著者は家族について「生存していくうえで、あるいは子どもを養育していくうえで、あるいは相互扶助し合う大義名分として、これほど機能的で一般性が高い形態はほかにない」(240項)とする一方、自らの臨床医としての経験上、家族は「諸悪の根源である」とも指摘する。

たとえば、ひきこもりの子どもを抱える家庭では、著者が「日本的ダブルバインド」と呼ぶ現象が見られる傾向があるという。
ダブルバインドとは言葉によるメッセージと態度が矛盾する状態のことで、親が子どもに対してそういう関係を作り出してしまうことで、ひきこもりが長引いてしまうケースが多い。

多くのひきこもりを抱えた母親たちが、わが子に「早く自立しなさい」「家から出なさい」という否定的メッセージを繰り返し与えつつ、実はわが子の生活を曖昧に支え続けている。……否定の言葉とともに抱きしめることが、いかに人を束縛するか。(30項)

ダブルバインドから解放されるとともにひきこもりから脱出した、というケースも報告されている。
ひきこもりはじめてから親がまったく相手にしてくれなくなったので仕方なくアルバイトに出はじめた。親が「もうずっとひきこもったままでいい」と話すのを聞いてひきこもりをやめた。
この正反対に見える例に共通するのは、言語と態度の一致=ダブルバインドの不在である。
(このダブルバインドが人を拘束する、という実感は家族以外の場面でも感じたことがある人はいると思う。)

著者は、こういった家族の病理から距離を取るために、ひきこもりの治療において「家族以外の親密な仲間関係を数人獲得すること」を目標にすることがあるという。

それはしばしば誤解されるように、「個人を制度に馴致させよう」という試みとは正反対の方向性をはらんでいる。私が目指すのはむしろ「社会や制度から自由であるための条件」として「親密圏を獲得すること」にほかならない。(102項)

親密圏がはらむ「闇」の側面については、哲学者鷲田清一も指摘している(書評263:『死なないでいる理由』参照)。
家族以外の親密圏の獲得は、そのリスクを分散する手段なのである。


<おわりに――臨床医からのサジェスチョン>
本書は精神医学の知見が勉強になるのだが、それが臨床医としての著者の豊富な実体験に基づくだけに、説得力がある。他の著書も読んでみたくなった。

他にも面白い指摘が多々あったので、以下に抜書きしておく。

・「コミュニケーション」とは「情報を伝達すること」ではない。人間のコミュニケーションには、おおまかにいって、「情報の伝達」と「情緒の伝達」という、二つの機能がある。一般的に後者の「情緒の伝達」は意識されないが、コミュニケーションをとる上で欠かせない要素である(81項)。

・上野千鶴子を「このクラスになると負け犬どころか、地獄の番犬ケルベロスといった趣すらあ」ると評していて笑った(125項)。

・日本の「単身赴任」、韓国の「雁パパ(子どもの英語留学に母親が帯同し、父親だけ国内に残って学資を仕送りする)」という家族形態が示すのは、今や家族における父親の役割が経済的機能のみになってしまったことである。
つまり近代とは、多くの男性が、父親として(あるいは夫として)「俺が食わせてやっている」と脅迫的に役割を確認しなければ、家族の成員たりえない時代なのではないか。(159項)
しかし、「俺が食わせてやっている」言説で家族を抑え込もうとしたことがある人なら、そう言い切った後の後味の悪さ、後ろめたさをしっているはずだ、と著者は喝破する。それは就労が自明の義務ではないからである(173項)。

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書評292:千住淳『自閉症スペクトラムとは何か』

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書評292 千住淳

『自閉症スペクトラムとは何か――ひとの「関わり」の謎に挑む』

(ちくま新書、2014年)

障害を扱った本というと健常者には関係ないと思われがちだが、傑作ノンフィクション書評128:『こんな夜更けにバナナかよ』がそうであったように、障害を扱った優れた著作は、普遍的な人間関係について鋭い洞察を秘めているものだ。

ということで、ちくまから自閉症スペクトラムの新刊が出たので読んでみる。


【著者紹介】
せんじゅう・あつし (1976年―) ロンドン大学バークベックカレッジリサーチフェロー。専門は発達社会神経科学。
東京大学大学院総合文化研究科修了。博士(学術)取得。東京大学総長賞、日本心理学会国際賞奨励賞、英国心理学会ニールオコナー賞などを受賞。著書に『社会脳の発達』、『社会脳とは何か』。


【目次】
はじめに
第1章 発達障害とは何か
第2章 自閉症スペクトラム障害とは何か
第3章 自閉症はなぜ起こる?
第4章 自閉症者の心の働きI――他者との関わり
第5章 自閉症者の心の働きII――こだわりと才能
第6章 自閉症を脳に問う
第7章 発達からみる自閉症
第8章 社会との関わりからみる自閉症
第9章 自閉症という「鏡」に映るもの
第10章 個性と発達障害
おわりに


【本書の内容】
自閉症とは、人との「関わり」に困難さを抱える発達障害である。対人コミュニケーションの困難さと、強いこだわりとを特徴とする「社会的な病理」だ。本書は社会脳の研究者が、その最先端の状況をあぶりだす。自閉症とはなにか。その障害(ハードル)とはどのようなものか。人との「関わり」をどう処理しているのか。診断・遺伝・発達・社会・脳と心といった側面から、その内実を明晰に説く。


お薦め度:★★★★☆

【本書の感想】

<全体の感想>
このブログの書評では冒頭に私が本を手に取った動機を書くようにしているが、まさにそれに呼応する文章があったのでまず引用する。

発達障害について詳しく見ていくことから、発達障害を持たない「その他大勢」の人々が、どのように他者と関わり、どのように社会と関わっているかについても、新たな発見があります。(9項)

では本書のテーマである自閉症スペクトラムとは何かというと、従来「自閉症」「アスペルガー症候群」「広汎性発達障害」などと呼ばれていたものが、最新のアメリカの診断基準で一つにまとめられたもの。この考え方自体は書評271:『図解 よくわかる大人のアスペルガー症候群』で紹介していたが、実際の臨床場面でも症例の区分が難しく、診断名としても一つのカテゴリーが相応しいということになったという。

自閉症スペクトラムの特徴は、「対人コミュニケーションや対人行動の困難さ」「限定的・反復的な行動や興味のパターン(こだわり)」の二つだが、ある意味個性の差、程度問題にも思える。それが障害なのか、極端な個性の一つなのか、線引きはどうするのか。

答えは、「それを決めるのは本人」です。……診断はレッテル貼りをするためではなく、本人の役に立つためにあるのです。(22―23項)

要するに、障害には科学的な線引きがあるのではなく、「困っているから社会に助けて欲しい」という自己申告が必要要件なのである。(余談だが、これに従えば、例えば先頃メディアを賑わせた佐村河内氏なんかも、自己申告がありそれを認定した人がいるという意味で立派な障害者ということになる)


<「障害」の定義は個人−社会関係によって決まる>
さらに、「障害」の線引きは個人と社会の関係によっても変わってくる、というのが本書の重要なメッセージだ。

たとえば、現代日本で読み書き算盤ができないという「個性」を持つ男性がいるとする。彼は、学校の成績が極端に悪く授業も集中できないので、診断を受けてみると学習障害という「障害者」と判定された。しかし彼が文字を持たないアフリカ社会に生まれたら「障害者」とは判定されずに一生を終えたかもしれない(212項)。
逆の例を出せば、現代日本で「健常者」と呼ばれる人が原始狩猟民族の中に紛れこんだら、狩猟に必要な体力・脚力といった基礎能力を持たないとして「障害者」と呼ばれていたかもしれない。
また、現代社会でも国や地域によって「障害」の定義は違ってくる。欧米では「代名詞の逆転」と呼ばれる現象(会話の中で“I”と“you”が逆になる)が自閉症の診断基準の一つとして使われているが、代名詞が頻繁に省略される日本では通用しない。逆に「空気が読めない」という自閉症の特徴はアジア圏で問題になり易く、個人の意見を尊重する欧米では症例として挙がりにくい(177項)。


そのため、本書では「健常者/障害者」という区分ではなく「定型発達者/非定型発達者」という区分を用いている。定型発達者とは、その社会で必要不可欠な基本能力を備えるよう発達した者、ということだ。

つまり、「障害」とは個人が持っているのではない。ある社会を快適に生きる上で特定の能力(個性)が必要なとき、それを持たないことが「障害」となって個人に立ちはだかる(=非定型発達者となる)。障害はヒトの性質ではなく、個人が生きにくくて困っている状態のことである、とも言えるかもしれない。


<鏡に映る社会を考える>
ここまでくれば冒頭の文章の意味がわかってくると思う。私たち定型発達者は、自分たちが生きる社会が必要とする特定の能力に気づかずに生きているが、非定型発達者が困っていることに目を向けることでそれに気づくことができるのだ。

本書はその例をいくつか紹介している。
たとえば、定型発達者は人混みの中や会議中に自分に向けられた他人の視線を感じると「何となく」それに気づくことができるが、自閉症者は気づくことが少ないという(93項)。理由はまだ解明されていないが、この「何となく」気づく能力の不足が自閉症者が対人コミュニケーションに問題を抱える一因ではないかと考えられており、同時にこの能力が私たちの日常生活で案外重要な役割を果たしていることがわかる。

また、今の社会では「障害」になってしまっている自閉症者の個性のポジティブな面にも気づかされる。
自閉症者はしばしば「木を見て森を見ない」ことで社会生活がうまくいかないが、逆に「森の中から木を見ぬく」能力に長けている(111項)。自閉症者の中にたまに天才が生まれる、と言われるのはこういった側面が社会のニーズと合致し開花した例だろう。

「定型発達障害」というエピソードも面白い(193項)。これは自閉症者から見ると定型発達者はこんなヘンなヤツに見える、というジョーク混じりの話で、嬉しくないプレゼントをもらっても「ありがとう」と応えるとか、「いやだ」という意味で「いいです」と言うとか、何でもないことで嘘をついてしまっているとか、物事の細部に気づかないとか、ブランド品など機能性が低いが社会的評価が高いものを好むとか、一つくらい思い当たることがあると思う。

このように、障害という鏡を通して自分が生きる社会のことが見えてくるというお手本のような本。
自閉症スペクトラムを少し勉強したことがある人にとっては若干掘り下げが浅いと感じるかもしれないが、障害を考えることの意義がよくわかる良書であり、個人的には考えるヒント満載の本であった。

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書評281:宮下規久朗 『食べる西洋美術史』

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書評281 宮下規久朗

『食べる西洋美術史――「最後の晩餐」から読む』

(光文社新書、2007年)

昨年書評246:『誰も知らない「名画の見方」』を読んで面白かったので、美術史にも手を延ばし始めたこのブログ。
薄く広くではなく深く広くを心がけます。


【著者紹介】
みやした・きくろう (1963年― ) 神戸大学大学院人文学研究科教授。専攻はイタリア17世紀バロック美術、近現代美術史。
東京大学大学院人文科学研究科修了。兵庫県立近代美術館、東京都現代美術館などを経て、1995年神戸大学文学部助教授、2013年から現職。2005年『カラヴァッジョ―聖性とヴィジョン』(名古屋大学出版会)でサントリー学芸賞受賞。
他の著作に『バロック美術の成立』、『カラヴァッジョへの旅』、『ウォーホルの芸術』、『欲望の美術史』、『フェルメールの光とラ・トゥールの焔』、『知っておきたい世界の名画』、『モチーフで読む美術史』など多数。


【目次】
第1章 “最後の晩餐”と西洋美術
第2章 よい食事と悪い食事
第3章 台所と市場の罠
第4章 静物画―食材への誘惑
第5章 近代美術と飲食
第6章 最後の晩餐


【本書の内容】
古来から食べることに貪欲であった西洋。中世、キリスト教により食事に神聖な意味が与えられると、食事の情景が美術の中心を占めるにいたった。それらの美術表現を振り返り、意味を考え、西洋美術史を別の角度から照らし出す。


お薦め度:★★★★☆

【本書の感想】

<全体の感想>
中世以降の西洋美術史を「食」という観点から切った小著で、非常に面白い。

まず「食」という切り口が新鮮である。
西洋では伝統的に食をテーマにした絵画が多く、その宗教的意義/社会的背景の影響が分析される過程がとてもスリリング。
個別の美術を歴史のうねりに位置づける、いわゆる「文化史」の格好のお手本だと思う。
(私事だが、私が歴史に興味を持つきっかけになった高校世界史の先生の授業も文化史だったので、こういう本は私個人の好みにもばっちりハマった。「好きな画家は誰ですか?」

もう一つ、紹介される絵画がどれも魅力的なのも、この本の独特の味わいを深めている。全篇カラーではないが、カラー口絵も豊富で不満はない。

そういう意味で、これまで読んだ新書とはまた違った、独特の知的刺激を受けることができた。


<ミサの起源――《最後の晩餐》と「良き食事」>
キリスト教では食事が重要な意味を持っていて、それは「良き食事」「悪しき食事」として美術史上の大きな流れをつくってきた。

「良き食事」とは、聖体たるパンと聖血たるワインをとる清貧な食事のことで、キリストの言葉――「取りなさい、パンは私の体であり、ワインは私の血である」を起源とする聖餐(ミサ)に始まっている。
このキリストの台詞が発せられたのがダ・ヴィンチをはじめ多くの画家に描かれた《最後の晩餐》である。


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この絵は裏切者ユダを告発した場面として有名だが、キリストの身振りは弟子たちにパンを割きワインを与える動きを示しており、「ミサの起源」としての意義の方が重要であった。《最後の晩餐》の絵が修道院の食堂に描かれることが多かったのもそのためである。

西洋において食事に神聖な意味が付与されたのは、何よりも「最後の晩餐」、そしてそこから派生したミサのためであるといってよい。パンとワインというもっとも基本的な飲食物が、神の体と血であるというこの思想が、西洋の食事観を決定したといっても過言ではない。(21項)

イエズス会の創始者イグナティウス・ロヨラの言うように、キリスト者たるもの日々の食事は常に「最後の晩餐」の繰り返しでなければならない、それが「良き食事」の理想であった。


しかるに、「悪しき食事」とはその正反対のもの、暴飲暴食や神のことなど考えぬ乱痴気騒ぎのことを指す。
「良き食事」の起源たる聖餐も宴会なのだが、キリスト教が発展するにつれ「良き食事」は神を思いながらパンを少しずついただくものであり、大食や酩酊は「悪しき食事」の代表格とされていく。

中世以降は、「大食」を「淫欲」「憤怒」などとともにキリスト教の「七つの大罪」として表現したヒエロニムス・ボッスのように、乱痴気騒ぎを表現した「悪しき食事」が盛んに表現された。
これには罪を表す聖書の一節を描くことで教訓的意味を持たせるという表向きの説明がなされてきたが、実際はいかに罪とされようとも、このような行為、またそれを描いた絵自体が魅力に満ちたものであったために人気を博したのだろう、と著者は分析している(73項以下)。


<「悪しき食事」から食事そのものの悦びへ>
このように、ルネサンス期までの美術では、「良き食事」を推奨するか「悪しき食事」を戒める(少なくとも表向きは)という宗教的観点から食事が描かれてきたが、17世紀頃から食事そのものを題材とした絵画が出始める。

中でも著者が「西洋美術史上もっとも愛すべき作品」と呼ぶのが、このヴィンチェンツィオ・カンピ《リコッタチーズを食べる人々》である。


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争うようにチーズをほおばったり、笑いながら食べているため口の中のチーズが見えていたりして下品ではあるが、多少行儀が悪くなろうとも手に入れることができた食べ物を美味しく食べる、という食の愉悦を感じられる傑作、として激賞している。
カンピの風俗画もそれまでと同じように表向きは「悪しき食事」を戒める絵として描かれたが、キリスト教の主題にこだわらず食事そのものを主題に据えている。


もう一つ著者が「永遠の名作」として挙げているのが、ボローニャ出身のカンニーバレ・カラッチ《豆を食べる男》である。


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ここにいたっては、宗教的・教訓的意味合いは皆無であり、《リコッタチーズを食べる人々》のような歓喜も哄笑もなく、労働者風の男が働くため生きるために黙々と匙を口に運んでいる。
「食べる」という単純な行為が人間にとって本質的な行為であることが美術史上はじめて表現された、近代の幕開けを告げる記念碑的作品であった。


<おわりに>
著者は本書を執筆するまでは、暴飲暴食が身上だったという。何せ自称ジロリアン(有名大盛ラーメン店「ラーメン二郎」のマニア)だというから、本書で言うところの「悪しき食事」愛好者であり、実際「リコッタチーズを食べる人々」の章がもっとも刺激的で、著者の筆もノっているし読んでいて楽しい。

ところが、執筆中に暴飲暴食がたたって体調を壊したそうで、今では「良き食事」に徹しているそうである。
自然、本書の後半は静かなトーンになっているのも可笑しい。

著者の他の本も読んでみたくなった。

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書評271:上野一彦・市川宏伸『図解 よくわかる 大人のアスペルガー症候群』

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書評271 上野一彦・市川宏伸

『図解 よくわかる 大人のアスペルガー症候群』

(ナツメ社、2010年)

アスペルガー症候群について、個人的に勉強する必要が出てきたため、入門書として買ってみた。


【著者紹介】
うえの・かずひこ 東京学芸大学名誉教授、日本LD学会理事長。
東京大学大学院を修了後、東京学芸大学教授などを経て現職。LD教育の必要性を説き、支援教育を実践するとともに啓発活動を行う。1990年に全国LD親の会、1992年に日本LD学会の設立にかかわる。文部科学省や東京都の委員会委員を歴任。

いちかわ・ひろのぶ 東京都立梅ケ丘病院長。東京医科歯科大学医学部臨床教授。東邦大学医学部客員教授
1979年北海道大学医学部卒業。医学博士、薬学修士。1982年医員となり、同病院副院長を経て2003年より現職。日本児童青年精神医学会理事、自閉症スペクトラム学会理事、日本司法精神医学会理事


【目次】
序章 あなたはどのようなことで悩んでいますか?
1章 アスペルガー症候群の特性を知ろう
2章 アスペルガー症候群は発達障害に含まれる
3章 「自分はアスペルガーかもしれない」と思ったときは
4章 らくに生きるためのサバイバルスキル&ヒント
5章 必要なスキルを身につけて仕事に就くには
6章 支援のポイント-ご家族や職場など、まわりの方へ
7章 ケーススタディ-アスペルガー症候群当事者の声


【本書の内容】
らくに生きるためのサバイバルスキル&ヒントを紹介。コミュニケーションを円滑にする、支援のポイントを解説。


お薦め度:★★★☆☆

【本書の感想】

<全体の感想>
アスペルガー症候群を知っておきたい人に薦めるならまずこの1冊、という感じの本。
大文字で誰にでも読み易い文章、全ページに挿入された図やイラストは、本を読み慣れていない人にとってもわかり易いものだろう。

アスペルガー症候群の特徴、本人の感じ方、仕事や社会関係、支援の方法まで、カバーしている範囲は広く、また説明の仕方も具体的な症例を入り口に他の発達障害との関連まで視野に入れており、頭に入りやすい。

アスペルガー症候群については以前の限定エントリで書いたので、ここでは新たに知ったことを中心に取り上げたい。


<「スペクトラム」という柔軟な発想を>
発達障害を考える際のキーワードに「スペクトラム」というものがある。
これは「同じような特性を持った境界線のない一群の連続体」(18項)という意味である。

アスペルガー症候群は「自閉症スペクトラム」に位置づけられ、その共通する特徴として挙げられるのは
‖仗祐愀犬侶狙が難しい「社会性の障害」
△海箸个糧達に遅れがある「言語コミュニケーションの障害」
A杼力や柔軟性に乏しい「想像力の障害」

アスペルガーは知的能力も言語能力も高度に発達しているが、同じ自閉症スペクトラムの中では、自閉症は△糧達に遅れが見られ、さらにカナータイプ自閉症は知的な遅れも伴っており、これらの間には境界線がなくグラデーションのように連続していると見るのがスペクトラムの考え方である。


また、覚えておきたいのが「発達障害自体がスペクトラムである」という考え方(34項以下)。
発達障害と呼ばれるものの中には、上記以外にもLD(学習障害)、ADHD(注意欠陥多動性障害)、発達性言語障害、発達性協調運動障害などがあるが、一人の人間にこれらの複数が併存していたり、成長するにつれて診断名が移り変わったりすることがあるという。
これは、いずれも脳の機能不全(=インプット)が発達障害として見える症状(=アウトプット)の原因であり、人によって先天的に、あるいは成長の過程によってインプットの組合せが様々だと、アウトプットも十人十色になるためである。

ここは個人的に重要だと思っていて、ある時点(ある医者)から○○症だと診断されたとしても、もっと柔軟に幅をもって障害を捉える必要があることを示唆している。
診断名にこだわらず、具体的にどのようなことで困っているのか、どのようなことができないのか、どのような暮らし方をすれば生きにくさを感じないか、を考えるべき(72項)と書いてあるが、その通りだと思う。


<おわりに>
巻末に収められた、アスペルガー障害者本人による手記も、本人がどう感じているか、本人からどう見えているのかを知る上で貴重なもの。

特に、発達障害者には「福祉施設や学校で勉強から生活態度まですべてを指導するのではなく、一つのことに特化して指導する“教習所スタイル”が適している」(119項)という指摘は、なるほどと思った。

障害者と接する機会がある方は、このような本を何でもいいから1冊読んでおくのとそうでないのでは、全く接し方が違うと思う。ぜひお薦めしたい。

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書評262:宮崎市定『中国に学ぶ』

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書評262 宮崎市定

『中国に学ぶ』

(中公文庫BIBRIO、2003年)

ブログ友だちの蓮さんの記事で宮崎市定が取り上げられており、そういえば中国関連は現代ものばかりで古典は読んでないなと思い、手に取る。
とは言っても、研究書ではなくエッセイだけど。


【著者紹介】
みやざき・いちさだ (1901― 1995年) 中国史・東洋史学者。京都大学名誉教授。
1925年京都大学文学部東洋史学科卒業。44年京都大学文学部教授、その後パリ、ハーバード、ハンブルク各大学などで客員教授を歴任。「京都学派」の中心的研究者として東洋史研究をリードした。89年文化功労者。
主著に『科挙』『アジア史概説』『雍正帝』『中国文明論集』など。


【目次】
1 思想/2 歴史・民俗/3 人物/4 書物/5 時事/6 中国と欧米/7 師友を偲ぶ―中国を学んだ人々


【本書の内容】
中国を学ぶことは、中国に学ぶことに終る。ただし中国に学ぶとは、何もかもすべてを肯定することではない。山なす泥沙を流し、洗い、淘げて、最後に護るのは一撮みの黄金に過ぎぬように、真に学ぶに値するものは、長い目で物を見、表面ばかりでなく必ず裏面の存在を考えることである―深い認識のもとに、中国の思想、歴史・民俗、人物、書物を語り、政治・時事について論ずる。今日の中国理解への貴重な手掛りを示す、達意の文章で碩学が綴った名エッセイ集。


お薦め度:★★★☆☆

【本書の感想】

<全体の感想>
中国に関する様々な話題を縦横に語っており、人によっては興味ある話題とない話題が混在しているエッセイ集だろう。
個人的には、1〜3章までは面白く読んだが、5章の時評(文化大革命!)は世代ギャップでピンとこないし、7章の中国関連人物論はそもそもそういう人たちを知らなかったのでよくわからない。

ということで、拾い読み程度の本かなと思うが、次はちゃんとした研究書も読んでみたい。
以下では、中国思想の特質について膝を打った箇所があったので、覚書程度に抜いておく。


<「中庸」の世界では対立は存在しない>
著者が中国思想(儒教)の特質として強調するのは、荀子の説いた「中庸」という思想である。人間の徳たる「中」は、これを永遠に繰り返しても支障を生じないという時間的原理=「庸」に裏打ちされて、はじめて真の「中」たりうるという。
最上の善は礼ただ一点であり、中庸はその具体的な規範である。従って、そこから離れれば離れるほど悪となる。

これを西洋思想(キリスト教)と比較するとわかり易い。キリスト教は一神教と言われるが、本質的には神と悪魔の二元論であり、善と悪は対立せざるをえない。
ところが中国思想の場合、善と悪とは対立するものではない。それは「中庸」への“距離の差”の程度問題である。故に、中国と野蛮な夷狄が対立したとき、中国は相手を征服・圧倒するのではなく、教化するのである。教化すれば、世界の徳は中国が体現する中庸ただ一つなので、こちらに寄ってくると信じるのが中国である。


このように見てくると、中華思想が一個の時空間=宇宙を形成していたというのも何となくわかるし、中国のいい意味でも悪い意味でも鷹揚な態度も理解できる気がする。ただし、対テロ戦争時に流行った「一神教≒西洋=好戦的」、「多神教≒東洋=平和的」という図式への安易な援用は避けなければならないだろう。


<儒教=資本主義、墨家=共産主義>
また、儒教と墨家についても比喩を用いて対比しており、興味深い。

著者によれば、儒教は現代の資本主義そのままであり、墨子の教えは今で言う共産主義に近い。
儒教は人情を重んずる、という口実の下に権力者の欲望にあまりに寛大であり、無力な人民には忍耐強くあれ、と諭しているように見える。
一方の墨子は、この儒教の歪みを訂正しようとして、上に立つ者ほど身を粉にして働かねばならぬと説いたが、その理想があまりにも厳しく、天子の成り手がなくなってしまうためか、漢代以降廃れてしまった。


強者に甘すぎれば猛威を振るうし、厳しすぎれば流行らない。
未だリーマンショックの余波の中にいる私たちは、まさに資本主義と共産主義の歴史そのままだと感じることができるだろう。


<おわりに>
その他、細かい点でも覚えておきたい点も幾つか。
例えば、『史記』の面白さは司馬遷が足で集めた市井のエピソードを積み重ねたところにあり、『後漢書』以降の歴史書が面白くないのは『史記』の記述スタイルだけまねて「足で集める」精神が抜け落ちているからだ、という指摘。

いつか『史記』を読む機会のために書き残しておく。

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